五夜の話・漆
――わたしは、孤独だった。
名家と言われる家に生まれ、その家の名に縛られて育った。
親は情が薄く、プライドが高く、それに応じた生き方をわたしに強いてきた。
幼い頃から多くのしがらみに縛られて、周りの人達からは一線を引いた世界に置かれていた。
親は、家の名を守る事ばかりに忙殺され、それらしい愛を受けた記憶はない。
関われるのは、雇われた使用人達やそして塾や習い事の先生達。けれど、彼らもまた、機械的に仕事をこなすだけ。絆など紡げない。
そんな生き方しか知らないわたしが、人並みに友人を作る術など学べる筈もなく。また、同世代の娘達が作るコミュニティも、そんなわたしを拒絶した。
孤独。
それだけが、幼いわたしに与えられたもの。
そんなある日。塾帰り、薄闇が降り始めた路地。その片隅で、わたしはあの娘に会った。
ブォンッ
夜気を引き裂き、朱里に向かって振り下ろされる月鏡。冷たく重い塊が彼女を叩き潰そうとしたその時、
グイッ
月鏡の下から、朱里の姿が消えた。
「!!」
驚いて手を止める訃月。地面すれすれで、月鏡がブワリと土煙を上げる。
驚いたのは彼だけではない。今まさに、光の外に出ようとしていた朱里。彼女を迎え入れようとしていた、鬼達。その全てが、起こった事象に目を剥いた。
――わたしが見つけた時、彼女は暗がりに立つ外灯の光の中で佇んでいた。
その小さな背中を見た時、何かがわたしの中で高鳴った。
今思えば、それが運命というものだったのかもしれない。
胸に灯った高鳴りに背押される様に、わたしは彼女に近づいた。声が届く距離まで近づくと、赤茶色のショートカットが、甘く香った。
緊張に、口が渇く。舌の戦慄きを、無理やり飲み込む。一拍の間。そして、わたしは声をかけた。それまでの自分の、全てをかける思いで。
――「遊ぼ」――
「!!」
振り向いた彼女の、驚いた顔。
わたしはそれを、一生忘れない。
清音朱里は、光の中で仰向けに倒れていた。何が起こったのかは、分からない。光の外に踏み出して、闇に身を委ねようとした、まさにその瞬間。誰かが彼女の左手を握り、光の中へ引き戻したのだ。突然の事に忘我するのは、ほんの一瞬。今も左手を握る、その温もり。間違える、筈が無かった。
――わたしと朱里。形は違えど、孤独な者同士。惹かれ合うのは、当然だったのかもしれない。
わたしの話を、彼女は親身になって聞いてくれた。それに答えようと、わたしも彼女の話を懸命に聞いた。
彼女の話は、とても怖いものだった。けど、嘘をついてるとは少しも思わなかった。むしろ、一番の秘密を話してくれた事が嬉しかった。何よりも、嬉しかった。
闇の呼びかけに、冷え切っていた心。それに、火が灯る様に温もりが戻る。
ああ。
ああ。
やっぱり。
やっぱり、来てくれた。
そう。
逝く筈がない。
”彼女”が、あたしをおいて逝く筈がないのだ。
胸の高鳴りと共に、彼女の手を引く。
「汐音!!」
けれど。
引き寄せたその手は、酷く軽かった。
――以来、わたしの心はいつも朱里と一緒にあった。
心が成長して、その想いの形が変わってきても。
わたし達はその事を不自然だとは思わなかった。
わたしと朱里は一つ。
わたしにとって、朱里は全て。
貴女が悲しみに沈むなら、その涙は全てわたしが受け止める。
貴女が痛みに苦しむなら、その痛みは全てわたしが引き受ける。
貴女が闇に手を引かれるなら、わたしがその手を引き戻す。
そう。何があっても、あなたはわたしが守る。
だから。
だから。
貴女は、わたしの側にいて。
ずっと。
ずっと――
「……そう、くるかよ……」
”それ”を見た訃月が、驚いた様に呟く。
周りを囲む鬼達も、沈黙している。
『おお……』
一つだけの目を剥き、夜行が呻く。
『かくも、恐ろしきものか。人間の情は……』
その視線が見つめるのは、身を起こした朱里の左手。それが、握るもの。
それは、”手”だった。
手首より先のない、華奢な女性の手。
それが、しっかりと繋ぎ合う様に、朱里の左手を握り締めていた。
