ある夜の話
その日は、とても綺麗な月夜でした。
大きな丸餅の様な満月が天宙に座して、煌々と夜闇を照らし出していました。
で、私めときましては久々の休暇でありまして。月明かりに誘われて、フラフラと夜の散歩になぞ洒落込んだのです。
月を眺め、野良犬と世間話をし、猫の喧嘩を仲裁しつつ、涼やかな夜気を楽しんでおりますと、不意にこんな声が聞こえてきました。
「もしもし……そこのお方……」
声の出処は、この時分には人の気などありえない筈の場所。街外れの墓地でした。
「どちら様ですか?」
「こちらです。こちらでございます」
呼び声につられて、手近な墓石の影を覗きました。するとそこには……。
「す……すみませぬ……。どうか、どうか医者を……」
「ふぇえええ!?」
今にも息絶えそうな魍魎様が、口から泡を吹き吹き呻いていました。
まったく、びっくりポンでございます。
しかし、私めが腰を抜かしている間にも、件の魍魎様はビクンビクンと末期の痙攣を始める始末。こりゃいかんと慌てて背に負いまして、行きつけの物の怪病院に駆け込んだ次第なのです。
「食中りの様じゃ」
それが、院長の白蔵主先生の見解でした。
「………」
「なんじゃ?その顔は?」
その時、私めはさぞや珍妙な顔をしていたのでしょう。白蔵主先生は、些かお引きになった顔でそうおっしゃいました。
しかし、その様になった言い分は私めにもあります。僭越ながら、言わせていただきました。
「食中りって……、白蔵主先生、あの方”魍魎”ですよ?」
「魍魎が食中りしては、いかんのかえ?」
「だって、魍魎って言ったら……」
『魍魎』
姿は三歳の小児の如し。色、赤黒く、目は赤く、耳は長い。その髪は美しい。好んで死者の脳や肝を喰む。
「って言う様な方ですよ?そもそも死体を食するのが勤めの方なのに、食中りなんて……」
けれど、そう言う私めに、白蔵主先生はこうおっしゃるのです。
「やれやれ。死神とは存外物知らずなものよな」
「と、いいますと?」
「最近、増えておるのじゃぞ。魍魎の様な死体喰いの急性中毒」
「ええ!?」
驚く私めに、先生は重ねておっしゃるのです。
「死体喰いだけではない。鬼どもの様な活人間喰いや、鵺の様な魂喰いの連中にも、被害は拡大しておるのじゃ」
何と言う事でしょう。最近忙しくて新聞を読んでいなかったとは言え、そんな大事を知らなかったとは。まさに羞恥の極みというものです。
「だけど、何でまたそんな事に?」
私めの問いに、先生は「うむ」と言って答えます。
「どうやら、人間どもの変質が原因らしいわ」
「変質?」
「分からんか?死神の様な職務であらば、分かるであろ」
「え……?」
言われてみれば、確かに。
昨今の人間の歪みっぷりは、些か度を越している嫌いがあります。
自己中心。自善他悪。欲の為に他人を害し、思想の為に他者を貶める。己の力を傘にきて、あるいは社会の裏から陰惨に。善を行う者を嘲笑し、静かに暮らす者を妬み、時には守るべき子すらも標的に。
そんな卑しい人間が、とみに増えている様に思われます。
心根の汚れは身体にも通じます。心の歪んだ人間は、その血肉も汚れているとみて良いでしょう。
基本、我ら妖魅は清純なものです。人を喰う所業も、そうある様に生まれればこそ。邪念があってのものではありません。
そんな妖魅が、かような代物を食すれば。
結果は明白。中るも当然かもしれません。
溜息つきつき、先生はおっしゃいます。
「この間なぞ、何処ぞの大物政治家とやらの寝息を吸うた『黒坊主』が、腐気に中って転がり込んできおったわ」
「ね……寝息だけで……」
驚愕、ここに極まれりです。
ちなみに、『黒坊主』という方は、寝ている人間の元に現れて、寝息を吸い、口を舐める事を生業としている妖です。それ以外に危害は加えませんので、遭遇なさってもどうぞご平静に。吐き気がするくらい、口臭がキツイのが玉にきずですが。
「それだけ、今の人間達の毒が怖いと言う事よ」
「人喰いを生業とする方々には、死活問題ですね」
「誠、難儀な事よ」
そう言って、私めと先生は溜息を付き合ったのでした。
コポコポコポ
診察室に、風変わりな香が流れます。白蔵主先生が沸かす、お茶の香。
水晶のティーポッドから注がれる、新緑色のお茶。先生は、それを水晶のカップに注いでくれました。
「主も、大分疲れておるようじゃのう。ほれ、薬茶をやろう」
「あ、すいません」
カップを受け取り、一口啜ります。些か薬臭いですが、甘く爽やかな味が口に広がりました。
私めが「ハァ~」なんて言ってほんわかしていますと、
「先生~」
誰かの声が、聞こえました。
