六夜の話・伍
声を聞いて振り返った時は、本当にビックリした。
何せ、全身真っ黒の人影が地面の暗がりからヌッと立っていたのだから。正直、ハールシンギとは別口の化物が出たのかと思ったくらいだ。シェミーも同じ様に思ったのだろう。目を丸くして、息を飲んでいる。
しばし、そうやって硬直するあたし達。
すると、見かねた様に影法師が口をきいた。
「本当に大丈夫かい?特にそっちの君、腰が抜けてる様だけど」
涼やかな声だった。中性的過ぎて、一瞬、男か女か迷うくらい。まあどっちにしろ、意思が疎通出来ると言う事は一応人間ではあるんだろう。
よくよく見れば、影の様に見えたのは丈の長い黒の外套。顔も、黒いつば広帽を被っているので見えないだけだ。ちょっとだけ、ホッとする。
でも、相手が人間だからと言って油断は出来ない。この世の中、化物よりも人間の方が危険な事なんて、ザラにある。特に、あたし達みたいな女性にとっては、一歩外に出れば周りは危険だらけなのだ。
まだ足が言う事をきかないあたしを庇う様に、シェミーが間に立つ。身構えながら、慎重に声をかけるシェミー。
「あなた、誰?」
その言葉に、影法師が言う。
「警戒してるのかい?大丈夫。害意はないよ」
「それなら、顔を見せて」
「ああ、ゴメンゴメン」
そう謝ると、影法師は目深に被っていた帽子をクイと上げた。
その下から現れたのは、あたし達と同い年くらいの男の子の顔だった。
「これで、いいかな?」
その少女の様な風貌と柔らかな物腰に、あたし達はようやく警戒を解いた。
「大丈夫?セシル」
「う、うん……」
シェミーに支えられて立ち上がった、あたし。まだ膝はカクカクするけど、何とか歩けそうだ。
「ほら。忘れちゃ駄目だよ」
男の子が、傍らに転がっていた酒瓶を拾って渡してよこした。
全く。こんなもののためにあんな目にあったかと思うと、実に腹立たしい。本当なら地面に叩きつけてやりたいところだけど、それをやっちゃあ今度はエイブラムに怒鳴られる。全くもって、忌々しい。
せめてもの抵抗として、あたしは心の中でアカンベをした。
「ありがとう」
酒瓶を受け取ったシェミーが、お礼を言う。礼儀正しい娘なのだ。
それはそれとして、あたしは確かめたい事があった。
「それにしてもさ……」
「ん?」
「ハールシンギは、何で消えちゃったの?もう絶対駄目だと思ったのに」
「ああ、あれかい?」
そう言って、男の子は外套の下からするりと手を出した。
「これを使ったんだよ」
「え……?」
「これって……」
男の子の手にあったのは、小さなラッパだった。
「ハールシンギはラッパの音が嫌いでね。これを吹くと消えるんだ」
「へ?」
「そんな事で?」
「知らなかったのかい?」
いや、普通知らないし。そんな事。
「まあいいや。なら、これあげるよ」
「きゃっ!!」
男の子が放ってよこしたラッパを、あたしは慌てて受け取る。
「あ、ありがとう」
「まあ、じきに必要なくなるけどね」
「え?」
「いや。それよりも……」
今度は、男の子があたし達に訊いてくる。
「この先に宿があるって聞いたんだけど、この道でいいのかな?」
「あら?」
「あんた、お客?」
「おや?君達、関係者かい?」
関係者も何も、この先の宿って言ったらあたし達の所しかない。
「丁度いいね。案内してくれないかい?」
「それは構わないけど……」
「その歳で宿通い?あんた見た目によらず、好き者ね」
「?」
とにもかくにも、男性が加わったのは心強かった。そのお陰かどうかは定かではないけれど、後は何の事故もなく宿までの帰路をたどる事が出来たのだった。
「こんな時間まで、何してやがった!!もう少し遅かったら、鍵をかけて締め出してやる所だぞ!!」
帰り着いてドアを開けるなり、エイブラムの怒鳴り声が飛んできた。
「すいません。ご主人」
大人しくて礼儀正しいシェミーは素直に謝るけれど、あたしはそうはいかない。あんな目に合った後じゃあ、尚更だ。とは言え、反抗した所で事態は面倒臭くなるだけ。なので、謝る代わりに別の言葉でご機嫌を取っておく事にする。
「そんなに怒らないでよ。ほら、お客連れてきたから」
