三夜の話・捌
ガシャアァアアンッ
鈍い衝撃と共に、けたたましい音が弾けた。
パッ
途端に自由になる頭。鷲掴みにされていた髪が放されたのだ。あたしはそのまま、前につんのめる様に倒れる。
「はっ!!はぁっ!!」
咳き込む様に、息をつく。何が起こったのか、分からない。目を向けると、あいつが地面に倒れていた。その傍らに転がっているのは、栄養ドリンクの空き瓶。これが飛んできて、あいつに当たったらしい。
一体誰が?半ば混乱した思考で、そう考えた時、
「惠!!」
聞き慣れた声が、あたしの耳を討つ。思わず目を向けると、こっちへ走ってくる龍樹の姿が見えた。
「たつ……き……?」
「惠!!大丈夫か!?」
駆け寄ってきた彼があたしの両肩を掴みながら、そう言った。
「龍樹……」
呆然とするあたし。言葉も出ない。そんなあたしを見て、彼が青くなる。
「お、おい!!どうした!?何処かやられ……!?」
最後まで聞く余裕なんてなかった。彼の言葉が終わらないうちに、あたしは彼に抱きついていた。
「け、惠!?」
慌てる彼の身体を、力いっぱい抱きしめる。どれほど必死に走ってきたのだろうか。荒い息と汗の匂い。そして、熱い体温。それが、あたしの身体に染みてくる。霧と刃。それに冷やされきった身体が温もりに満ちてくる。もっともっとと言う様に、あたしは彼の身体を求め続けた。
「お、おい!!待て!!それどころじゃないだろ!!」
半ば焦る様な、半ば照れる様な調子で彼が言う。それでも、あたしは離れない。
「だーっ!!だから、離れろって!!」
とうとう辛抱たまらなくなったのか、龍樹は無理矢理あたしを押し戻した。
「ご……ごめん……」
我に返って、謝るあたし。途端、
「痛っ!!」
手の平に焼ける痛みが走って、思わず声を上げた。驚いた龍樹の目が、あたしの手を捉える。そこにあるのは、あいつに刻まれた紅い傷。それを見た龍樹の顔色が、紅から青に変わる。
あたしの手をバッと取って、傷を凝視する。
ポタポタと血が垂れる、真っ赤な手。筋や大事な血管が切れる程じゃないけど、そう浅い傷でもない。手を取る彼の手に、力がこもる。
「い……痛いよ……。たつ……」
言おうとした口が、固まった。あたしの傷を凝視する龍樹。その顔が、怒っていた。本当に、怒っていた。見た事が、ないくらいに。
「野郎……!!」
龍樹の視線が、あいつに向く。
その先には、地面に横たわるあいつの姿。それが、ビクリビクリと痙攣する様に動いている。
「惠……、立てるか?」
「うん……」
彼の腕に支えられて、立ち上がる。それと同時に、あいつの身体がビクンと跳ねた。思わず、龍樹の腕にすがりつく。
「龍樹!!駄目だよ!!逃げよう!!あいつは……」
「分かってる」
あたしが言葉を紡ぎ終える前に、彼が言った。
「全部、分かってる……」
「龍樹……?」
彼の目が、燃えていた。その額には汗が浮いて、顔色は真っ青。身体も細かく震えている。だから、分かった。龍樹は知っている。あいつが。ジャックがなんなのかを。そして、彼もまた、恐怖している。その存在の、異質さを。でも、それ以上に熱いものが、今の龍樹を突き動かしていた。
「惠、下がってろ……」
「龍樹……」
「大丈夫。言ったろ?」
「?」
「お前は、絶対守ってやるって」
ボッ
一気に顔に血が上る。こんな時に、臆面もなく何て事を言うんだろう。これだから、こいつは。
変な意味で戦慄くあたし。けれど、龍樹の表情は至って真剣だ。
「龍樹……まさか、あいつと……」
「ああ。ガチンコだ」
その言葉に、今度は頭から血が下がる。
「な……」
何を馬鹿なと言いかけた瞬間、
カキャンッ
横たわっていたあいつが、跳ね上がった。そのまま、錐揉みする様にあたし達に向かって落ちてくる。
「惠!!」
龍樹が、あたしを庇う様に覆い被さってくる。
ギャギャギャンッ
あいつが、地面に抉り込む様に落ちてきた。物凄い衝撃と風。あたし達は、成す術もなく吹き飛ばされる。
「クッ!!」
「きゃあっ!!」
地べたを転がるあたし達。道路脇のガードレールに当たって、ようやく止まる。
「いつ……つ……」
クラクラする頭を抑えながら起き上がると、傍らで膝をつく龍樹の姿が目に入った。