朱里は、見つめる。自分の手を握る、”彼女”の手を。
闇に向かおうとした自分を、光の中へと引き戻した手。
その想いを表す様に、今だ熱を保つそれ。
「汐音……」
呟く、愛しい名前。
それに答える様に。
握る手から、朱い雫がシトリと落ちた。
「……参ったね。どうも……」
全てを悟った訃月が、独りごちる。
「こりゃあ、下手な真似すりゃ、祟られるどころじゃ済まねぇなぁ」
そして、その鋭い視線は、周りを囲む異形の群れへと向けられる。
「わりぃな。やっぱお前らが消えてくれや」
ブゥンッ
重い風切り音と共に、月鏡が鬼達へと向けられる。鬼の何匹かが、気圧される様に下がる。しかし、頭領である夜行は引く様子を見せない。
「……引かねぇか?」
その問いに、夜行は赤濁の単眼を細ませる。
『……言ったであろ?其が娘は鬼が姫。それが、この世に生ぜし時からの定めよ……』
「厄介なモン、背負い込むぜ?」
『カカ……。我らを何と思うておる?其が程度の情念、飲み干せずして何が鬼か』
揺るがぬ言葉。訃月は、ボリボリと頭を掻く。
「成程。鬼にゃあ鬼の矜持があるか。なら……」
ゴウ
訃月が、手にした月鏡を振るう。夜気が弾け、夜行の衣を揺らした。
「戦るしか、ねぇな」
『さればこそ』
一拍の間。そして、
ジャンッ
首なし馬の鈴が鳴る。
それを合図に、無数の異影が訃月へと雪崩打った。
外灯の、光の前に立つ少年。
彼に向かって、殺到する異形の群れ。迎え撃つ様に、少年が手にした鉄塊を振るう。その威容に見合うだけの重量がある筈のそれが、目に映らない速度で旋回。飛びかかってきた鬼の一群を薙ぎ払う。打たれた者は敢え無くひしゃげ、血塊と肉片となって飛び散っていく。やせ細った月の下で、異形の悲鳴が響き渡った。
眼前で繰り広げられる、凄惨極まる光景。けれど、それを前にして朱里は微動だにしていなかった。その目が映すものは、ただ一つ。
その手の中にある、想いを寄せ合った者の残滓。
先刻、確かに自分の手を引いたそれ。
その時の力は、今のそれにはもうない。さっきまで、確かに宿っていた熱も僅かずつ消えていく。けれど、それに宿る想いを、朱里は確かに感じていた。
「……約束、したものね……」
もはや物言えぬ姿となった彼女に向かって、朱里は囁く。
「ずっと……ずっと、側にいるって……」
その呼びかけに答える様に、彼女が動いた様な気がした。
「汐音は、守ってくれたよね……」
――何があっても、あなたはわたしが守る――
「………」
こみ上げるものを飲み込んで。朱里は言う。
「だから、あたしも……」
彼女の、願いは一つ。
――わたしの、側にいて――
叶える術は、ただ一つ。
「約束、守るから――」
そして、朱里は彼女に唇を寄せた。
ジャンコ
重い、鈴音が鳴る。
巻き上がる土煙。それ突き破り、巨大な蹄が襲いかかる。
「あぶねっ!!」
咄嗟に掲げる月鏡。
ズシンッ
重い衝撃と共に、蹄が月鏡を叩く。その威力を片手で支えながら、訃月は唸る。
「ったく!!いい加減諦めろっての!!」
『かの娘が華開く頃、如何程待ったと思っておる?そう易く諦めると思うてか?』
「執念深すぎるんだよ!!このロリコン野郎!!」
『カカッ!!深き情念こそ、鬼の本質よ!!』
嗤う夜行が駆る首なし馬。その巨体を、訃月は渾身の力で押し返す。
ズシンッ
目の前に落ちる巨躯。その後ろには、光る眼光がまだ無数に見える。それを見て、訃月は舌打ちする。
「チッ!!やっぱ根絶やしにするしかねぇか!?めんどくせぇ!!」
『カカッ!!難儀ならば引くが利口ぞ!!』
「いまさら引けるかっつの!!」
そう吠えて、訃月が月鏡を構え直したその時――
ゾワッ
凄まじい鬼気が、その背を襲った。
「な、何だぁ!?」
一瞬、新手かと思った。しかし、その考えはすぐに思い直される。
怯えていた。
周囲を幾重にも囲む、鬼の群れ。それに、例え様もない戦慄が走っていた。それは、かの夜行でさえも例外ではなく。
『何と……』
呆然と目を見開くその様に、訃月は思わずその視線を追って振り返る。
そこにあったのは、形を成した地獄だった。