六夜の話・壱
目を覚ますと、薄暗くて薄汚れた天井が見えた。ボロ切れの様なカーテンの隙間から、細々と差し込む太陽の光。横を見れば、アドレーが薄汚い裸を晒して、これまた埃塗れのベッドに身を沈めて大いびきをかいている。
見慣れた光景。いつもの朝。また、憂鬱な一日が始まる。
「じゃあな。また来るぜ」
そう言って、アドレーは宿を出て行く。
「ありがとう。待ってるわ」
あたしは店の出口まで見送り、お決まりの社交辞令。本当は、あんな乱暴で臭い男はウンザリだ。炭鉱で落盤にでもあって、死んでしまえばいい。随分前からそう思っているけど、あいつは変わらず通ってくる。ままならないものだ。
あいつが去った方向に小石を蹴飛ばして、扉を閉める。踵を返すと、いつの間に来たのだろう。そこにエイブラムが立っていた。
「仕事は済んだのか?セシル」
無精髭だらけの顔で、訊いてくる。息がヤニとアルコールで濁ってる。あんまり近くで口をきくな。
無論、宿主かつ雇い主である彼にそんな口がきける筈もない。取り敢えず、「ええ」とだけ答えておく。
「そうか」
そう言うと、エイブラムは血色の悪い手を差し出してくる。
「よこしな。昨夜の稼ぎだ」
あたしはポケットに手を突っ込むと、銅貨を数枚取り出す。それを渡すと、エイブラムは胡乱な眼差しであたしを睨んだ。
「誤魔化すんじゃねえよ。お前なら、もっと巻き上げられただろう。全部出すんだ」
チッ
あたしは小さく舌打ちすると、さらに数枚の銅貨を取り出してエイブラムに渡した。
「よしよし。いい娘だ」
そう言って銅貨を数えると、彼はそのうちの一枚をあたしに放った。
「そらよ。今回の取り分だ」
「ありがとう」
心にもない言葉を言って、それを受け取る。毎晩、文字通り身体を張って稼いだお金。それも、こうやってほとんどがピンハネされる。全く、やってられない。
そんななけなしの身入りを手に、エイブラムの横を通り過ぎる。すると、彼が言った。
「おい。飯はちゃんと食っておけよ。お前にゃあ、今夜もしっかり稼いで貰わなきゃあいけねぇんだからな」
「はいはい」
適当にそう答えると、あたしは食堂へと足を向けた。
食堂には、もう他の娘が何人か来て食事をしていた。
「あら、おはよう」
「昨夜も、お盛んだったみたいね」
口々にそんな軽口を叩いてくる彼女達の顔も、疲れ切っている。彼女達も、今の今まで客の相手をしていたのだろう。ギリギリの所で生きているのは、皆同じ。
「おはよう。あんた達こそ、腰は大丈夫?昨夜は随分、悲鳴を上げてたみたいだけど」
あたしも軽口を返しながら、テーブルについた。
食事とは言っても、毎日のお決まり。薄い野菜スープに、硬いライ麦パン。そして、半分干からびたチーズが一切れと言った様なもの。
あまり食欲が湧くものでもないけど、それでも大事な糧には変わりない。世間では、一粒の麦さえ自由にならない人達がいる。食べられるだけ、良いと思わなければ。
あたしがゴムの様なパンと格闘していると、また一人食堂に入ってきた。
この辺りでは、割と珍しい黒髪。長いそれを頭の両側で結ったその娘は、あたしを見ると綺麗な顔でニコリと微笑んだ。
「おはよう。セシル」
「んぁ。おふぁほう」
千切れないパンに齧り付いたまま、答えるあたし。そんなあたしを見て、その娘――シェミーはまたクスリと笑った。
「ねえ、セシル。知ってる?」
食後のティーならぬただの水をすすってるあたしに、隣に座ったシェミーが話しかけてきた。
「ん?何を?」
シェミーはあたしと同じ15歳。この宿では唯一の同い年で、一番仲がいい。だから、こうやって自由が効く時間は、大抵一緒にいる。せめてもの、憩いだ。
「昨夜、バートから聞いたんだけどね……」
バートと言うのは、宿の馴染み客の一人。東洋人とのクォーターで、同じ東洋の血が入っているシェミーを気に入っている。まあ、こんな所に入り浸ってるあたり、真っ当な人生を送っているとは言い難い人物ではあるけど。