聞き覚えのない声です。看護師の姑獲鳥さんや女郎蜘蛛さんの声では、ありません。
その声のした方に目を向けますと、これまた見た事のない少女がこちらに近づいてくる所でした。
彼女は言います。
「魍魎の腑、洗い終わったよ」
そんな彼女の手からは、シュルリと長い鎌が伸びています。その刃は言葉の通り、先の魍魎様のものでしょう。ギラギラとした血脂に塗れていました。
「おお、そうかえ」
そう言って、白蔵主先生が腰を上げます。
ちなみに腑云々というのは、治療の事です。食中りの患者は、お腹を開いて内蔵を取り出し、その中をお酒で清め洗うとピタリと治るのだそうです。先生にこの治療法を聞いてから、私めは食中りだけにはなるまいと心に決めている次第です。
さて、話は戻ります。件の少女、その手から生える鎌を見て、私めはピンときました。
「……『鎌鼬』さん……ですね?」
「おお、分かるかえ?」
白蔵主先生が、感心した様に言います。そりゃそうでしょう。今日日、鎌を持った妖怪と言ったら、死神か鎌鼬か、でなきゃ口裂け女さんくらいのものです。
しかし、病院の従業員としては些か不似合いです。どう言う次第でしょう?気になったのなら、問うてみるのが一番です。
「何で、鎌鼬が病院に?」
白蔵主先生の答えは、こうでした。
「何、どうやら現世で何かやらかした様での。行き場がないと言うから、ここに置いておる」
昔から、細かい事にこだわらない先生です。
「わしの老いぼれ腕では、患者どもの腹を裂くのは些か難儀でな。こやつのお陰で楽が出来るわい」
そう言って、ほっほと笑う白蔵主先生。大丈夫なんでしょうか?この病院。
「それでは、わしは仕上げをしてくるでな。若い者同士仲良くする事じゃ」
そして、白蔵主先生は私めと鎌鼬さんを残して部屋を出て行ってしまいました。
とは言われましても、お互い初見の身。通じる話題などある筈もなく。
「………」
「………」
しばらく、気まずい沈黙が流れます。
(まずい……。何か話さなければ……)
私めがそう思い始めたその時、
「あんた、死神なんだって?」
何と、向こうから話しかけてきてくれました。天の助けとばかり、それに食いつきます。
「え、あ、はい!!そうですよ!?そうですとも!!」
悩んでいた表情が、パッと明るくなるのが自分でも分かります。そんな私めに、鎌鼬がツイッと顔を寄せてきました。
綺麗な顔。それが近い。お互いの吐息が届く距離。思わずドギマギしてしまいます。
彼女が言います。
「綺麗だねぇ。真っ白でさ」
「そ、そうですか?」
「ああ。本当に、綺麗」
そう言いながら、私めの背後に回ると首に腕を絡めてきます。耳朶に当たる、冷たい息。そして、呟く一言。それは――
「血の紅が、似合いそう」
背筋に、嫌な悪寒が走りました。私めは問います。
「あの……鎌鼬さん?」
「ん?なぁに?」
「現世で何かあったそうですけど、一体何が……」
一瞬の沈黙。でも、彼女はすぐに口を開きました。
「ん~。まぁ、いっかぁ。言っちゃっても」
そして、彼女は囁きます。私めの耳朶の、すぐそばで。
「鎌鼬の生業、知ってるでしょう?」
鎌鼬の生業。それは人を傷つける事です。突風と共に吹きつけ、人の肌に切り傷をつけていきます。でも、それだけ。決して、殺める事はありません。
確然とした意味は、ありません。ただ、そうあるものとして生じた。それだけの事です。
彼女は笑います。
「そうそう。そうなんだけど、アタシちょっと変わり者でさぁ」
「変わり者?」
「そう。アタシ、物足りなくなっちゃったの」
「………?」
言っている意味が、分かりません。
「だからぁ……」
声が、冷えました。まるで、氷風の様に。
「物足りなくなったのよ。切り傷つけるだけじゃあ」
「!!」
言葉の意味を察した瞬間、息が止まりました。
「うふふ。どうしたの?そんなに固くなっちゃってぇ」
密着する身体。頬を嫌な汗が伝います。それを楽しむ様に、頬を擦り付けてくる彼女。
「でさぁ、一回やったら、病みつきになっちゃってぇ。見境なしに手ぇ出してたら、狩り人に目ぇつけられちゃってさぁ……」
何が可笑しいのか、ケケケと笑う声。
「鎌鼬が切り殺されちゃあ、洒落にもなんないもんねぇ……」
細い指が、クイと私めの顎を上げました。血の色に染まった瞳が、私めの瞳を見つめます。三日月に歪んだ口が言いました。
「心配しなくてもいいわよぉ。いくらアタシでも、死神に手を出すほどイカれちゃいないって」
そして彼女はまた、ケケケと笑うのでした。
まったく、世も末とはよく言ったもの。
歪んでいるのは、人間の世だけではない様です。
終わり