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月下奇譚  作者: 土斑猫
三夜の話
16/59

三夜の話・陸

 ケタタタタタタタタッ



 耳朶を塞ぐ、けたたましい笑い声。


 鮮血にぬめるナイフを振りかざし、覆い被さる様に襲いかかってくる”そいつ”。迫る白面。鼻腔を塞ぐ、血臭。


 後ずさろうとした瞬間、



 ズルンッ



 「!!」



 下に溜まった血糊で、足が滑った。そのまま、尻餅をついてしまう。

 そんなあたしめがけて、振り下ろされるナイフ。すくみ上がる身体。どうにも、ならない。



 「うわぁああああああああっ!!」



 口から迸る悲鳴。そして――



 ガツンッ



 鈍い音と衝撃。視界が真っ暗に染まった。





 『分かるでしょう……?ねぇ、分かるでしょう……?』



 中上龍樹(なかがみたつき)は動けない。その身体は、不可視の力に囚われたまま。強張る背中に、南方夕子(みなかたゆうこ)だった”彼女”が頬を寄せる。



 『今から行っても、間に合わない……』



 ”彼女”が告げる。冷酷に。冷淡に。歪め様のない、事実を告げる。



 『わたしは、あなたにまで死んで欲しくない……』



 抱きしめられる感覚。冷たい手が、胸を這う。



 『わたしはね……』



 地の底から湧き上がる様な、昏くか細い声。軋む氷の様に、キシキシと鳴る。



 『あなたの事が、好きだったんだよ……?』

 「!!」



 冷えゆく心臓が、キクリと疼く。



 『本当はね……。羨ましかったよ……?妬ましかったよ……?(けい)の事……』



 初めて伝えられる、その想い。今となっては、答え様もない。切なる想い。



 『だからね、少し嬉しいの……』



 けれど、次に紡がれるのは、熱のない凍った言の葉。



 『あなたが、誰のものでもなくなるのが、嬉しいの……』



 ニタリ



 笑む、気配。冷たく。虚しく。笑む気配。

 『だからね、あなたは死なないで……。生きていて……』



 スゥ……



 胸を這っていた手が上がる。愛しげに、顎を撫でる。鉄錆の香が、強く香った。



 『大丈夫……』



 ”彼女”が嗤う。この世のものでなくなった声で、彼女が嗤う。



 『惠は、わたしが連れて行くから……』

 「!!」



 瞬間、何かが切れた。



 「やめろ!!」



 パシィンッ



 『きゃっ!!』



 上げる怒号とともに、解ける束縛。身体に絡んでいた氷の感触が、弾ける気配と共に離れた。



 「は、はぁっ!!」



 急に取り戻した自由に驚く様に、つんのめる身体。辛うじて、押し留まる。それと同時に、怒鳴った。



 「違うだろ!?」



 ビクリ



 背後で感じる、竦み上がる気配。構わずに続ける。



 「違うだろ!?オレ達は、そんなんじゃなかったろ!?忘れちまったのか!?忘れちまうのか!?そんな事まで!!」

 『………』

 「なぁ!!思い出してくれよ!!お前は、そんなんじゃなかったろ!?そんな、爛れた奴じゃ、なかったろ!!お前は……お前は……!!」



 上手い言葉など、出てこない。気の利いた口上など、湧きもしない。ただ、ぶつける。熱を。彼女を侵す悲しみを吹き飛ばす様な、熱い思いを。



 「お前は、オレ達(・・・)の南方夕子だろ!!」

 

 ハア……ハア……


 『………』



 熱い息を吐き、身体を揺らす中上龍樹。そんな彼を、”彼女”は見つめる。そして、



 『……アハ……』



 冷たい沈黙が、破れた。



 『アハハハハハハハハハ!!』



 ”彼女”が笑った。先までの、冷たい死者の声でなく。彼女が、彼女であった時のその声で。



 『アハ、ハハ。ずるいよ。中上君』



 嬉しそうに。だけど悲しそうに。彼女は言う。



 『そんな風に言われたら、何も出来ないよ……。本当に……本当に、ずるいよ……』

 「南方……」

 『やっぱり、駄目か……』



 潤む声が、呟く。



 『君だけはと、思ったんだけどなぁ……』



 溜息をつく声。寂しく。優しく。



 「……わりぃ……」



 中上龍樹のその言葉の意味を、彼女は受け止める。真っ直ぐに。否定する事なく。



 『行くんだね……』

 「ああ……」

 『言ったもんね……。”守る”って……』

 「約束、したんだ」

 『そうだね……』



 瞬間、



 ヒュウ……



 何かが、動いた。



 「うわ……」



 背後から、吹き抜ける風。吹き飛ばされていく、眼前の霧。そして、



 コォオオオオオオ……



 吹き散らされる霧の向こうに現れる、一本の道。



 「あ……」



 それを見た中上龍樹が、目を見開く。

 何故なら、その道は彼がよく知るものだったから。幼い頃から、彼らが行きかい、戯れ合い、追いかけ合った道。本来ならば、真っ先に思い浮かべる場所。なのに――



 「忘れてた……。どうして……?この道はいつも……」

 『”霧”のせいだよ……』

 「”霧”……?」

 『そう……』



 戸惑う中上龍樹に、”彼女”は言う。



 『この霧はね、隠里世(かくりよ)を創り出すの……』

 「かくりよ……?」



 頷く気配。”彼女”は、続ける。



 『隠里世(かくりよ)は、この世とは断絶された世界……。そこに包み飲まれたものは、この世の者には認識出来なくなる……。犠牲者は、皆この中で殺された……。たった一人で……。寂しいままに……』



