五夜の話・壱
居場所がない
居場所がない
偽りでも
幻でも
居場所が欲しい
居場所を探して
ただ 迷う
あっちへフラフラ
こっちへフラフラ
月の下
いつからだろう。
あたしの目に、”彼ら”が映る様になったのは。
いつからだろう。
あたしの耳に、彼らの囁きが聞こえる様になったのは。
夜の街灯。灯りの外。
夕暮れの家。部屋の暗がり。
人混みの中。行き交う人々の隙間。
そこここから感じる、彼らの視線。
あちこちから響く、彼らの声。
確かに在る、その存在。
幼い頃、あたしにはそれが当たり前の世界だった。
父も。母も。友人も。学校の先生達も。
同じものを見、同じものを感じているのだと思っていた。
けれど、いつしかあたしの世界はずれ始めた。
あたしと言う、存在諸共に。
日は沈み、東の空には細く痩せた月が浮かび始めていた。
ジジ…… ジジジ……
低い呻きを上げて、外灯がチカリチカリと灯りを散らす。舞い落ちる、光の燐。その輝きを、見つめる者がいた。
赤茶色のボブカットに、今風のカジュアルな服装。首に巻いた、黒いチョーカーが印象的な少女だった。
「………」
少女の目は、一心に外灯が落とす光を見つめている。
否、目が敏い者なら気づいたかもしれない。少女が見つめているのは、決して光ではないと。その視線が注がれているのは、光の外。そこに満ちる暗闇だった。
少女は見つめる。何もない。何もない筈の、その空間を。まるで、そこに誰かがいるとでも言うかの様に。
「朱里」
不意にかけられた声に、朱里と呼ばれた少女は驚く様子もなく振り返る。その先に立っていたのは、また別の少女。
背中まで伸ばされた色素の薄い髪と、淡い色のカーディガン。軽活そうな朱里に比べ、見た目にも大人しそうな様相の少女だった。
「や、汐音」
軽く手を上げて挨拶する朱里。汐音と呼ばれた少女は、微笑みでそれに返す。
「……いるの……?」
朱里の横に並びながら、汐音が問う。
「うん。いる」
視線を暗がりに戻しながら、頷く朱里。
「悪いもの?」
もう一度の問い。今度は、首を振る。
「そんなでもない。でも、関わらない方が、いいかな?」
そう言って、汐音の方を向く朱里。
「気にしない方がいいよ。行こう」
そして、彼女は先を促した。
数分後、夜の公園を歩く朱里と汐音の姿があった。
この公園、市街地の真ん中にあるため、この時間帯でも人通りはそれなりにある。また、中には交番もある。一応、防犯上は整った場所。故に、塾通いの学生達の近道によく使われていた。
朱里と汐音も、週三回の学習塾通いにこの公園をよく使っていた。通い慣れた道。よく知れた風景。
けれど、朱里の目はキョロキョロと落ち着きがない。その理由を知る汐音が、周囲を通る人に聞こえない声で囁く。
「朱里、大丈夫?」
「ん?何が?」
「あなた、最近目が”良く”なり過ぎてない?」
「――――!」
その言葉に、朱里の顔から表情が消える。
「どうして?」
問い返す朱里。その顔には笑みが浮いているが、作り笑いなのは見え見えだった。汐音は溜息をつく。
「何年、付き合ってると思ってるの?分かるわよ。そのくらい」
「はは、敵わないなぁ。汐音には」
何処か疲れた様に笑んで、小さく溜息をつく。その所作が、この賢しい友人への何よりの答えになる事を、朱里は良く心得ていた。
「大丈夫なの?辛くはない?」
気遣う汐音に、けれど朱里は力ない笑みを返すしか術を知らない。
「うん。大丈夫」
疲れのこもった返事。汐音は心苦しそうに眉を潜める。術を知らないのは、彼女も同じ。ただ、その疲れを少しでも分かち合おうとする様に、肩を寄せる。そんな親友の気遣いに、朱里は少しだけ救いを感じた。
けれど、彼女を包む世界はその束の間の安らぎすらも許さない。
絶える事なく、その囁きが鼓膜を揺らす。
切れる事なく、その姿が網膜を過ぎる。
終わる事なく、その存在が彼女を犯す。
『見えてる……。見えてるよ……』
『見てる……。見てるぞ……』
『聞こえる……?聞こえる……?』
『見て……。わたしを見て……』
聞こえる声を。見える姿を。朱里は可能な限り、意識から外す。
今までの生の中で、彼女は心得ていた。
焦点を合わせたが最後、彼らは群がり寄ってくる。自分達の思いを告げようと。自分達の声を届けようと。自分達の存在を、示そうと。
けれど、それを許せば引きずられる。引きずり込まれる。彼らの、場所へと。
『ねえ……。聞こえてるんでしょ……?見えてるんでしょ……?』
『来てよ……。こっちへ、来てよ……』
『一緒にいてよ……。一緒に……』
『ねえ……。ねえ……』
まとわりつく彼らの声を振り払いながら、朱里は思う。
こんな目は、いらない。
こんな耳は、いらない。
こんな、能力はいらない。
どんなに見えても、自分に成すべき術はない。
どんなに聞こえても、自分に答える術はない。
どんなに知る事が出来ても、自分に伝える術はない。
それどころか……
ズシ……
不意に、肩に感じる重み。
まるで、氷でも押し当てられたかの様な冷感。
(しまった!!)
