四夜の話・終
気が付くと、流凪は元通り古びた社の中にいた。寝ぼけ眼を擦りながら、身を起こす。彼女が壊した筈の社に、大きな損壊の跡はない。
薄暗い、静寂に満ちた空間。
あちこち傷んだ内装。埃と土と、苔の混じった匂い。
全てはあの夜、流凪が寝付いた時のまま。
寝癖の付いた頭をポリポリと掻きながら、欠伸を一つ。枕替わりにしていたリュックから、スマートフォンを取り出す。日付を確かめると、日付は一晩しか経っていなかった。”彼女”とは一両日は共に過ごした筈なのだけど。
もっとも、流凪が”あの出来事”を、夢だと思う事はない。なぜなら、自分の衣装が仕事用の神衣に変わっていたし、何より唇にはあの時の感触が明確に残っていたのだから。
神衣から普段着に着替えた流凪は、荷物をまとめると社の外に出た。
そこは、高く登った朝日が照らす浅い林。木々の隙間からは、林の入口に立つ鳥居と面する車道が見える。
あの、夜闇だけが支配していた昏い森の面影は、何処にもない。流凪は石段を下りると、そのまま林の出口へと向かった。
鳥居の所まで来ると、面した車道に人が何人か集まって何やら話し合っていた。流凪が近づくと、気づいた人々が口々に声をかけてくる。
「お前さん、そんなとこで何してる?」
「早く、こっちに来い!」
「危ないぞ!急げ!」
言われるままに足を速め、鳥居をくぐる。
「早くしろ!鳥居から離れるんだ!」
急かす声に押され、たむろする人々の元にいく。
「やれやれ。肝冷やしたぞ」
「見ない顔だな。旅行者かい?」
その問いかけに頷くと、「何かあったの?」と問うてみる。
「何かじゃねえよ。見ろ。あれ」
促されて、振り返る。そこにあるのは、昨夜見たものと同じ、古びた鳥居。けれど、大きく違った事が一つ。
石造りの頑丈な鳥居。その左右の柱にビシリと大きなヒビが入っていた。
それを遠巻きに見ながら、人々は口々に言う。
「いかんな。こりゃあ、崩れるぞ」
「しかし、どうしたってんだ?昨日まではどうって事なかったのに」
「まぁ、古くはあるからなぁ。とにかく、渡辺の親父に言ってユンボ出してもらえ。崩れる前に処理しちまおう」
そんな彼らの中の一人に向かって、流凪は問う。
「ねえ~。おじさん~」
「ん?何だ?」
「これは~、何を祀ったお社なのかな~」
その問いに、声をかけられた男性は「ああ」と答える。
「この辺りに伝わる、古い神さんを祀った社だよ。昔は使える宮司や巫女さんもいたらしいが、絶えて久しいなぁ」
「ふ~ん。そうなんだ~」
そのまま、「ありがとう」と男性に告げると、流凪は踵を返して歩き始める。背後では、
男達がまだ何やら話し合っている。それを背に負いながら、流凪はポソリと呟いた。
「隠里世が、崩れたか……」
「あ~あ、眠いなぁ」
朝日の差し込む、くまがやストアの店内。レジに立った坂本智也は、そう言って欠伸をした。
「やっぱ、断っときゃ良かったかな~」
ぼやきながら目を擦るその様は、本当にかったるそうである。
この時間、本来の店番が急用のために出れなくなった。そこで、バイト代を弾むからと店主に穴埋めを頼まれた智也。
丁度、大学の講義もなかったので二つ返事で了承したのだが、やはり連続勤務はキツイ。少しの後悔を覚えながら、彼がもう一度欠伸をしたその時、
ウィーン
低い音を立てて、自動ドアが開いた。
「いらっしゃいま……お?」
言いかけた社交辞令の挨拶が、軽い驚きに変わった。
「おはよ~」
そう言いながら入ってきたのは、見覚えのある顔。見違え様もない。昨夜、おにぎりを買いに来た少女だった。
「やあ、また来たのかい?」
かける声。些か馴れ馴れしいかとも思ったが、昨夜のやり取りの後である。まあ、大丈夫だろうと言う思いがあった。
「うん~。ここのおにぎり、美味しかったからね~」
案の定、返ってきたのは同様に気安い言葉。少しホッとしながら見ていると、自分の言葉を肯定する様に、少女はおにぎりの棚の前に直行した。
