六夜の話・参
数日前に炭鉱で起こった落盤事故は、街が出来て以来の惨事となった。確認された死者は、21人。怪我人の数は、およそそれの倍。行方不明者も多数出ていた。そして、確認された死者の中にはアドレーの名もあった。
宿は、今夜も閑古鳥が鳴いていた。
炭鉱の事故以来、夜に出歩く人はほとんどいなくなっていた。理由は一つ。現場で生き残った者達の何人かが、声を揃えて言ったのだ。
――「ハールシンギを見た」――と。
死んだ炭鉱夫達が、事故の前に同じ事を話していたと言う証言も拍車をかけた。
話はまるで疫病の様に街に広まり、ハールシンギに行き合う事を恐れた人々は夜に出歩く事を控える様になっていた。
「……今日も、客は来そうにないわね」
宿の窓から街を見やって、シンディが言った。
釣られて、あたしも窓の外を見る。いつもなら、離れたここまで聞こえる筈の街の喧騒。それが、今は聞こえない。ひっそりと静まり返る街は、まるでゴーストタウンの様だ。
「……シンディは、信じてるの?」
「ん?」
怪訝そうな顔をして、シンディがあたしを見下ろす。彼女は、あたしやシェミーよりも三歳年上。綺麗な娘だけど、歳が上と言う事はそれだけこの仕事が長いと言う事。その目は疲れ果てて濁り、諦観の色が濃い。
「何をさ?」
彼女が、問うてくる。
答えは勿論、決まっている。
「ハールシンギの事……」
あたしの答えを聞いたシンディが、クスリと笑う。
「何だい?アドレーを連れてかれて、悔しいのかい?」
茶化す様な声音。あたしは、わざとらしく膨れて見せる。
「そんなんじゃないわよ。ただ、シンディはどう思ってるのかなって……」
「ふふ。あんたの相方は、信じてるみたいだけどね」
そう言ってシンディが促す方を見てみると、カウンターに頬杖をついたシェミーが何やら物思いにふけっている。大方、ハールシンギの正体にでも思いを馳せているのだろう。
「不思議ちゃんよね。あの娘は」
「そこがいい所なんだけど……」
「面倒な所でもあるってか?いいじゃない。良い所も悪い所も、広い心で受け止めるのが愛を長く続けるコツよ」
「もう。また、そんな事を……」
この女、こうやってしょっちゅうあたしとシェミーの仲をからかってくる。何度も、あたし達はそんなんじゃないって言ってるのに。
「あはは、怒るな怒るな。質問には、ちゃんと答えてやるから」
むくれるあたしの頬をつつきながら、シンディは言う。
なら、さっさと答えろっつうの。
でも、そんな憤りも次の彼女の言葉の前に消えた。
「そうだね。信じるっていうか、本当ならいいなって思ってるよ」
「……え……?」
「会ってみたいのさ。そのハールシンギって奴に」
「な……何で……?」
思わず訊くあたしに、シンディは笑みを向ける。光のない、病んだ笑みを。
「ハールシンギに会ったら、不幸になるんだよ!?それなのに、どうして……」
「今の私達以上に不幸な状況って、どんなのだろうね?」
「……え?」
「乞食みたいに、食えなくなる事かい?浮浪者みたいに、雨風を凌げなくなる事かい?そうだね。偉い方々は言うね。そんな連中に比べれば、私らは恵まれてるって。でも、違うよ。そんなのは、脳味噌のないお偉方の誤魔化しで、詭弁さ」
言いながら、シンディはもう一度、窓の外に目を向ける。遠い街を見つめる目は、暗い光にギラギラと燃えていた。
シンディは、元々貴族の生まれだったらしい。家が没落して、こんな所に流れ着いたけど、相応の教育は受けている。そして何より、元から貧民の生まれのあたし達に比べて、広い世界を知っていた。
その知識を持って、彼女は語る。
