五夜の話・伍
カツン カツカツン
千切れたチョーカーが、乾いた音を立てて地面に転がる。
外灯の光の中、崩れ落ちた朱里。震える手で、首を抑える彼女。その眼差しは、焦点も虚ろに周囲を見回す。
それは、先の地獄の再現だった。
深々と落ちる外灯の光。それを囲む様に、無数の異形が蠢いていた。
「おー、おー。こりゃまた、さっきの五割増ってとこか?」
周りを見回しながら、訃月が呑気に口笛を鳴らす。
「あ……、あぁ……」
怯える朱里が、声を揺らす。そんな彼女を値踏みする様に、数多の目がギョロギョロと動く。
『可愛げだねぇ……』
濁った、声が響く。
『ああ。本当に、可愛げだねぇ……』
『愛でてあげるよぉ……。愛しんであげるよぉ……』
『だから、おいでよぉ……。こっちへ、おいでよぉ……』
「ひ……ひぃ……」
光の中には、入れないのだろう。それらは囁き、しきりに手招きする。その誘いから少しでも離れようと、朱里は外灯の柱に背を寄せる。
そんな彼女をなだめる様に、それらは言う。
『大丈夫だよぉ……。大丈夫だよぉ……』
『喰わないからぁ……。喰わないからぁ……』
『そなたは、喰わないからぁ……』
『他のみたいに、喰わないからぁ……』
「……え……?」
ふと耳に入った言葉に、朱里が顔を上げる。
「喰うって……何……?」
誰ともなしに、かけた問い。けれど、それに答える者が一人。
「あ~。この隠里世に巻き込まれた、他の人間達だろ」
「!?」
ハッと目を向ける。そこには、訃月が何でもない顔をして立っている。
「今、この公園は隠里世……一種の結界ん中に取り込まれてるんだけどよ。その時、運の悪いのが何人か取り込まれたからな。そいつらが、喰われたんだろうさ」
「な……!!」
絶句する朱里。その様を見て、訃月は薄く嗤う。
「何、目丸くしてんだよ?鬼が人を喰うなんざ、昔からど定番の話じゃねぇか」
その言葉に呼応するかの様に、”それ”らが囁き始める。
『美味かったねぇ……』
『ああ、美味しかったねぇ……』
『久方ぶりの、人だったからねぇ……』
『男は、硬かったけどねぇ……』
『女は、柔らかだったねぇ……』
『柔らかだったねぇ……』
『甘かったねぇ……』
『美味だったねぇ……』
ゲラゲラゲラ
”それ”らが嗤う。楽しげに。嬉しげに。
その声を聞きながら、朱里は全身の血が下がっていくのを感じていた。
柔らかだった?
甘かった?
何が?
女?
”女”の、肉が?
ガバッ
思うよりも早く、身体が動いた。
急に立ち上がった彼女に、訃月が「お?」と軽く驚きの声を上げる。けれど、そんな事には構っていられない。朱里、目の前で蠢く”それ”に向かって叫ぶ。
「あんた達!!汐音に何をした!?」
怒号にも似たそれに、けれど返るのはクスクスと言った笑いだけ。
「答えなさいよ!!あんた達……あんた達、まさか、汐音を……!?」
戦慄く朱里を、”それ”らの目がキョロキョロと見つめる。
『知りたいかい?知りたいかい?』
『なら、おいで。こっちへ、おいで』
『教えてあげるよ。教えてあげるよぉ……』
「――――――っ!!」
抑えきれなくなる激情。朱里が光の外へ駆け出そうとした、その時。
グイ
襟首が、掴まれた。掴んだのは、訃月。強い力。足が、止まる。
「何、知れた挑発に乗ってんだよ。案外、単純だな。あんた」
呆れた声。けれど、構わない。子供の様にバタつきながら、朱里は叫ぶ。
「放して!!汐音が!!汐音を、助けないと!!」
「しおね?」
一瞬小首を傾げ、訃月は「ああ」、と相槌を打つ。
「あんたの相方か?なら、諦めな。もう、生きちゃいねぇよ」
「―――っ!?」
強張る、朱里の顔。けど、それを振り払う様に頭を振る。
「違う!!そんな事ない!!汐音が、あたしを残して死ぬ筈ない!!汐音は!!あたし達は……」
あまりに必死なその様子に、何かを察したのだろう。訃月はもう一度、「ああ」と呟く。
「あんた達、そう言う仲か」
「!」
訃月の言葉に、朱里は顔を紅く染めて黙り込む朱里。訃月は、さらに言う。
