四夜の話・陸
「やれやれ。これで今年の御供も無事に成ったなぁ」
蠢く蛇群の向こうから、そんな声が聞こえた。
いつの間に来たものか。浮かぶ提灯の光に、数人の人影が立っていた。その中には、弓を携えた者もいる。
「少々手間をくったが、その分上等な供物を捧げられたわい。巫女の血肉じゃ。夜刀様も、ご満足してくださるだろう。」
村長と呼ばれていた者の、声が言う。
「皆の衆、ご苦労じゃったな。これで、今年も村は安泰じゃ」
「祝いじゃ。このまま、長の屋敷で一杯頼めんかのぅ?」
「意地汚い奴じゃな。まぁいい。寄っていけ」
「ありがてぇ」
そんな事を言いながら、影達が立ち去ろうとした時、
「待ちなよ」
底冷えのする様な声が、彼らを呼び止めた。
振り返ると、一人残された流凪が彼らを見つめていた。
彼女の足元では、地を覆い尽くした蛇神達が哀れな姉弟を貪っている。
パリコリ、ぺチャぺチャと響くおぞましい音。けれど、それに動じる様子もなく、流凪は幽鬼の様に昏い陰影の中に立っている。
そんな彼女に、村長の声が言う。
「まだおったか。余所者の娘」
返る言葉はない。村長は、構わずに続ける。
「主は、見逃していただいたのじゃ。夜刀様に感謝して、疾く去るがいい。さすれば、わしらも咎めはせん」
「それとも、行く所がないかぁ?」
弓を持った人影が言う。笑い混じりに。
「なら、俺んとこに嫁に来いや。見りゃあ、なかなかの別嬪じゃねえか。良い子、産ませてやるでよぉ」
「何言ってやがるかなぁ。この助平がぁ」
「おぅ、大変だなぁ。こいつ、馬並みだでよぉ。壊されんなよぉ」
ゲラゲラと、下品な笑い声が響く。けれど、それに返るのは、滴る冷水の様に色のない声。
「お断りするよ。化生に嫁入りなんて、まっぴらだ」
言葉と共に、流凪の右手がピクリと動く。
瞬間――
ゴウッ
旋風の如き轟音が、満ちる夜気を引き裂いた。
バツンッ
響き渡る、鈍い音。
卑猥な言葉を口にしながら、ゲラゲラと笑っていた弓の人影。その頭が、夜空高く跳ね上がっていた。
ブシュッ
一拍の間をおいて、噴水の様に吹き上がる飛沫。血と呼ぶにはあまりに黒いそれが、夜天を更に昏く染めていく。
「う、うわぁああああ!!」
「ひぃいいいいいい!!」
ようやく事態を察した影達の悲鳴が、響き渡る。
キュキュキュン パシッ
回転しながら弧を描いてきた露羽の柄を、流凪の手が受け止める。
「騒がしいな。喚くなよ。傀儡風情が」
露羽の刃をザシッと下ろしながら、冷淡な声で流凪は言う。そんな彼女に向かって、影達が叫ぶ。
「何をしやがる!!人殺しが!!」
「夜刀様の御前を血で汚すとは!!祟りがあるぞ!!」
「死ね!!死んでしまえ!!」
口々に、罵詈雑言を喚く影達。けれど、流凪は動じない。冷たく澄んだその声で、再び言い放つ。
「へえ。それが”人”なの?」
「へ?」
「え?」
間の抜けた声を上げ、影達が傍らを見る。そこにあったのは――
「うおお!?」
「こ、これは!?」
一斉に上がる呻き声。そこにあったのは、ウネウネと蠢く蛇の塊。頭を飛ばされた人の形など、何処にも残っていなかった。
流凪は言う。
「あんた達、とっくに取り込まれてたんだよ。この”隠里世”に」
「な、何!?」
「どう言う事だ!?」
その声を無視して、流凪がゆっくりと露羽を構える。鋭い切っ先が狙うのは、目の前で贄を貪る蛇の群れ。その中心。
「ま、待て!!何をする気だ!?」
村長と呼ばれる影の叫びに、流凪は淡々と答える。
「ボクの不手際だから。けじめをつけさせてもらう」
「何だと!?」
「神だと言っても、所詮化生だね。血に我を忘れて、居場所がバレバレだよ」
「よせ!!」
絶叫と共に、蛇達の頭が一斉に流凪を向く。けれど、構わない。流凪は構えた露羽を、一気に突き下ろす。
「やめろぉおおおおおっ!!」
村長の形をしたもの。それの叫びに従う様に、蛇の群れが流凪に襲いかかる。けれど、その毒牙が流凪の肌に届くよりも早く、露羽が群れの中に突き刺さった。
ピタリ
途端、蛇達の動きが止まる。蛇だけではない。村長達人影も、その動きを止める。