「世の中はね、等価交換なんだよ。何の事はない。私らは、食うために、身体と自由を売っている。乞食さん達は、これ以上ないくらい自由な代わりに、毎日の飯がままならない。それだけの話さ。私らと乞食との違いなんて、家畜の豚と野良犬くらいの差しかないんだよ」
そう。あたし達の財産は、この身体だけ。それを削り売り、あたし達は生きている。その唯一の財産も、荒くれ者に苛まれ、病に蝕まれ、望まぬ児を堕ろす事によって朽ちていく。朽ちてしまえば、もう終わり。ボロクズの様に、捨てられるだけ。その末路に、乞食や浮浪者との差はない。彼らとは、ただ生きる形が違うだけ。同じ、現世の吹き溜りでもがく畜生だ。
「だからさ、思うんだよ。今これ以上の不幸なんて、死ぬ事くらいだろう。それならいっそ、連れてっちゃくれないかってね。このまま病でジワジワ正気を失うくらいなら、まともなうちに小鬼の行軍に加わるのも一興じゃないかってね」
シンディがそう言って笑った時、あたしは気がついた。彼女の肩に浮かぶ、禍々しい赤い模様に。
ああ、そうか。この女も……。
「まあ、そんな事言っても、現実には自分で首括る度胸もない訳だけどね」
そう自嘲して、ペロリと舌を出す。
そんな彼女に、あたしはもう返す言葉がなかった。
「ああ、畜生!!これじゃあ、ランタンを炊くだけ油の無駄だ!!おい、錠をかけろ!!今夜は、もう閉めるぞ!!」
二本目のバーボンを空けたエイブラムが、苛立たしげな声で言う。
それに応じて、パタパタと店仕舞いを始める皆。そんなあたし達に向かって、エイブラムは怒鳴り散らす。
「おら!!店仕舞いが済んだら、とっとと寝ろ!!明日の朝飯はねえぞ!!稼ぎのない奴に食わせる余裕なんざ、ウチにはねぇんだからな!!」
ああ、もう。分かったから、がなるなよ。
酒で濁った男の八つ当たりは、耳に障る。それから逃げる様に、あたし達は自分達の寝室に戻った。
部屋もベッドも、仕事と私用の兼用だ。カビと男の身体の臭いが染み付いた毛布に潜り込む。この調子だと、しばらく食事は一日一回だろう。本当に、乞食と大差ないな。そんな事を思いながら、あたしは眠りについた。
それから、どれだけの時間が経っただろう。
ガタ…… ゴト……
遠くで聞こえた音に、あたしは浅い眠りから目覚めた。
「ん……、何ぃ……?」
寝ぼけ眼を擦りながら、耳を澄ます。
ゴト……ゴト……
下の階で、動く気配。何だろう?誰か、喉でも乾いたのだろうか。
ガチャリ
戸が、開いた。窓に寄り、下を覗く。
夜闇の中で、淡い光が浮いている。ランタンの光だ。目を凝らす、光の中で揺れる黒髪が目に入った。
開いた扉の向こうは、闇が支配していた。ただの闇ではない。すす臭い、澱んだ闇。空を見上げても、そこには月も星も見えない。厚く重なるスモッグに覆われた空は、地上と同じ様に爛れている。いや、もはやこの世界に爛れていない場所などないのかもしれない。
ランタンを掲げ、遠くを見る。闇の中に、黒く浮かび上がる街の影。漂う煤に霞む外灯の光が、そこへ向かって点々と続いている。この道で、アドレーは”あれ”に会ったと言う。それなら、自分もこの道を辿れば……。
遠くの街の影を見つめ、足を踏み出そうとしたその時――
「シェミー!!」
聞き慣れた声が、わたしの背を打った。
「シェミー、何処へ行くのよ!?こんな時間に!!」
あたしは寝間着姿のまま、ランタンをぶら下げたシェミーに駆け寄った。
そんなあたしを、シェミーが見やる。何処か虚ろなその目が、妙に気になった。
「ホントに。そんな格好で……。ほら、部屋に戻りましょう」
「放っておいてよ。街に、行くんだから……」
引き戻そうとするあたしの手を振りほどいて、シェミーは言う。
