六夜の話・玖
カチャカチャ……
目の前では、魔女とその弟が食事をしている。魔女の方が、「パンが硬い」とか「スープが薄い」とか文句を言っているけど、それも耳を通り抜けていくだけ。頭になんか入らない。
「食べないのかい?」
忘我の体でベッドに座っているあたしに向かって、彼がそんな事を訊いてくる。けど、それに答える気力もない。
頭の中では、先刻魔女に告げられたばかりの言葉が渦巻いている。
(証明されたよ。君が、”かの病”に罹っている事が)
――かの病――
それは、あたし達がいつか罹ると言われる病。精を通じて感染し、肌に朱い花を咲かせ、身体を崩し、正気を奪い、最後には死に誘う。静かに、ゆっくりと。だけど、確実に。
幾人もの先達の生を奪い、今はシェミーやシンディが患う病。
あたしも、それに犯されていると言う。
疑う気持ちは沸かなかった。
いけ好かない魔女だったけど、こんな嘘だけは言わない。
何故か、そんな確信があった。
「ねえ」
誰とはなしに、尋ねる。
「何かな?」
答えたのは、魔女だった。ちょうどいい。そのまま、続ける。
「あたし、病んでるんだよね?」
「そう言っただろう?」
「死ぬのかな?」
「放っておけばね。まあ、進行の遅い病だから、だいぶ後の話になるが」
「……そう……か……」
あたしは大きく息を吐くと、ゴロンとベッドに寝っ転がった。
そんなあたしを見て、意地悪げに魔女が訊く。
「怖いかい?」
「………」
少し考えて、あたしは言った。
「……怖い?そうね。怖い、かな……」
「ほう?」
そんなあたしを見て、魔女が意外そうな声を上げた。
「割とあっさりしているじゃないか。ハールシンギや私を見た時の反応からすると、もっと大騒ぎするかと思ったが」
「………」
答える気がしない。ただ、沈黙だけを返す。
そう。これは、この世界で生きるあたし達にとって運命の様なもの。明確ではないにしろ、何となく決めていた覚悟。だから、心は意外と凪いでいた。いや、むしろ……
「……嬉しそうじゃないか」
「……え?」
言われて、気づいた。
あたしは笑んでいた。微かに。けれど、確かに。
「益な事でもあるのかい?その病に罹る事に」
「益な事……?」
言われて、気づいた。
脳裏を過ぎるのは、シェミーの顔。そして、彼女の言葉。
(わたしはこんな身体だし、何も望まない。でも、気持ちだけは分かってほしい)
あの時は、戸惑いでしか受け止められなかった想い。
でも、今はとてもすんなり受け入れる事が出来た。
そう。あたしは、喜んでいるのだ。
この病を得た事を。彼女と、同じ身体になれた事を。あの娘の想いに、答えられる事を。
ククッ
そう思いかけた途端、自嘲の笑いが漏れた。
カマトトぶるのはやめよう。今のこの想いは、そんな尊いものじゃない。
これは。
この想いは……。
ギシリ
突然、ベッドが軋み沈んだ。
落ちる影。
視線を、上に上げる。
真っ赤な瞳が、あたしを見下ろしていた。
「成程。そう言う事情かね」
いつの間に近づいたのか。魔女があたしに覆い被さっていた。彼女は何かを察した様な顔で、クックと笑う。
「君を想う者も、病持ちか。その想いを受け止めるのに、病が邪魔だったという訳だ」
「……分かるの……?」
「そうだよ。読心の術は初歩の初歩だからね」
空になった食器をまとめていた彼が、こっちも見ずにそう答えた。
ああ、そう。
正直、もう驚く気にもならない。
魔女の方は、変わらず意地の悪い顔で笑っている。
「……何が、可笑しいのよ?」
察してはいたけれど、一応訊いてみる。
「随分、勝手な話じゃないか。お相手が病持ちだからと、即答を迷っておいて。自分も同じ病と知った途端、受諾を決めるなんて」
……予想通りの答え。溜息をつくしかない。
彼女が、わざとらしく小首を傾げた。
「否定しないのかい?」
「……全部、分かるんでしょ?なら、誤魔化したってしようがないじゃない」
「おやおや。いたぶりがいのない子だ」
苦笑いする魔女。でも、本当の事だ。この期に及んで、体裁を繕う気なんてありゃしない。
