一夜の話・参
「はぁ……」
窓からさし込む月明かりで、青白く染まった小屋の居間。その中に叉夜を引っ張り込んだ弥生。叉夜の身体をフローリングの床に横たえると、一息つく様に自分もその側らに座り込んだ。
「これで良し……」
そう一人ごちながら、額に浮いた汗を襦袢の裾で拭う。と、その火照った耳朶に細い鈴音が語りかけた。
「……お姉、ちゃん……」
「!!……皐月!!」
弥生が振りかえると、細く開いた隣室の戸の隙間から琥珀の瞳が覗いていた。
「駄目だよ!!大人しくしてないと!!」
慌てた様子で近づく姉に、皐月は言う。
「だって……お姉ちゃん、いないんだもの……。夜は……いてよ……ずっと、一緒に……いてよ……。でないと、あたし……あたし……」
荒い息遣いとともに、生気を感じさせないか細い声が訴える。
「弥生……」
「一人に……しないで……。そばに、いて……」
戸の隙間から細い腕が伸びる。蝋燭の様に青白いそれが、プルプルと震えながら弥生に向かって差し伸ばされる。弥生は急いでそれを掴むと、愛しげに頬を寄せた。
「大丈夫……。大丈夫だよ。あたしは、何処にも行かないから……。パパやママみたいに、居なくなったりしないから……」
自分の手に寄せられる、姉の温もり。それに安心したのか、戸の隙間の向こうから安らいだ溜息が漏れる。しかし、
「っ……かはっ!?」
突然咽返る様な声が響き、伸びていた腕が弥生の手の中でビクリと跳ね上がった。
「皐月っ!?」
「げっ、ぐ……けふっ!!」
苦しげなうめきと、異常な呼吸音。弥生の手から皐月の腕が落ち、ガリガリと床を掻き毟った。
「いけない!!待ってて!!」
そう言って、身を翻す弥生。視線の先には、横たわる叉夜の姿。走り寄りながら、懐に右手を入れる。抜き出した手の先で、白い閃きが闇に走る。研ぎ澄まされた切っ先が、叉夜の左胸に向けられる。
叉夜は、目を覚まさない。
一寸のためらいもなく、振り下ろされる切っ先。それが、叉夜の心臓へ真っ直ぐに吸い込まれて――
キョロリ
急に開いた朱色の眼が、迫る切っ先以上の鋭さで弥生を射貫いた。
「――っ!!」
チャリンッ
弥生が息を呑むと同時に、叉夜の手刀が強かにその手を打つ。短刀が、乾いた音を立てて床に転がった。
「え……あ……」
事態を飲み込めない弥生の前で、長い白髪がザワリと踊る。畏怖さえ感じさせる程に鋭い朱眼に射すくめられ、弥生は猛禽に狙われた子兎の様にすくみ上がった。
「あ……な、んで……?」
「何がだい?」
恐怖と混乱に喘ぎながら、辛うじて絞り出された言葉。それに、叉夜は平坦な声で答える。
「だって……あなたは、薬で……」
「ああ、あれか」
そんな事かと言う様な口調で、叉夜は答える。
「クサノオウの刺激を誤魔化すのに、熱い紅茶に混ぜるというのは、稚拙だが良い手だとは思がね。けれど、願わくばもう少し種類を厳選して欲しいな。クサノオウはやはりきつ過ぎる。まだ舌がピリピリするよ」
淡々と語る叉夜。
弥生の顔が、驚愕に歪む。
「気付いて……たの……?」
その言葉を、叉夜は頷いて肯定する。
「目的に興味があったものでね。探らせてもらったよ。大丈夫、その道は得意分野でね。解毒剤処置はやってある」
言いながら、弥生に向かって一歩、歩を進める。気圧される様に後ずさる、弥生。
「で、君達の話は聞いていたが……」
もう一歩。弥生の背が、襖に当る。
「聞けば聞く程、妙な話だね。妹さんの病態と、私の命と、どういう関係があるのかね?」
叉夜の朱い目が、キュウッと細まる。
「さて、目的は何かな?」
「………」
弥生が生唾を飲み込む音が、部屋の暗闇の中にやけに大きく響いた。と、
「……?」
それまで眼前の弥生に向けられていた叉夜の目が、ふと虚空を泳ぐ。その先に何の焦点も望まない視線。彼女の意識が、弥生から別のモノへ移ったことを意味する。
一拍の間。そして――
グワシャアッ
それまでの静寂を劈く撃音とともに、戸板が弾け飛んだ。
「!!」
反射的に飛びずさった叉夜の眼前を、白い何かが切り裂いた。舞い散る破片。舞いあがる木塵。たち込める香の香りと、咽返る様な木の匂い。
