五夜の話・終
ねえ。汐音。
あなたとの、約束だったよね。
ずっと一緒だって。
あたしはあなたと、ずっとずっと、一緒にいるって。
あなたは、約束を守ってくれた。
約束どおり、あたしを守ってくれた。
だから、あたしも守るよ。
あなたとの、約束を。
訃月が、見つめていた。
夜行も、見つめていた。
鬼達も、見つめていた。
その視線の先に、朱里がいた。
深々と落ちる外灯の光。その中に幽鬼の様にまろび立ち、ハァと深く息を吐いた。
その様子に、訃月は異変を感じる。
見れば、先までその胸にかき抱いていた筈の”彼女”の姿がない。何処に行ったのか。朱里が手放す筈はない。あれは、最早”彼女”が存在した唯一の証なのだから。では、何処へ行った?”彼女”は、何処へ行ったのだ?
ペロリ
朱里が、舌舐りをした。その舌が、異様に朱い様な気がしたのは気のせいだろうか。口周りが、赤く汚れている。その汚れを朱里が手でグイと拭った時、訃月はようやく理解した。
理解、してしまった。
「まさか、お前……」
戦慄く口で、呟く。
「”喰った”、のか……?」
ニタリ
その言葉に、朱里が笑みを浮かべる。壮絶な、笑みを。
「自分で、『鬼』に堕ちたのか!?」
訃月が叫んだ瞬間、
バチンッ
外灯が、悲鳴を上げて弾け飛んだ。
唯一の光源が消え、辺りが夜闇に落ちる。深まっていく闇の中で、朱里が言った。
『そうだよ』
酷く、淡々とした声だった。
『だって、これしかなかったもの。汐音と、ずっと一緒にいる方法は』
「馬鹿野郎……!!汐音は、そんな事……」
『分かった風な事、言わないで』
訃月の呻きを、朱里は一蹴する。
『これは、あたしの願い。汐音の願い。その形。否定する事は、許さない』
「だけどな!!」
『黙れ』
ビシッ
訃月の頬を、鋭い衝撃が打つ。一筋の傷がパクリと開き、朱い雫が流れた。それを拭い、訃月は深く息をつく。
「もう、届かねぇか……」
その言葉に、朱里はまたニヤリと笑う。暗い夜気の中、歪に歪んだ三日月が、酷く赤く、嫌にハッキリと見えた。
『おお……』
訃月の後ろの闇が、感極まった様に呟く。
夜行が、その赤眼を喜びに爛々と輝かせていた。
『姫よ……。ようやく、”我ら”が元に来られたか……』
ジャンコ ジャンコ ジャンコ
主の高揚を表す様に、首なし馬が鈴の音高く訃月の横を通り過ぎて行く。訃月は、止めない。それが、もう無意味な事と悟っていたから。
愛馬を朱里に歩み寄らせながら、夜行は迎え入れる様に両手を広げる。
『さあ、姫。来られよ。我らが元へ。そなたの、永久の安寧の地へ。そして、我らに久遠の導を与えたまへ』
おおぅ……おおぅ……
周りを囲む鬼達が、一斉に歓声を上げる。それは、彼らの愛姫を。そして現への導を。共に手に入れた、喜びの声。
首なし馬が、朱里の前にかしづく。
『さあ、参ろう。姫』
朱里に向かって、夜行が手を差し伸べる。それを見ながら、朱里は首の絞め痕をツルリと撫でる。それは、母が刻んだ現との隔絶の証。同時に、鬼達に現への道を示す導の門。それを撫でながら、朱里は言う。
『そうだっけね。鬼は、導が欲しいんだよね』
白い手が上がり、差し伸べられた手に触れる。
『いいよ。姫に、なってあげる』
『おお……』
夜行が、再び歓喜の呻きを上げたその時、
『だけど!!』
グッ
朱里の手が、夜行の手を掴んだ。爪が喰い込む程に。強く。強く。
そして、正に鬼の形相で言い放つ。
『導には、なってやらない!!』
途端――
グボォアッ
朱里の首から、闇が溢れた。
『うぉあ!?』
「な、何だ!?」
驚きの声を上げる。夜行も。訃月も。そして、鬼達も。
ゴゥッ
溢れた闇は漆黒の旋風となり、辺りの鬼達を巻き込んで行く。細月の空に、蹂躙される鬼達の悲鳴が響いた。