ズ……
重い音と共に、蛇群の中から引き抜かれる露羽。月を背に掲げられる切っ先。それに刺し貫かれるのは、幼い少年の傷一つない身体。
澄里と呼ばれたその幼子は、胸を露羽に刺し貫かれたまま、ピクリとも動かない。
「君が、”核”だね?」
流凪が問う。すると――
ギョロリ
閉じられていた澄里の眼差しが開く。その中にあったのは、かつての澄んだ少年の目ではない。
それは、昏い輝きを灯す爬虫類の目。細く切れ上がった瞳孔。それが、自分の身を掲げ上げる流凪を映す。
ゆっくりと開く口。薄い口の間から、鋭い牙が覗く。
『……まいったねぇ……』
先の割れた舌をチロチロと出しながら、澄里は言う。
『本当に、怖い子だねぇ……』
「ボクも、褒めてあげる」
賞賛の響きの篭った言葉に、流凪も返す。
「こうなるまで、気付けなかった。良く出来た、仕掛けだったよ」
シシシ……と澄里が嗤う。
『残念だねぇ……。もう少し。もう少し、楽しみたかったんだけどねぇ……』
本当に。本当に口惜しそうな声。紅い舌がチロチロと揺れる。
「もう、十分。終わりだよ」
切って捨てる流凪。澄里は、ハァと生臭い息を吐く。
『ああ、残念だ……。残念だぁ……』
それが、最期の言葉。そして――
ドパンッ
澄里の身体が、弾けて溶ける。周囲を覆う、蛇の群れも。村長達、人影も。諸共に。
後に残るは、立ち尽くす流凪と”彼女”だけ。
何処か遠くで梟が、ホウホウホウと悲しげに泣いた。
ふと目を開けた時、視界に入ったのは自分を見下ろす、流凪の顔。
「流凪……様……」
絞り出す声。半分は、ヒュウヒュウと風鳴るだけで、形にならない。
「喋らなくていいよ。全部、終わったから」
そう言って、微笑む流凪。と、彼女の目がチラリと揺れる。その視線を追って、少女は気付く。
ああ、そうか。
自分は、もう。
でも、気づいた事はもう一つ。自分の頭が、流凪の膝に乗せられている。いわゆるところの、膝枕。少し、頬が熱くなる。昇る血など、残ってもいないだろうに。
「辛い?でも、もうすぐ楽になれるから」
不器用な気遣い。でも、その必要はない。もう、痛みなんて感じていないから。
かすれる声で、少女は言う。
「流凪様が、終わらせて、くださったんです、ね……」
「ボクは何もしていない。出来てない」
澄んだ声が、耳に心地良い。少しでも持って行こうと、今はない胸に詰め込む。
「……流凪、様……」
「しずりん……」
「いいん、です……。喋らせ、て……。でないと、時が、早くなる……」
言葉の意を察したのだろう。流凪は、黙って頷く。
「全部……思い出しました……」
その記憶に、寂しさが過ぎる。
「わたしは、一人……。弟なんて、いない……」
流凪が、目を細める。
「だから……贄に、選ばれて……ずっと、繰り返して……」
声が霞む。もう、幾ばくも話せそうにない。
額に、冷たい温もりが触れる。流凪の手が、額を撫でていた。
「もう、終わったから。苦しみが繰り返る事は、ないから」
「……はい……」
思いを返す様に、微笑む。でも、それ以上は叶わない。だからせめて、伝えよう。後悔だけは、残さない様に。
「るな、さま……」
「何?」
「わた……し……」
ほんの一瞬、間があった。
戸惑われるだろうか。それとも、嫌われるだろうか。少女らしい不安が、消えゆく意識を過ぎる。
放たれた想い。
行き場所など、ないと思ったその想い。
けれど、彼女は受け止めた。受け止めて、ニコリと微笑んだ。そして――
「――――っ!!」
止まりかけていた心臓が、一度だけドキリと跳ねた。
重なった、花弁が離れる。
元通り身を起こした流凪が、もう一度、優しく微笑む。
それを、潤む視界に焼き付けて――
「――あり、がとう――」
それが、最期の言葉。
そして、琴宮静莉の鼓動は止まった。
今度こそ、永久の安らぎに。
安らかに閉じられた眼差し。そこから溢れる雫を、流凪はそっと拭う。と、そこに差し込む一筋の光。
目を向けると、いつしか月は消えていた。代わりに輝くのは、遠き東の丘陵の向こう。
夜が、ゆっくりと溶け始めていた。