カショカショカショ……
硬い戸板を引き裂き、叉夜と弥生を隔てる様に生えた物。
それは、節くれ立ち、曲がりくねった数本の枝。太く巨大な、木の枝だった。長年野晒しにされた白骨の様な樹皮に、所々緑色の苔を張りつかせたそれ。
ギシギシと乾いた硬音を奏でながら、その硬い樹皮を無視して理不尽に蠢く。
その度、表皮に幾筋も走ったのひび割れの隙間から樹液とも体液ともつかない粘液が滴り落ち、夜闇の中に樹の匂いと血臭を漂わせた。
「………」
「………」
突如として出現した怪異。けれど、叉夜は取り乱す様子も見せず、ただ黙って目の前の異形を凝視する。対して弥生は、酷く悲痛な表情を浮かべ立ちすくんでいた。
――と、
「……やめて……」
ワシャワシャと蠢く樹足の間から、可憐な声が響いた。
「お姉ちゃんを……虐めないで……」
哀願の声とともに樹爪が床を噛み、狭い入口から己の生え出る本体を無理やりに部屋の中へと引きずり込んだ。
半壊した入口がさらに抉られ、木片や埃が再び周囲に散る。数本の枝が伸び、舞い散る欠片から守る様に弥生を包む。
一方、叉夜は退くでも避けるでもない。ただ立ちつくし、隙のない視線を眼前で蠢くそれに向け続ける。その前には、奇怪な物体が視界いっぱいに転がっていた。
――パンパンに張り詰めた半透明の薄皮。
その下で脈打つ様に流動する、クリーム色の粘体。
身に均等に刻まれた括れと、その一節ごとに突き出た一対の吸盤状の器官。
一見、挽肉の代わりに濃い溶かしバターを目一杯に詰め込んだ、酷く大きな腸詰を思わせる外見。
内を流れる脂肪が滲み出したかの様に、テラテラヌルヌルと光る表皮――
壊れた入口から、半ばその身体を捻じ込む様にして叉夜の前に身を投げ出した存在。
それは外見から判断すればまさしく、現実にはありえない程に巨大な蛆虫だった。
従来の蛆虫と違うのは、その頭部にあたる位置から八本の樹の枝が、まるで触手の様に伸びていると言う事。
それが床に爪を立て、三脚の様に突っ張って鈍重な蛆虫の身体を鎌首をもたげる様に持ち上げる。そのままゆっくりと、もたげられた頭部が叉夜へと向き直った。
――闇の中でフワリと揺れる、亜麻色の髪。
その合間から除く、大きな琥珀色の瞳。
悲しみの色に染められながら叉夜に向けられるのは、姉と良く似た幼顔。
白く細い首の下に続くのは、薄手のカットソーに包まれた、折れそうなまでに小さく華奢な身体。
そこから伸びる腕も、まるで芽吹いたばかりの若木の様に細く弱々しい。
夏夜のかげろうの様な、儚げで可憐な少女の姿――
それが、闇の中を無様に這いずる蛆虫の頭部を形作るものだった。
「ごめんなさい……。本当に、ごめんなさい……」
蛆虫の頭がパクパクと口を開け、鈴音の様な声を転がす。
「でも、お姉ちゃんは悪くない……。悪くないの……!!」
おぞましい巨躯に生えた、小さな少女。その顔は違う事なく、先刻弥生が皐月と呼んだ妹のそれ。小柄な身体を、恐怖と緊張、そして羞恥に震わせて、それでも姉を庇おうと、皐月は叉夜と弥生の間に立ち塞がる。
己を見上げる叉夜の眼差しを、怯えの混じる瞳が受け止める。薄い唇が息を吸い、萎縮しそうな声を必死に絞り出す。
「悪いのはあたし……。あたしの、この身体!!」
そう言って、細い腕で自分の身体を掻き抱く。忌むように力の込められた両の爪先が柔肌に食い込み、朱の線がツウと蝋の様な肌の上を滑った。
皐月の身体はへそより下、腰のくびれの辺りから異常に膨れ上がり、蛆虫状のそれへと変容している。
その人間としての身体と異形の境目は、まるで剥き出しになった心臓の様に縦横に大小の血管が走り、ビクビクと奇怪に脈打っている。カシカシと蠢く八本の樹の枝は、その両の肩から不対照に四本づつ、白い肌を突き破る様にして生えていた。
儚くも美しい少女と、禍々しくおぞましい妖虫。それが生み出す、奇妙なコラボレーション。
その様は、滑稽と言うにはあまりにも異様に過ぎ、悪趣味というにはあまりにも悲しく見えた。