「何言ってんのよ!?ほら、今はハールシンギが出るんでしょう!?行き合っちゃったら、どうするのよ!!」
あたしがそう言うと、シェミーは薄く笑った。
「そうよ。わたし、ハールシンギに会いに行くの……」
その言葉に、ギョッとした。何を言っているのだ!?この娘は。
「馬鹿な事、言わないでよ!?ハールシンギに会ったらどうなるか、知ってるんでしょう!?」
「それが望みなのよ!!」
突然の叫び。あたしは、絶句する。
「アドレーは死んだわ!!不幸になって!!それなら、わたしだって死ねる筈!!」
「シェミー……」
叫び続けるシェミー。その瞳に、微かな狂気を見たのは気のせいだろうか。
「見て!!」
呆然とするあたしの前で、シェミーが胸をはだける。ランタンの光の中に浮かぶ、白い膨らみ。そこには、数を増した赤い模様が幾つも見えた。
シェミーは言う。泣き叫ぶ様に。
「最近、身体が怠いし、痛いし、熱が続いてる!!それに……!!」
言葉と共に、自分の髪を掴む。すると、
ズルリ
嫌な音がして、沢山の髪が抜けて落ちた。
息を呑むあたし。病が進んでいる事は、明白だった。
「あはは、笑えるでしょう!!どんなに気張って見せたって、現実はこれよ!!」
笑うシェミー。その目に、光るものが見える。
「終わり!!終わりなの!!このままわたしは醜く爛れて、気が狂って死ぬんだわ!!」
彼女の手から、ランタンが落ちる。油がこぼれて、血の様に赤い炎が燃え上がった。
その禍々しい光の中で、シェミーは笑う。涙を、こぼしながら。
あたしはただ、その様を呆然と見つめる。
「嫌!!そんなのは嫌!!そんな目にあうくらいだったら、今すぐに死ぬ!!」
「シェミー……」
「だから!!だからね!!連れて行ってもらうの!!ハールシンギに!!地獄の鬼達に!!今すぐ、連れてってもらうの!!」
「シェミー!!」
もう、耐えられなかった。あたしはシェミーに飛びつくと、彼女を力いっぱい抱きしめた。
「放して!!」
「放さない!!」
「何も、分からないくせに!!」
「分からない!!今は!!でも、分かって見せる!!」
シェミーの叫びを、それ以上の大声で押し潰す。
「分かってみせるから。あなたの苦しみも。痛みも。怖さも。全部、全部分かって、受け止めて見せるから!!
「!!」
「だから!!だから、そんな事言わないで!!逝ってしまうなんて、言わないで!!」
「セシル……」
「お願い……。あなたが、あなたが逝ってしまったら、あたしは……」
ガクリ
シェミーの足から、力が抜けた。
抱き合ったまま、あたし達は地面に崩れ落ちる。
「ごめん……。ごめんね……」
あたしの胸に顔を埋めて、シェミーは泣く。
「怖い……。怖いよ……」
「うん……。怖いね……。怖いよね……」
「死にたくない……。壊れたくないよぉ……」
「大丈夫……。大丈夫だから……。あたしがずっと、ずっと側にいるから……」
そう。壊れたい筈なんてない。まして、死にたい筈なんてある筈もない。生きたいのは、皆同じ。普通に。ただ普通に、生きたいだけ。だけど、それすらもままならない。それすらも許されないのなら、どうすればいいのだろう。
その答えに行き着くには、あたし達はあまりに小さくて。
その真理に行き着くには、あたし達はあまりに無力に過ぎて。
月も、星も見えない空の下。
あたし達には、ただ泣く事しか出来なかった。
「さあ、部屋に戻ろう。今夜は、ずっと一緒にいてあげるから」
落ち着いたシェミーを促して、宿へと戻る。
後ろ手に戸を閉めようとしたその時、
ジャン ジャン ジャン
何処か遠くで、樂の音が聞こえた気がした。