『何を!?姫!!何をぉお!?』
嵐の中、叫ぶ夜行を朱里は爛々と輝く両眼で見据える。
『汐音を殺した鬼を、あたしが許すと思ったか?』
その言葉に怖気ながら、夜行は吠える。
『言ったではないか!!姫になると!!鬼の姫になるとぉおおおお!!』
『ああ。言ったよ。姫になってあげる』
鬼気迫る表情で、朱里は笑う。
『だから、鬼共は膝まづけ!!永遠に!!あたしと汐音の足元に!!』
『き……貴様……!!』
『鬼に、自由など与えない!!あたしの中に囚われ、あたしの命にのみ従え!!今、この時より鬼は……』
そして、統魔の鬼姫は言い放つ。絶対不滅の、言霊を。
『清音朱里の、奴隷だ!!』
『うぉおぉおおおおおおおお――――――っ!!』
絶叫と共に、夜行の姿も黒風の中に飲まれていく。
『おのれ!!おのれ!!おのれぇええええ!!』
せめてもの抵抗の様に、繰り出される爪。けれど、下賎の爪が天に届く筈もなく。
そのまま、鬼の群れと共に夜行の姿は黒風の中へと消え去った。
ビュルルルルルルル……
風は闇となり、闇は痕となり、朱里の首へと戻っていく。そして、
シュウゥウ……
全ての鬼群を首の門へと収め、朱里はハァと息をついた。
「……最初から、そのつもりだったのかよ?」
歩み寄りながら問うてくる、訃月。彼に向かって、朱里は『そうだよ』と寂しげに笑む。
『出来るって、分かってたから』
「やれやれ。おっかねぇ姫様だな」
苦笑する訃月。その胸に、トンと軽い衝撃が走る。
見ると、彼の胸に顔を埋める様にして、朱里がその身を預けていた。
「……どうした?」
問う訃月に、か細い声が言った。
ちょっとだけ。
それだけで、十分だった。訃月は、もう何も言わない。無言の彼の胸で、朱里の肩が震え始める。
『う……うぇ……うぇえええ……』
響くのは、鈴音の様にか細い嗚咽。それを聞きながら、訃月は黙って空を仰ぐ。蒼いまでに暗い空。細く欠けた月だけが、寄り添う二人を見つめていた。
『ああ、あったあった』
地面に落ちていたチョーカー。それを、朱里の手が拾い上げる。
「それ、また付けんのか?」
『うん。やっぱり、痕は目立つから』
問う訃月に、再びチョーカーを首に巻いた朱里が言う。
「……なあ」
『ん?』
「お前、俺んトコに来ねぇか?」
唐突な言葉に、目を丸くする朱里。わざとらしく、ニヤける。
『何それ?プロポーズ?』
「だったら、受けんのか?」
『まさか』
「だろ」
予想していた受け答えだったのだろう。訃月も笑う。そう。この娘が、他人の求愛など受ける筈もない。彼女の伴侶は、もう決まっているのだから。
「単純に、俺らのコミュニティーに来ねえかって話だよ。皆、お前みたいなのの集まりだ。気の良い奴もいるし、良くしてくれるぜ?」
『………』
その誘いに、朱里は少しだけ考えて、やっぱり首を振った。
それも、予想していたのだろう。訃月は苦笑いしながら言った。
「わりぃ話じゃ、ないと思うけどな」
『それでも、あたしが闇に引き篭る事を、この娘は喜ばないよ』
そう言って、朱里は自分の胸を指差す。
「だろうけどな……」
溜息つきつき、訃月は言う。
「結構……いや、かなりキツイぜ?光の下をその身で生きるのは」
『分かってる』
それでも、朱里は笑う。笑って、見せる。
『もう、元の場所には戻れないけど。やってみるよ。やれるだけ』
「そうか……」
話は終わり。訃月もまた、微笑み返した。
「じゃあな。達者でやれよ」
『うん』
「キツくなったら、いつでも来な。歓迎するからよ」
『ありがとう』
そして、朱里は走り出す。真っ直ぐ、日の昇る方向に向かって。
遠ざかる背中。それに、訃月はしかと見ていた。彼女を守る様に寄り添う、長い髪の少女の姿を。
――以来、朱里の姿を見た者はいない――
終わり