三夜の話・陸
ケタタタタタタタタッ
耳朶を塞ぐ、けたたましい笑い声。
鮮血にぬめるナイフを振りかざし、覆い被さる様に襲いかかってくる”そいつ”。迫る白面。鼻腔を塞ぐ、血臭。
後ずさろうとした瞬間、
ズルンッ
「!!」
下に溜まった血糊で、足が滑った。そのまま、尻餅をついてしまう。
そんなあたしめがけて、振り下ろされるナイフ。すくみ上がる身体。どうにも、ならない。
「うわぁああああああああっ!!」
口から迸る悲鳴。そして――
ガツンッ
鈍い音と衝撃。視界が真っ暗に染まった。
『分かるでしょう……?ねぇ、分かるでしょう……?』
中上龍樹は動けない。その身体は、不可視の力に囚われたまま。強張る背中に、南方夕子だった”彼女”が頬を寄せる。
『今から行っても、間に合わない……』
”彼女”が告げる。冷酷に。冷淡に。歪め様のない、事実を告げる。
『わたしは、あなたにまで死んで欲しくない……』
抱きしめられる感覚。冷たい手が、胸を這う。
『わたしはね……』
地の底から湧き上がる様な、昏くか細い声。軋む氷の様に、キシキシと鳴る。
『あなたの事が、好きだったんだよ……?』
「!!」
冷えゆく心臓が、キクリと疼く。
『本当はね……。羨ましかったよ……?妬ましかったよ……?惠の事……』
初めて伝えられる、その想い。今となっては、答え様もない。切なる想い。
『だからね、少し嬉しいの……』
けれど、次に紡がれるのは、熱のない凍った言の葉。
『あなたが、誰のものでもなくなるのが、嬉しいの……』
ニタリ
笑む、気配。冷たく。虚しく。笑む気配。
『だからね、あなたは死なないで……。生きていて……』
スゥ……
胸を這っていた手が上がる。愛しげに、顎を撫でる。鉄錆の香が、強く香った。
『大丈夫……』
”彼女”が嗤う。この世のものでなくなった声で、彼女が嗤う。
『惠は、わたしが連れて行くから……』
「!!」
瞬間、何かが切れた。
「やめろ!!」
パシィンッ
『きゃっ!!』
上げる怒号とともに、解ける束縛。身体に絡んでいた氷の感触が、弾ける気配と共に離れた。
「は、はぁっ!!」
急に取り戻した自由に驚く様に、つんのめる身体。辛うじて、押し留まる。それと同時に、怒鳴った。
「違うだろ!?」
ビクリ
背後で感じる、竦み上がる気配。構わずに続ける。
「違うだろ!?オレ達は、そんなんじゃなかったろ!?忘れちまったのか!?忘れちまうのか!?そんな事まで!!」
『………』
「なぁ!!思い出してくれよ!!お前は、そんなんじゃなかったろ!?そんな、爛れた奴じゃ、なかったろ!!お前は……お前は……!!」
上手い言葉など、出てこない。気の利いた口上など、湧きもしない。ただ、ぶつける。熱を。彼女を侵す悲しみを吹き飛ばす様な、熱い思いを。
「お前は、オレ達の南方夕子だろ!!」
ハア……ハア……
『………』
熱い息を吐き、身体を揺らす中上龍樹。そんな彼を、”彼女”は見つめる。そして、
『……アハ……』
冷たい沈黙が、破れた。
『アハハハハハハハハハ!!』
”彼女”が笑った。先までの、冷たい死者の声でなく。彼女が、彼女であった時のその声で。
『アハ、ハハ。ずるいよ。中上君』
嬉しそうに。だけど悲しそうに。彼女は言う。
『そんな風に言われたら、何も出来ないよ……。本当に……本当に、ずるいよ……』
「南方……」
『やっぱり、駄目か……』
潤む声が、呟く。
『君だけはと、思ったんだけどなぁ……』
溜息をつく声。寂しく。優しく。
「……わりぃ……」
中上龍樹のその言葉の意味を、彼女は受け止める。真っ直ぐに。否定する事なく。
『行くんだね……』
「ああ……」
『言ったもんね……。”守る”って……』
「約束、したんだ」
『そうだね……』
瞬間、
ヒュウ……
何かが、動いた。
「うわ……」
背後から、吹き抜ける風。吹き飛ばされていく、眼前の霧。そして、
コォオオオオオオ……
吹き散らされる霧の向こうに現れる、一本の道。
「あ……」
それを見た中上龍樹が、目を見開く。
何故なら、その道は彼がよく知るものだったから。幼い頃から、彼らが行きかい、戯れ合い、追いかけ合った道。本来ならば、真っ先に思い浮かべる場所。なのに――
「忘れてた……。どうして……?この道はいつも……」
『”霧”のせいだよ……』
「”霧”……?」
『そう……』
戸惑う中上龍樹に、”彼女”は言う。
『この霧はね、隠里世を創り出すの……』
「かくりよ……?」
頷く気配。”彼女”は、続ける。
『隠里世は、この世とは断絶された世界……。そこに包み飲まれたものは、この世の者には認識出来なくなる……。犠牲者は、皆この中で殺された……。たった一人で……。寂しいままに……』
