四夜の話・肆
そこに、朝はなかった。
月は、遥か西の空に傾いている。けれど、それが丘陵の向こうに消える事はない。すれすれまで堕ちた月はそこで動きを止め、またゆっくりと空を登り始める。ユルリユルリと形を変えながら、ユロリユロリと上がっていく。その様を見つめ、琴宮静莉は言う。
「月が、登ります……」
見上げる瞳には、上弦から十日夜へと変わりつつある月の姿。
「あれが、十日夜に変わった時、夜刀様はまた現れる……」
「………!!」
その言葉に怯える様に、澄里がその小さな身体を竦める。
「贄を捕りに来る訳だ。ボクの雇い主様を」
竦む澄里を抱いて、流凪も言う。酷く淡々と。
そんな彼女に伝える様に、静莉は話す。
「……わたし達の村は、古くから夜刀様の加護によって栄えてきました。夜刀様のお力によって、育たぬ作物を育て、山の獲物を許され、他者の侵略や略奪から守られてきました。けれど、その代わり……」
「贄を要求してくるって言う訳か。君達の夜刀様とやらは」
皮肉げな響きを持って紡がれる、流凪の言葉。静莉は、ゆっくりと頷く。
「夜刀様は年に一度、十を数える前の幼子を贄として要求します。わたしは、その年の贄が誰になるかの神託を、巫女として受ける役目を負ってきました。そして、今年の神託で告げられたのが……」
「君の弟、ボクの雇い主様って言う訳?」
流凪の言葉に、頷く澄里。
「夜刀様の神託は絶対です。村の者達は、当然の様に澄里を贄として捧げました。けれど、わたしは許せなかった……」
「………」
流凪は、何も言わない。静莉は続ける。
「わたしと澄里は、幼くして両親を疫病で亡くしています。以来、わたし達は二人で生きてきました。神職としての苦役も、悩みも、二人で分かち合ってきたのです。澄里は、わたしの半身も同然……。その澄里を贄にするなんて……」
鈴の様に澄んでいた静莉の声が、呪詛を紡ぐ様に濁る。
「そんな事……許さない!!」
そんな彼女を、流凪が冷ややかな目で見つめる。
「勝手な、話だねぇ~」
「!」
その言葉に強張る、静莉の顔。けれど、流凪は構わず続ける。
「君も、送ってきたんじゃないの?他の子供達を、贄として」
「それは……」
容赦なく紡がれる言葉。静莉が苦しげに唇を噛む。けれど、流凪の眼差しは容赦なく彼女を射抜く。
「さて、どんな道理を立てるのかな?他人の子は良くて、自分の弟は嫌だなんて」
「流凪様!!姉上は……」
「やめなさい。澄里」
食ってかかろうとした澄里を、静莉が制する。
「貴女や、村長の言う通りです。わたしの願いは、自分勝手で浅ましい……。それでも……」
白い手が、澄里の頭を撫ぜる。
「わたしは、澄里を、守りたい……。例え、それが他者の憎悪を背負うものであったとしても!!」
澄里を見つめる、静莉の眼差し。その中に、流凪は強い意思を見る。
「ふ~ん。なるほど~。理屈も道理も承知してなお、って訳ね~」
その顔に、微かな笑みを浮かべる流凪。返す言葉で、澄里にも問う。
「君はどうなのかな~?雇い主様~」
「え……?」
戸惑う澄里。流凪の笑みが、彼に尋ねる。
「どうだい~?贄になるのは、怖いかい~?」
「僕は……」
「ああ、建前はいいからね~」
「え……?」
ポカンとする澄里に、顔を寄せる流凪。仄かに甘い香が、澄里の鼻腔を撫でる。
「義理も、使命も、道理も関係ない。君の、ボクの雇い主様の、本当の心を聞かせておくれ」
「流凪様……」
「さあ。言ってごらん」
「………」
しばしの沈黙。やがて、澄里の目に大粒の涙が浮かぶ。
「……なりたくない……」
彼は言う。
「贄になんか、なりたくない……。僕は、ずっと姉上と一緒にいたい……。ずっと、ずっと……」
グッ
涙を飲み込み、歯を食いしばり、言葉を放つ。
「生きていたい!!」
夜闇に響く叫び。それを聞いた流凪が、今度こそ不敵に笑う。
