五夜の話・弐
朱里はただ、呆然と立ち尽くしていた。
彼女の目の前に広がるのは、夜闇の満ちる空間。誰もいない。何もない。たった今まで、そこに”彼”がいた筈なのに。
白日夢?それにしては、あまりにも生々しかった。顔を覗き込んできた、彼の存在感。その余韻が今も明確に残っている。けれど――
「朱里、本当にどうしたの?」
ずっと隣にいた筈の友人は、その存在を見止めてはいない。
まただろうか。朱里は思う。また、この世の外の存在に、ちょっかいを出されたのだろうか。
けれど、その可能性もすぐに自ら否定する。否。あの少年の確かな存在感は、曖昧な”彼ら”のそれとは明確に異なっていた。でも、それなら一体――
堂々巡りをする思考。それに終止符を打ったのは、やはり隣にいた彼女。
「朱里」
その声が、いつも虚ろに彷徨う朱里を現に戻す。
「大丈夫?今日、塾休んだ方が良くない?」
気遣う彼女に、それでも朱里は笑顔を返す。
「ああ、へ、平気。平気だよ。汐音」
「でも……」
「大丈夫だって」
いつも狭間を彷徨う自分の、たった一人の理解者。その彼女に、余計な心配はかけたくはなかった。
「さ、早く行こう。遅刻しちゃうよ」
「う、うん……」
なおも気遣う汐音を促し、歩き始める。やがて、二人の少女の姿は夜の公園の向こうへと消えて行った。
と、彼女達が去った後に立つ人影が一つ。
縦半分に断ち切られた、奇妙な形のコートを羽織った少年。オレンジ色に染めた髪を夜風に揺らしながら、少女達が去った方向を見つめる。
「行きはよいよい、帰りは怖い……ってな」
彼の言葉に応じる様に、外灯の灯りがバチチと瞬いた。
清音朱里が見る世界は、周囲の人々が見るそれとは著しく乖離している。
彼女が見るものを、他の人間は見ていない。
彼女が聞くものを、他の人間は聞いていない。
彼女が知るものを、他の人間は知りえない。
幼い頃の彼女は、それを理解していなかった。故に、自分が見たものを他人に話し、自分が聞いた事を他人に伝えた。子供の持つ純粋さ、そのままに。
けれど、その結果彼女が得たものは、恐怖と拒絶。それだけだった。
以来、彼女は自分を閉ざした。
彼女との、出会いがあるまでは。
時間は、夜の8時15分を指していた。東に傾いていた月は天頂に登り、痩せた身を健気に輝かせては夜闇に沈む地を照らしていた。
公園の中心に建てられた時計台。それを見上げ、朱里はポツリと呟いた。
「もう……、こんな時間……」
隣に立つ、汐音も言う。
「……そうだね……」
「帰らなきゃ……だね……」
そう言う、朱里の声はか細い。
「朱里……」
汐音が、何処か心苦しそうな顔を朱里に向ける。その手が動いて、朱里の手を掴む。
「やっぱり、辛い……?」
「………」
答える言葉の代わりの様に、朱里の指が汐音の指に絡む。
「うちに来ても、いいんだよ?」
そんな汐音の誘いに、けれど朱里は静かに首を振る。
「駄目だよ。それをしちゃあ、おばさん達に迷惑がかかる」
そう言って、細く笑うと朱里は絡める指に力を込める。
「あたしなら、平気。普通にしてれば、義母さん達も怖がりはしないから」
そう。”普通”にしていれば。
その言葉の意味を知る汐音は、悲しげに眉を潜める。
朱里の安息は、家にはない。彼女の義父母は、彼女の世界を理解していない。故に、朱里は彼らの前で自分を出す事はしていなかった。それをすれば、正気を疑われるだけと分かっていたから。
朱里が幼い頃に手に入れた、社会で生きていく術。けれど、それはとても苦しい事。朱里の日々は、常識という名の狭檻に閉じ込められている様なものだった。
「ずっと、一緒にいられればいいのにね……」
「そうだね。いられればいいね……」
汐音の前では、朱里も自分を隠しはしない。素直に、全てをさらけ出す。
今は無理でも、いつかはきっと。二人は、人知れずそう誓い合っていた。その関係自体、世間から見れば奇異なものかもしれない。けれど、それでも良かった。
汐音は、朱里にとって唯一の生きる意味。
そして、それはまた、汐音にとっても同じ事。
汐音は、古くから続く名家の家系に生まれていた。その生まれ故、汐音もまた多くの枷を負って生きている。息苦しい、雁字搦めの世界。そんな中、形は違えど同じ狭檻の中で生きる朱里の存在は、彼女にとって大切な拠り所だった。
「朱里……」
汐音が囁く。
「何?」
彼女の方を向く、朱里。そんな彼女の首に巻かれた、チョーカー。それに、汐音が手を伸ばす。
カチリ
微かに響く、硬質の音。ポロリと外れる、黒い飾り首輪。その下から現れるのは、白磁の肌。そして――
汐音の指が、ソっと”それ”を撫ぜる。
「……消えないんだね。これ……」
呟かれる言葉。その声に、微かに痛みがこもる。この娘は、自分の痛みを己の事の様に受け取ってくれる。その事が、いつも朱里の心を安らげる。
朱里は、答える。
「うん……。きっと、これは消えないね。”母さん”は、それだけ強い思いを持ってたろうから……」
「そう。それなら……」
汐音が、朱里の首に顔を寄せる。
「わたしが、消してあげる……」
喉に感じる、温かい感触。朱里は黙って、身を任せる。
「いつか、必ず……」
優しく響く言葉は、確かな決意に満ちている。その想いを、朱里は微熱に浮く様な恍惚と共に受け取った。
時計の針が、また一つ進む。それを見た、朱里は言う。
「帰ろう。でないと、また……」
「そうだね……」
汐音も、頷く。
囁かな、逢瀬の終わり。
寄り添っていた身が、名残惜しげに離れる。
「じゃあね……。汐音……」
「うん……。また明日。朱里……」
寂しげに、掛け合う言葉。
そして、二人は歩き出す。繋げた心のまま、別々の方向へ。
ふと、振り返る朱里。その目に、外灯の灯りの向こうに消えていく汐音の姿が映る。
キシリ……
首に巻いたチョーカー。その下が、微かに疼いた気がした。