……ズタズタだった。
身体中が切り裂かれて、服がじっとりと血に染まっている。あたしを庇ったせいで、攻撃のほとんどをその身で受けたのだ。
「てて……」
額から流れる血を拭いながら、呻く龍樹。
「龍樹!!」
思わずすがりつくと、ジットリと湿った感触が手に伝わった。
「大丈夫!?ねえ!!大丈夫!?」
「いてて!!大丈夫だって!!大した傷じゃねーよ!!」
嘘だ。傷の幾つかはとても深い。溢れる血の量が、それを物語る。その事を、彼も悟っているのだろう。ヨロヨロと立ち上がりながら言う。
「こりゃ、早めにケリつけねーとな……」
そんな彼に、あたしは血に濡れた服の裾を掴みながら言う。
「いいよ!!もう、いいよ!!ねえ、逃げよう!!一緒に、逃げようよ!!」
でも、彼の答えは変わらない。
「わりぃ……。そう言う訳には、いかねーんだ……」
「何で!?何で駄目なの!?何を、そんなにこだわってるの!?」
すると、龍樹は苦笑いしてこう言った。
「逃げたって、追いかけてくるぜ。あいつ……」
「でも……」
「霧、あるだろ?」
「?」
怪訝そうな顔をするあたし。確かに、周りはずっと霧の海だ。もう、あたし達が何処にいるかも分からない。
「この霧の中だと、逃げられないんだってよ」
「え……?」
「だから、あいつを何とかするしかないんだ」
額からの血が止まらない。龍樹は何度も拭う。
「あんた、どうしてそんな事……」
「南方に、教えられた」
「!?」
思いもしない言葉に、あたしは固まる。そんなあたしを見下ろして、ニヘラと笑う龍樹。
「頼まれたんだ。お前を、助けろって」
訳が分からなかったけれど、不思議と疑う気にはなれなかった。嘘じゃないと、彼の目が語っていたから。
「二人分の約束だからな。守らないと」
そう言って、龍樹がもう一度額を拭ったその時、
キリキリキリキリ……
聞こえてくる、軋る音。そして、
……London Bridge is falling down……
響き始める、あの歌声。
キシキシキシ……
悪夢の音を立てながら、あいつが立ち上がる。
……Falling down, falling down……
ゴクリ……
龍樹の喉が鳴る音が聞こえた。あたしも、息が詰まる思いでそれを見つめる。
キシリキシリキシリ
緩慢な動きで、あいつの頭が上がっていく。
またあいつが動き始めるまで、どれほどの間があるだろう。あたしは、必死で考えていた。あたしと龍樹が、ここから生きて帰る方法を。龍樹はああ言ったけれど、今の事態を招いたのはあたしの愚行。せめて、龍樹だけでも。あたしは、ただひたすらに考えていた。
……London Bridge is falling down……
その間にも、あいつは動き続ける。
キシキシキシ……
とうとう、あいつの頭が上がった。
「!?」
真っ先に目に入ってきたのは、仮面の白ではなく、真っ赤な血の色だった。
さっき、龍樹が当てた空き瓶のせいだろう。あいつの仮面には大きなヒビが入って、そこから真っ赤な鮮血が流れていた。
「へ、何だ。結構、効いてるみたいじゃねぇか。化け物だと思ってたけど、結構いけんじゃねぇの?」
湧き上がる恐怖を抑える様に、軽口を叩く龍樹。その彼の傍らで、あたしは妙な違和感に囚われていた。
おかしい。何かが、おかしい。
My fair lady……
結ばれる歌。
あいつの身体が、ピクリと動く。
「惠!!離れろ!!」
ドンッ
「キャッ!!」
叫びと共に、突き飛ばされる。次の瞬間、
グワッ
気味の悪い突風が、あたしの傍らを通り過ぎる。
ズザザザザザザザザッ
「うわぁっ!!」
地面を擦る音と、龍樹の悲鳴が聞こえた。
「龍樹!!」
目をやると、仰向けに倒れた龍樹に覆い被さるあいつの姿が見えた。あいつの手には、ナイフが握られていて、それを龍樹の左目に振り下ろそうとしていた。
「こんの……やろ……!!」
迫る刃を両手で阻む龍樹。けれど、力の差は歴然。ナイフはギリギリと押し込まれていく。
このままじゃ、いけない。何とか、しないと。焦るあたしの視界に、光るものが映る。
「!!」
それは、地面に転がる果物包丁だった。