そのバートに付けられたのだろう。白い首にくっきりと浮かぶキスマークを気にしながら、シェミーは悪戯っぽく声を潜める。
「一昨日の夜ね、街で『ハールシンギ』が出たそうよ」
「はーるしんぎぃ?」
その単語を聞いて、あたしは思わず素っ頓狂な声を上げた。
『ハールシンギ』と言うのは、夜中に現れて街を練り歩く小鬼の集団の事だ。これに行き会うと、出会った者には近く不幸が訪れると言われている。
「何よ。バートの奴、いい年してそんな御伽話信じてるの?」
「バートも又聞きよ。何でも、夜遅くまで飲んでた酔っ払いが行き会ったんですって。その酔っ払い、今朝方に川で溺れ死んでるのが見つかったとか」
そんな事を言いながら、シェミーは「怖いでしょ~」などと言って凄んでくる。
「はん。ばっかばかしい」
けれど、あたしは鼻を鳴らして笑い飛ばす。
「それこそ、どっかのアル中オヤジの妄言よ。バートは臆病だから、信じ込んでんでしょうよ」
そんなあたしの反応を見て、シェミーはつまらなそうに口を尖らせる。
「あ~、もう。ノリが悪いんだから。セシルは」
「そんな与太話に付き合えるほど、純じゃないわよ。大体、夜に出歩けないあたし達には関係ない話じゃない」
「それはそうだけど……」
「大体、あたしには小鬼なんかよりも……」
そう言いながら、あたしはシェミーの襟元を引っ張った。
「きゃっ!!」
わざとらしく、黄色い声を上げるシェミー。広げた襟元。そこから覗く、淡いけど形のいい膨らみ。その裾野に、数個の赤い模様がポツポツと浮いていた。
それを睨み、あたしは言う。
「”こっち”の方が怖いわ……」
「………」
あたしの言葉に、シェミーははにかむ様に微笑むと、そっと胸元を隠した。
「……気づいてたんだ……」
「………」
無言で頷くあたし。
「それ、いつからよ……」
「3ヶ月くらい、かな……?」
問うあたしに、シェミーはそう答えた。
「いつかはって、覚悟してた事だから……」
怯えるでもない、静かな言葉。あたしは、黙って唇を噛む。
そう。”これ”は、”あたし達”の運命の様なもの。
幾多数多の男を受け入れるうちに、いつしか宿る病。赤い模様はいつしか膿持つ湿疹に変わり、三年かけて身体を崩し、十年をかけて、最期には心を壊す。
そうやって正気を失い、ゴミの様に捨てられる先達の姿。それを、あたし達は繰り返し見てきた。
いつかは自分達もと、思いながら。
そう。これは決められた事。
今のこの生き方を、選ばざるを得なかった時から。
それが、シェミーはあたしより少しだけ早かった。
それだけの事。
あたしは深い溜息をつくと、シェミーの髪をサラリと撫でた。
「おら、お前達!!いつまでものらくらしてんじゃねぇぞ!!掃除に買い出し!!やるこたぁ幾らでもあるんだ!!」
食堂の入口で、エイブラムが怒鳴る。
バタバタと動き始める、皆。あたしとシェミーも、口の中のものを慌てて飲み下して席を立つ。
「おう。今日の買い出し係はセシルだったな」
そう言って、エイブラムはあたしの手のひらに銅貨を数枚落とす。
「昼前にゃ、帰ってくるんだぞ」
それだけ言って、自分の部屋へと戻っていくエイブラム。また、昼間から酒をかっくらって一人ブツブツとくだを巻くんだろう。
逃げてしまおうかと、思った事はある。でも、それをした所でどうなるだろう。あたし達に、行く場所などない。野垂れ死んで野良犬の餌になるか、良くても別の宿に収まるのが関の山だ。それを知っているから、エイブラムも多くを言わない。
そう。あたし達には、何もない。
居場所も。
生きる意味も。
未来さえも。
宿の戸を開けて、外に出る。
見上げた先に広がるのは、スモッグに霞む爛れた空。
まるで、あたし達の人生の様。
ガラクタだらけの街外れ。街の中心に向かって、歩き出す。
今日も、憂鬱な一日が始まる。
そして、明日も繰り返す。
明後日も。その先も。
何も、変わらない。
この心が朽ち果てる、その日まで。
そう、思っていた。
そう。
あの日が、来るまでは。