そう。あたしがシェミーの告白に即答できなかったのは、間違いなくあの娘の病の事が頭を過ぎったから。かの病を自分たちの運命だなどと言っておきながら、矛盾もいい所。確かにあの瞬間、あたしはシェミーを受け入れる事に恐怖を感じていたのだ。それでいて、こんな事になった今は、自分の慰みのためにあの娘を受け入れようとしている。
醜悪だな。
本当に。
自嘲の笑みと共に、一筋の涙が頬を伝った。
「まあ、そんなに自己嫌悪する事でもなかろうさ」
そう言いながら、魔女がギシリと身を起こす。
面白そうな口調で、そんな事を言う彼女。その顔には相変わらず、性根の悪そうな笑みが張り付いたまま。
「人間など、いくら良く言った所で所詮自己愛の塊さ。私としては、そんな君の有り様にはむしろ好感を覚えるよ」
魔女なんかに褒められたところで、嬉しくも何ともない。あたしは目を背ける様に、横を向く。
魔女は、そんなあたしをニヤニヤしながら見ていたけれど、しばらくして不意に口を開いた。
「……生きたいだろう?」
「……え?」
その言葉に、思わず視線を戻す。
そんなあたしに向かって、魔女は言う。
「答えなくていいさ。既に確認済みだ」
そして、身につけていたローブの裾に手を入れると、何かを取り出した。
それは、小指半分程の小瓶。中が、琥珀色に澄んだ液で満たされているのが見える。
「さて。取りい出したります、この液体」
それを、あたしの目の前でちらつかせながら、彼女は歌う様に話す。
「これこそ、世にも名高き霊薬、『エリクシア』」
「……エリ、クシア……?」
訳が分からないあたしに、彼女は「そうさ」と頷く。
「一口飲めば、いかなる病もたちどころに癒し、不老長寿をも約束する至高の万能薬だ」
「!!」
思わず身を起こしたあたしに、魔女は妖しくほくそ笑む。
「ふふ。食いついてきたね」
そう言って身を屈めると、あたしに視線を合わせる。間近で輝く、朱色の瞳。吸い込まれる様な感覚が、思考を犯す。
「欲しいかい?欲しいだろう?」
チャポ チャポ
白く細い指の中で、琥珀の液体が揺れる。
それを、食い入る様に見入る。そんなあたしの顎を、彼女の指がクイと上げた。
薄赤い唇が、言葉を紡ぐ。
「欲しいなら、くれてやってもいいよ?」
「な……!?」
目を剥くあたしに、彼女が顔を寄せる。少し身を乗り出せば、口が重なる距離。胸が、ドキドキした。
「私は、君が気に入った。本来なら原則に従って対価が必要な所だが、特別に無償でくれてやろう」
ゴクリ
カラカラに乾いた喉。それが、呻く様に鳴る。
「ただし」
彼女の笑みが、一瞬邪悪を孕む。
「一本だけだ」
気づくと、その手の中には二本の小瓶があった。それを見せびらかしながら、彼女は言う。
「エリクシアは、精製に非常な手間がかかる。私の手持ちでも、二本しかない。そのうちの一本を、君にやろう」
白い指が、あたしに向かって小瓶を差し出す。
震える手で、それを受け取るあたし。
「それで、丁度一人分だ。それより一滴でも少なければ、効果はないから気をつけるといい」
「!!」
その言葉に、ドクリと騒ぐあたしの心臓。それを見透かすかの様に、彼女が冷たく笑む。
「そう。”例の彼女”と分けたりしたら、効果がなくなる訳だ」
「……姉さん」
傍らで話を聞いていた彼が、咎める様な声を出した。けれど、魔女は止まらない。
「かたい事を言うな。遊ばせておくれ」
微笑む彼女の顔は、とても冷たい。その顔が、あたしに向き直る。
「言ったろう?私は、”君”が気に入ったんだ」
ギシリ
軋む音と共に、魔女が隣に座る。伸ばされた手が、あたしの肩を抱き寄せた。
「何。気に病む事はない」
耳に寄せられる、薄い唇。耳朶に当たる吐息が、酷く冷たい。
「人には、神に決められた運命と言うものがある。君は選ばれた。その娘は選ばれなかった。それだけの話だ。それに……」
楽しそうに歪む、朱い瞳。あたしに身を絡ませながら、魔女が囁く。
「その娘は、君を愛していると言うのだろう?それならば、君が自分を差し置いて生き続けても、喜びこそすれ恨む道理はない」
心を蕩かせる様な、甘い響き。魔女、否、悪魔の声が脳漿を揺らす。
「今なら、君の病を知るのは私達だけ。何をしても、咎める者はいない」
小瓶の乗った、あたしの手。それを、握り締めさせる様に魔女の手が包む。
「さあ。”こっち”へ、おいで」
酷く冷たい手。仲間を招く、死者の様だと思った。