そう思った時には、もう遅い。
反射的に向ける視線。
右肩の上。
そこに、”手”が乗っていた。
隣にいる、汐音の手ではない。まして、自分の手であろう筈もない。
手首より上がない。文字通りの、手だけ。血に塗れ、土気色をしたそれが、肩の上を這いずり回る。千切れた手首の断面。赤黒い肉と白骨が蠢き、その度に濁った鮮血が宙に散る。
固まる朱里の肩に爪を立てながら、ありもしない口で”それ”は言う。
『寒い……。寒いよ……』
昏く響く、嘆き。
『身体が欲しい……。身体が、欲しいの……』
この世ならざる者の、咽び泣く声が耳を打つ。
『寒い……。痛い……。血が出るの……。止まらないの……』
ギシシ……
冷たい痛み。死者の爪が、肩へと埋まってくる。けれど、朱里に成す術はない。
『欲しい……。欲しいよ……。身体が、欲しい……』
喰い込む爪を通して伝わる、怨念、無念、残心。やるせぬ、悲しみ。その無限とも言える負の思念が、朱里の精神を蝕んでいく。
「やめて!!」
たまらず、耳を塞ぐ。けれど、もはや現の存在ではないその声が遮られる事はない。
『寒い……寒い……寒い……』
『痛い……痛い……痛い……』
『欲しい……欲しい……欲しい……身体が、欲しい……』
『頂戴……頂戴……頂戴……あなたを、頂戴……』
必死に振り払うも、心に絡みつく声は消えはしない。
彼女に、術などありはしないのに。
そう。彼女に術はない。
答える術も。
癒す術も。
そして、己を守る術さえも。
心を、くびり上げる声。
犯されていく意識。
このままでは、堕ちてしまう。
朱里が、そう思ったその時――
「その辺に、しとけよ」
唐突に、そんな声が響いた。
気が付くと、朱里の前に人影が立っていた。
見知らぬ少年だった。高い背。染めているのだろう。オレンジ色の後ろ髪に、真っ赤な前髪。丈の長い、半分だけのコートを半身に羽織ったロック調の服装。ギターか何かだろうか。背中には、大きな荷物を背負っている。
顔は整っているが、朱里を見下ろす眼差しは鋭い。正直、普段であれば避けて通りたい様な風貌。けれど、今の朱里にそんな余裕はない。何しろ、こんな目立つ形の人物が目の前に来るまで気付かなかったのだから。
見下ろしてくる視線の強さ。それに戸惑う朱里。けれど、まもなく気付く。少年の目が、自分の顔を見ていない事に。彼の視線の先にあるもの。それは――
「気持ちは分かるけどよ。いつまでも、迷ってんじゃねぇよ。人に憑いた所で、何の救いにもなりゃしねぇぞ」
言葉と共に、少年の左手が上がる。そして、
「逝くべき所に、逝きな」
ピンッ
少年の指が、”それ”を弾いた。
途端、
ボフゥッ
朱里の肩を掴んでいた”手”が、塵となって吹き散った。
「………!!」
その様を、朱里は呆然と見送る。
「あんた、大丈夫か?」
我に返ったのは、そう声をかけられたから。ハッとして視線を戻すと、今度こそ少年が彼女を見ていた。
「え……あ……」
戸惑う朱里。すると少年は首を傾げ、そんな彼女の顔を覗き込んできた。ビクリと竦む朱里を、しげしげと見つめる。
「なるほど。あんた、見える口か……」
納得した様に頷く少年。まだ状況が把握出来ない朱里を眺めながら、目を細める。
「まあ、その様子だとあんまりいい思いはしてねぇみたいだけどな」
「あ……あなた、一体……」
朱里が、何とか絞り出した問い。けれど、それには答えず少年は彼女を見つめ続ける。距離の近さと、無遠慮な視線。それに、先だってとは違った意味で戸惑い始める朱里。すると、少年の視線がある一点に止まる。彼が見ているもの。それに気付いて、朱里はハッと自分の首に手をやった。
その様を見た少年が、「ああ」と何かを得心した様に頷いた。
ヒョイ
ようやく、顔を離す少年。朱里が思わずホッと息をついた時。そんな彼女に向かって、少年が言った。
「あんた、気をつけな」
「え?」
「それ、”今夜”はやばいぜ」
「な、何言って……」
唐突にかけられた、不可解な言葉。朱里が、その意を確かめようとした瞬間、
「朱里!!」
「!?」
突然耳に飛び込んできた声が、彼女を我に返した。
思わず振り向いた、声の出処。そこに立っていたのは、心配そうな顔をした汐音だった。彼女は問う。
「どうしたの?朱里、急に黙り込んじゃって……」
「え?あ、だってあたし、この人と……」
「この人?」
何を言ってるのか分からないと言った顔をする汐音。そこに至って、朱里はようやく気付く。自分の前には、誰もいない事に。
「あ……れ……?」
呟く言葉に、答える声はない。ただ、一枚の枯葉が外灯の光の中でクルクルと舞っているだけだった。