しばしの物色の後、彼女が選んだのは昨夜と同じ。シャケと明太子のおにぎり。そして無糖の紅茶。
「はい。450円ね」
レジに置かれた商品を手早くスキャンして、智也はそう言った。
「は~い」
置かれる小銭。それを回収しながら、気になっていた事を問うてみる。
「昨夜、結局何処に泊まったんだい?」
「――――!」
透き通った瞳が、咎める様に智也を見つめた。けれど、それは本当の一瞬。すぐにホンワリと緩んで、いつもの眼差しに戻っていた。
「ん~。あの山の下にあったお社に泊まらせてもらったよ」
その答えに、智也が目を丸くする。
「山の下の社って……「やと様」のお社かい!?」
軽い驚きの混じった声。今度は、少女がピクリと反応する。
「お兄さん、何か知ってるの?」
「知ってるも何も、婆ちゃんに昔っから言われてたよ。『山の下のお社では遊ぶな。「やと様」に獲って喰われるぞ』って。よく、気味悪くなかったね」
「『やと様』って、何かな?」
「この辺りで昔っから伝えられてる、土地神だよ」
「面白そうだね。教えてよ」
目を細めながら、少女が問う。
「あ?ああ、いいよ。丁度、他にお客さんもいないし」
可憐な少女が、自分の言葉に食いついてくれた事が嬉しかったのだろう。智也は喜々として話を始めた。
「まあ、全部婆ちゃんからの又聞きだけどね……」
――曰く、昔この辺りの土地は『やと様』と呼ばれる神に支配されていた。
件の神は水神であり、その加護を受けるこの土地は水に恵まれた豊かな場所だった。そんな土地を狙い、幾度か他の国からの侵略にもあったが、それもやと様の祟りによって凌がれていた。
しかし、そうやって土地を庇護する反面、やと様は危険な荒神でもあった。人々は荒ぶ神を鎮めるため、年に一度、幼い子供を贄として捧げていた。
やと様には、一人の巫女が仕えていた。彼女は毎年、贄の子供をやと様に捧げる役目を負っていた。しかし、やがて彼女は贄とされる子供やその親達の悲しみに耐える事ができなくなった。長い苦悩の末、彼女は一つの道を選んだ。
それは、自らをやと様の贄とする事。
巫女である自分の血肉であれば、やと様を永遠に鎮める事が出来るのではと考えたのだ。
そして、その願いは成った。巫女の血肉を受け入れたやと様は永遠に鎮まり、土地には真の意味での平安が訪れた。
以来、神世で巫女は仕え続けているという。荒ぶる神。やと様を鎮め続けるために。
「という訳さ。まあ、よくある昔話の類だよ」
「ふ~ん」
妙に、神妙な顔をして聞いていた少女。彼女は話を聞き終えると、おにぎりの入った袋を手に取った。
「ありがとう。お兄さん。ためになったよ」
「いえいえ。どういたしまして」
礼儀正しく智也に一礼すると、少女は出口に向かう。
「まだ、この町にいるのかい?」
背にかけられる声。それに少女は、頭を振る。
「ううん~。今日には、出ようと思ってる~」
「そうかい、残念だな。道中、気をつけなよ」
その言葉に微笑んで頷くと、少女はドアの前に立った。
ウィーン
音を立てて開く、ドア。それを潜ろうとする少女。と、その足がピタリと止まった。
「ねえ、お兄さん」
背を向けたまま、声をかける。
「ん?何だい?」
「その巫女さんだけどね……」
「?」
「なりたくて、贄になった訳じゃないと思うなぁ……」
「え……?」
かけられた言葉の意を問う前に、ドアは締まる。ガラスの向こう、遠ざかってゆく少女の姿。智也は、ただ黙って見送るだけだった。
暫し後、流凪は町を見下ろす丘陵の道に立っていた。
見下ろす先に見えるのは、件の山の麓。社がある林の前で、パワーショベルが一台動いているのが遠目に見える。きっと、壊れた鳥居を崩しているのだろう。
その本当の意味を知る流凪は、静かに呟く。
「……辛かったね。苦しかったね。でも、もう大丈夫……」
サア……
それを見下ろす彼女の髪を、穏やかな風が揺らしていく。
「ゆっくり、おやすみ。しずりん……」
優しく告げる、言葉。
それを、吹き渡る風が聞くべき者に伝えてくれたのか。
知る者は、いない。
終わり