一瞬、その声音にこもる憎悪の色。それが、中上龍樹の心を穿つ。
『いるよ……。中上君……』
屍蝋の腕が、道の先を示す。その向こうに、望む者がいるのだと。
「惠……」
皆まで聞く事なく、中上龍樹は踏み出す。そんな彼に、”彼女”は問う。もう一度、その想いを確かめる様に。
『行くんだね……』
もう一度、問う。
「ああ」
一瞬の躊躇もない、答え。だからもう、止めはしない。
『まだ、間に合うから……』
囁く。寂しげに。悲しげに。だけど、信じて。
『惠を、助けて……』
頷く。
『死なないでね……』
また、頷く。
『わたしはもう、ここまでだけど……』
一瞬の間。そして、”彼女”は言う。万感の想いを込めて。
『大好きだったよ……。中上君……。あなたも、惠も……』
「ああ……」
だから、答える。こちらも、万感の想いをかけて。
『ありがとうな。南方』
一瞬感じる、微笑む気配。
そして、彼は走り出す。自分を待つ、少女の元へ。
『こっちこそ……ありがとう……』
ポツリ、囁く。霧の向こうへ消えていく、彼に向かって。自分の想いを受け止めてくれた、その心に。自分の願いを察してくれた、その強さに。そして、最後まで今の自分を見ないでくれた、その優しさに。
『神様……』
そして、彼女は願う。もはや、捧げるものもないこの身体。それでも、たった一つ残った己を賭けて。
『どうか、お守りください……。あの二人を……』
願う言葉は霧に溶け、夜闇の向こうへ消えていく。最期に紡いだその願い、聞き届けたは、神か否か。
後にはただただ、冷たい夜気が漂うだけ。
「はあ……はあ……はあ……」
荒い息をつきながら、あたしは瞑っていた目を開けた。途端――
ガクリ
「ひっ!?」
目の前に垂れ下がってきた白面に、心臓が跳ね上がった。
けれどそれは、ピクリとも動かない。
「………?」
訳が分からないまま、視線を仮面の向こうに向ける。
飛びかかられた瞬間、咄嗟に突き出した両手。その両手に握った、果物包丁。無造作に振り回した切っ先が、”そいつ”の腹に突き刺さっていた。気づいた途端、その重みが両手にかかる。
「――――っ!!」
その感触のおぞましさに、思わず突き飛ばす様に手を離した。
グラリ……
ゆっくりと傾ぐ、”そいつ”の身体。そして――
カシャーン……
人間のものとは思えないほど軽い音を立てて、その身は地面に転がった。
はあ……はあ……はあ……
今だ収まらない動悸。それを無理矢理呑み込んで、そいつの姿を凝視する。
仰向けに転がった身体。その腹に突き立った包丁。ピクリとも、動かない。
「やっ……た……?」
呆然と呟く声。虚空に消える。
「う……ぐぅっ!!」
感じた事もない嘔吐感がこみ上げてきて、あたしは胃の中のものを吐き出した。
「う……く……」
あらかた吐いた後、口を拭いながらもう一度”そいつ”に目を向ける。
虚空を掴む様に伸びた腕。ダラリと投げ出された足。地面に広がる、長い髪。そして、何処を見てるかも分からない、白磁の仮面。
どれもやっぱり、動かない。
終わったの、だろうか。それは、あたしが思っていたよりもずっと簡単で。ずっとずっと、あっけなくて。
カクカクと震える足。立つ事なんて、ままならない。辛うじて動く手で、地面を掴む。ズルズルと這う様にして、”そいつ”に近づく。ゆっくり。ゆっくり。少しずつ。
確信が欲しかった。終わったのだという、確信が。
少しずつ近づいて、投げ出された足に触れようとしたその時、
……London Bridge is falling down……
それが、響いた。
「ひっ!?」
ビクリと竦む身体。咄嗟に、後ずさる。
……Falling down falling down……
ああ……。駄目だ……。駄目だ!!心が叫ぶ。
……London Bridge is falling down……
立たなきゃ!!逃げなきゃ!!
焦り喚く心。だけど、身体は言う事を聞かない。震える足が、地面の血溜りで滑る。陸に揚げられた魚の様にもがくあたしを嘲笑う様に、歌は続く。そして、
……My fair lady……
終わる歌。戻る沈黙。
ゴクリ……
あたしが、カラカラに乾いた喉をならしたその瞬間――
ガクンッ
投げ出されていた白面が直角に起き上がり、あたしを見た。
「――――っっっ!!」
ケタ、ケタタ、ケタタタタタタタタタタッ
響く哄笑。
デュエットする様に響く、あたしの悲鳴。
霧の中に、仲良く虚しく、消えていく。
夜はまだ、終わらなかった。