「何!?」
あたしの言葉を聞いたエイブラムが、目の色を変える。久々の金蔓とは言え、現金な事だ。
「ほら、入ってきて」
あたしが促すと、彼はキョロキョロしながら入ってきた。
「あ~。宿ってこういう事か……」などと呟く声が聞こえた様な気がしたけど、気づかない振りをした。
「何だ。餓鬼じゃねぇか」
途端に、渋い顔になるエイブラム。まあ、分かってたけど。
「そんな顔しないでよ。お客はお客じゃない」
「客ってのは、金を持ってる奴の事を言うんだ。こんな餓鬼が、金を持ってる筈がねぇだろうが」
まあ、言わんとする事は分かる。彼、お金は持ってるんだろうか。
「ああ、お金かい?」
あたしの心配を察したのか、彼がテクテクとエイブラムのいるカウンターに近づいていく。あたしやシェミー。そして他の娘達が見つめる中で、彼は外套の中から大きく膨らんだ布袋を取り出した。
「これで、足りるかな?」
そう言って、エイブラムの前で袋を返す。
途端――
ジャラジャラジャラッ
大きな音を立てて布袋の中から出てきたのは、何と大量の金貨。見た事もない数だ。幾らになるのか、あたしじゃ想像もつかない。
「な……」
当然と言うか、何と言うか。エイブラムはもちろん、その場にいる皆の目がカウンターの上の煌く小山に釘付けになった。
「へい、お坊ちゃん。こんな遅く我が館にようこそ。腹は減っちゃいませんか?上物のビーフと真っ白いパンがありますよ?それとも、お酒でも?お望みであれば、秘蔵の一本をお出ししますが?」
……何と言うか、分かっちゃいるけどエイブラムの変わり身の早さには呆れてしまう。とは言え、仕方ないと言えば仕方ないかもしれない。あんな量の金貨、あたしだって生きてる間に見れるなんて思わなかった。ほら。他の娘達も、エイブラムと同じ目をしている。きっと、あたしも。
ああ、卑しいなぁ……。
そんな事を思い悩んでいると、彼がこんな事を言った。
「食事はいいよ。済ませてきたんだ。お酒も、遠慮しとく。取り敢えず、部屋を取らせてもらいたいんだけど……」
「ああ、そうですね。長旅でお疲れでしょう。早速、最高のお部屋を……」
けれど、この言葉にも彼は首を振る。
「いや。部屋はどんなのでも構わない。なるべく、遠い所にある部屋を当ててくれないかな?」
「へ?遠い部屋ですか?」
「そう。なるべく、他の部屋に物音が届かないくらいの」
「………?」
一瞬、不審そうな顔をする。エイブラム。けれど、すぐに何かを合点した様にいやらしく相好を崩す。
「ああ、そういう事で。分かりました。宿の一番端にあるお部屋をご用意しましょう。それで、”そちら”の方は、どちらを?」
「?、どちら?」
「またまた。おとぼけになって。こちらの方ですよ」
そう言って、エイブラムは部屋にいるあたし達を示す。
「ほら。なかなか良いのが揃ってますでしょう?どうぞお好みのを。何でしたら、何人かまとめて選んでも結構ですよ」
「………?」
彼はしばしポカンとしていたけど、やがて納得した様に頷いた。
「ああ。そういうシステムだったね。こう言う所は」
そう言って、しばしあたし達をジッと見渡す。黒い帽子の下の彼の顔は、半分が帽子と同じ色の髪の毛に隠れている。その隙間から覗く顔は、整ってはいるけれど仮面の様に表情が乏しい。それに、あんな怪異を前にして異常に落ち着いていたのも気にかかる。助けてもらって言うのもなんだけど、正直な所、些か怖い。
チラリと見ると、シェミーも同じ思いなのかもしれない。ちょっと、俯いている。対して、事情を知らない皆は目をギラギラさせて彼を凝視している。アピールする気満々だ。
仕方ないかもしれない。他所に音が聞こえない部屋を注文するあたり、明らかにまともじゃない事をされそうだ。けど、それに耐えて気に入られれば相応のチップをもらえるのも確か。ほとんどは例の如くエイブラムに取り上げられるだろうけど、上手くすれば金貨の一枚くらい懐に入れられるかもしれない。
滅多にないチャンス。皆、必死なのだ。
しばしの間。そして、彼がス、と手を上げる。
「じゃあ、君でいいや」
白い指が指した先には、あたしがいた。