 一瞬、その声音にこもる憎悪の色。それが、中上龍樹の心を穿つ。



 『いるよ……。中上君……』



 屍蝋の腕が、道の先を示す。その向こうに、望む者がいるのだと。



 「惠……」



 皆まで聞く事なく、中上龍樹は踏み出す。そんな彼に、”彼女”は問う。もう一度、その想いを確かめる様に。



 『行くんだね……』



 もう一度、問う。



 「ああ」



 一瞬の躊躇もない、答え。だからもう、止めはしない。



 『まだ、間に合うから……』



 囁く。寂しげに。悲しげに。だけど、信じて。



 『惠を、助けて……』



 頷く。



 『死なないでね……』



 また、頷く。



 『わたしはもう、ここまでだけど……』



 一瞬の間。そして、”彼女”は言う。万感の想いを込めて。



 『大好きだったよ……。中上君……。あなたも、惠も……』

 「ああ……」



 だから、答える。こちらも、万感の想いをかけて。



 『ありがとうな。南方』



 一瞬感じる、微笑む気配。

 そして、彼は走り出す。自分を待つ、少女の元へ。



 『こっちこそ……ありがとう……』



 ポツリ、囁く。霧の向こうへ消えていく、彼に向かって。自分の想いを受け止めてくれた、その心に。自分の願いを察してくれた、その強さに。そして、最後まで今の自分を見ないでくれた、その優しさに。



 『神様……』



 そして、彼女は願う。もはや、捧げるものもないこの身体。それでも、たった一つ残った己を賭けて。



 『どうか、お守りください……。あの二人を……』



 願う言葉は霧に溶け、夜闇の向こうへ消えていく。最期に紡いだその願い、聞き届けたは、神か否か。


 後にはただただ、冷たい夜気が漂うだけ。





 「はあ……はあ……はあ……」



 荒い息をつきながら、あたしは瞑っていた目を開けた。途端――



 ガクリ



 「ひっ!?」



 目の前に垂れ下がってきた白面に、心臓が跳ね上がった。

 けれどそれは、ピクリとも動かない。



 「………?」



 訳が分からないまま、視線を仮面の向こうに向ける。


 飛びかかられた瞬間、咄嗟に突き出した両手。その両手に握った、果物包丁。無造作に振り回した切っ先が、”そいつ”の腹に突き刺さっていた。気づいた途端、その重みが両手にかかる。



 「――――っ!!」



 その感触のおぞましさに、思わず突き飛ばす様に手を離した。



 グラリ……



 ゆっくりと傾ぐ、”そいつ”の身体。そして――



 カシャーン……



 人間のものとは思えないほど軽い音を立てて、その身は地面に転がった。



 はあ……はあ……はあ……



 今だ収まらない動悸。それを無理矢理呑み込んで、そいつの姿を凝視する。

 仰向けに転がった身体。その腹に突き立った包丁。ピクリとも、動かない。



 「やっ……た……?」



 呆然と呟く声。虚空に消える。



 「う……ぐぅっ!!」



 感じた事もない嘔吐感がこみ上げてきて、あたしは胃の中のものを吐き出した。



 「う……く……」



 あらかた吐いた後、口を拭いながらもう一度”そいつ”に目を向ける。


 虚空を掴む様に伸びた腕。ダラリと投げ出された足。地面に広がる、長い髪。そして、何処を見てるかも分からない、白磁の仮面。


 どれもやっぱり、動かない。


 終わったの、だろうか。それは、あたしが思っていたよりもずっと簡単で。ずっとずっと、あっけなくて。


 カクカクと震える足。立つ事なんて、ままならない。辛うじて動く手で、地面を掴む。ズルズルと這う様にして、”そいつ”に近づく。ゆっくり。ゆっくり。少しずつ。


 確信が欲しかった。終わったのだという、確信が。


 少しずつ近づいて、投げ出された足に触れようとしたその時、



 ……London Bridge is falling down……



 それが、響いた。



 「ひっ!?」



 ビクリと竦む身体。咄嗟に、後ずさる。



 ……Falling down falling down……



 ああ……。駄目だ……。駄目だ!!心が叫ぶ。



 ……London Bridge is falling down……



 立たなきゃ!!逃げなきゃ!!


 焦り喚く心。だけど、身体は言う事を聞かない。震える足が、地面の血溜りで滑る。陸に揚げられた魚の様にもがくあたしを嘲笑う様に、歌は続く。そして、



 ……My fair lady……



 終わる歌。戻る沈黙。



 ゴクリ……



 あたしが、カラカラに乾いた喉をならしたその瞬間――



 ガクンッ



 投げ出されていた白面が直角に起き上がり、あたしを見た。



 「――――っっっ!!」



 ケタ、ケタタ、ケタタタタタタタタタタッ



 響く哄笑。

 デュエットする様に響く、あたしの悲鳴。

 霧の中に、仲良く虚しく、消えていく。


 夜はまだ、終わらなかった。

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