「アハハ、よーし。よく言った!!」
バンッ
「イッタ!?」
流凪の手が、澄里の背を叩く。
飛び上がる澄里の横で、グワッと立ち上がる流凪。腰から抜き取った露羽を、ガスっと地面に突き立てる。土の破片と共に、澄んだ雫がキラキラと散った。
「いいね。君達のそういう所、実にいい!!」
その様に、ポカンとする静莉と澄里。おずおずと流凪に問う。
「あの……。いいんですか?」
「何が?」
「わたし達、自分達でも相当勝手な事言ってると思うんですけど……」
「フフン」
その言葉に、流凪はまたニヤリと笑む。傍から見たら、相当に悪い顔である。
「言ったっしょ。そういう所が良いって。そこで、変な自己弁護や屁理屈こねられたら、それこそ、この場で頭叩き割ってたよ」
そうとう物騒な事を、実に清々しい顔で言う。背筋に薄ら寒いものを感じながら、唖然とする静莉と澄里。
「それでいいんだよ」
流凪は言う。
「人も所詮一個の動物。動物なら動物らしく、もっと我欲に正直になればいい。生きたいなら、生きる。守りたいなら、守る。そこに神やら道義やら、余計なものを絡ませるから人は歪むんだ。生きたいなら、神なんて蹴り倒せ。守りたいなら、道義なんてねじ曲げろ。それでこそ、人は一生命として輝くのだから」
静莉は絶句する。それはかなりというか、相当に歪んだ思考だった。もし、全ての人間が彼女の言う様に生きたら、あらゆるコミュニティは崩壊する。バラバラになれば、人々は生きる導を失う。そう。人と言う生き物は、秩序を守り、従ってこそ生きられるのだ。神職と言う、秩序の一端に職していた静莉はその事を良く理解していた。
流凪の言葉は、強者の理屈だった。神を畏れぬ力を持ち、秩序に縛られずとも生きられる強さを持った、強者の暴論だった。
本来であれば、否定しなければならない論理。
けど。けれど。
静莉には、慈雨の如き言葉でもあった。
守るためならば、如何なるものをも切り捨てる。それは、今まさに自分がしようとしている事。澄里と多くの村人の生活を天秤にかけ、そうすれば多くの人の生活を崩壊させると知りながら、それでもなお、澄里を選んだ。
呵責もあった。迷いもあった。けれど、その全てを振り払って、澄里を守ると決めた。そんな自分を、流凪は肯定した。
非難され、蔑まれるだけと思っていた自分の選択を正しいと言ってくれた。
ポトリ
地面に、数滴の雫が落ちる。
いつしか、静莉は泣いていた。今まで、無理に張っていた気が、一気に緩んでいた。
「姉上……」
気づいた澄里が、腰を浮かしかける。けれど、彼の手が届くよりも早く、温かい感触が静莉を包んでいた。
「ほれほれ~。泣くなら今のうちだぞ~。もう少しで、それどころじゃなくなるから~」
流凪が、その胸に静莉を抱き込んでいた。衣越しに感じる。淡い胸の膨らみ。それに、心臓が高鳴った。その高鳴りを誤魔化す様に、静莉は泣いた。幼い子供の様に声を上げ、流凪の胸にしがみついて泣きじゃくった。
「よしよ~し。頑張ったね~。辛かったね~」
茶化す様に言いながら、流凪がポンポンと背を叩く。その感触が、心地良い。一瞬、幼い日に母に抱かれた記憶が脳裏を過ぎる。
けれど、それはすぐに消えた。
今、静莉の胸に沸き起こる想いは、親を慕うそれとは全く別のもの。これを、何と言うのかを彼女はまだ知らない。ただ、この想いを伝えた時、流凪がどんな顔をするのかだけが気になった。驚くだろうか。それとも、嫌悪するだろうか。いや。そのどちらもないだろう。彼女は全てを受け入れて、その上でこう言うのだ。
「馬鹿な事、考えてんじゃないよ~」、と。
だから、今は泣く。彼女の胸の中で。せめて、この想いが溶けてしまわぬ様に。
明けぬ夜闇の中、抱き合う少女が二人。夜天を昇る月が、その姿を影絵の様に映し照らしていた。