「なら、尚更断ち切りな。秘める恋慕の情は、ことさら強く人を鬼に引き寄せるぜ」
「そんな、事……、そんな事、出来る訳……ないじゃない……」
潤む声で呟くと、朱里はガクリと膝から崩れ落ちる。
「汐音……こんなの……こんなのって、ないよぉ……」
顔を手で覆う。震える身体。指の間から、ポロリポロリと雫が落ちる。
「やれやれ。泣く女は苦手なんだがなぁ……」
そう言って、訃月が頭を掻いたその時、
ジャンコ……
奇妙な音が、辺りに響いた。
その音に、目を細める訃月。
ジャンコ ジャンコ ジャンコ ジャンコ……
近づいてくる、音。それに道を譲る様に、鬼の群れが分かれていく。見れば、分かれる群れの中を突っ切る様に何やら大きな影が近づいてくる。そして……
ジャンコ ジャンコ ジャンコ……
現れたのは、巨大な漆黒の馬。しかし、ただの馬ではない。その馬には、頭が無かった。太い首は途中でスッパリと断ち切れ、臓物の覗く断面からボタボタと赤黒い血を零し落としていた。
ジャンコ……
首なし馬が歩みを止めると同時に、音も止まる。音は、馬の首元に飾られた大きな鈴が鳴る音だった。
ブルル……
無い頭を振るい、首なし馬が嘶く。けれど、訃月の目が向けられるのはそれではない。彼の視線の先。それは、首なし馬の背。そこに跨った、大きな影。
『哀れよなぁ……』
その影が、不気味な声を放つ。周囲の闇が、それに怯える様に震える。その声に相応しい、異形の人影だった。
全身は、古い時代の公家の様な衣装に包まれている。乱れた髪は、馬の背から垂れる程に長い。額から伸びるのは、二本の長い角。目は一つ。盆程もある、紅く濁ったそれが、ギョロギョロと顔の中心で蠢いていた。
『誠、哀れな事よ……』
鋭い歯牙が幾重にも並んだ、口。文字通り、耳まで裂けたそれをパクパクと動かして”それ”は話す。
『現世に疎まれ、拒まれた挙句に、最後の絆さえも失ったか……』
濁ったその言葉に、確かな憐憫を感じるのは気のせいだろうか。
「よく言うぜ」
吐き捨てる様に、訃月が言う。
「その最後の絆とやらを奪ったのは、テメェの眷属だろうが。『夜行』」
ギョロリ
その言葉を聞いてか、「夜行」と呼ばれた存在は訃月を見る。
『くく。眷属とは言え、鬼は自由なもの。個々が何を成すかは、我の関する所ではないのぅ……。それに……』
ギョロン
目玉が蠢き、今度は顔を覆って震える朱里を見据える。
『此れが娘を現に縛るものは、これで絶えた。何の憂いもなく、此方に来れると言うものではないかのう……』
ピクリ
その言葉に、朱里の肩が揺れた。
「ふざけないで!!」
爆ぜる様に響く、少女の叫び。その目を涙に濡らした朱里が、憎悪に満ちた表情で夜行を睨めつけていた。
「鬼達じゃない!!鬼達が、汐音を殺したんじゃない!!なのに……何で!?何で鬼達の仲間になんかなれるって言うの!?」
バリンッ
唐突に響く裂音。朱里が、傍らに転がっていた空瓶を外灯の柱に叩きつけたのだ。飛び散る破片が、注ぐ光の中でキラキラと舞う。ギラリと光る、割れた瓶。それを手に持ち、朱里はユラリと立ち上がる。
「殺してやる……」
昏く響く、怨嗟の言葉。
「鬼達、みんな、殺してやる!!」
『カカッ』
その言葉を聞いた夜行が、さも嬉しそうに嗤う。
『良いなぁ。実に良い。呪い。怨嗟。憎悪。其が負の想い。正しく、鬼の華に相応しい』
ゲラゲラ ゲラゲラゲラ
鬼が嗤う。嘲り、歓喜し、鬼が、嗤う。
「上等だよ……」
鬼気迫る表情と声で、朱里は言う。
「そうならなきゃいけないなら、あたしは鬼になってやる!!同じ鬼になって、鬼達を皆殺しにしてやる!!」
ギリリ
噛み締める唇と、瓶を掴む手から滴る血。血の気の失せた白い肌と、紅く咲く血雫。壮絶な色彩の中で、鬼の姫が吠える。
「死ね!!皆、皆、死んでしまえ!!」
絶叫しながら、駆け出す朱里。
おいで……おいで……
おいで……おいで……
おいで……おいで……
悍ましく。優しく。誘い招く、手の中に。
駆ける足が、光の結界を飛び出そうとしたその時、
ズガンッ
獅子の咆哮の様に低く響く音が、冷たい夜気と地を揺るがした。