三夜の話・伍
♪London Bridge is falling down
Falling down, falling down
London Bridge is falling down
My fair lady♪
霧夜の中に響く、冷たい歌声。キリキリと軋む歯車の音の様なそれが、キンキンと脳髄に食い込んでくる。堪らず、後ずさるあたし。その前にドチャリと湿った音を立てて、頭と下半身のない身体が落ちた。
飛び散る鮮血が頬にしぶく。
「ひぃっ!!」
くぐもった悲鳴が、喉を塞ぐ。足から力が抜けるけど、崩れ落ちるのは何とかこらえた。座り込んでしまったら、二度と立てないと分かっていたから。
バサリ……
そんなあたしの前で、血色の塊が落ちる。
揺れる血溜りに、重い水音を立てて降り立った”そいつ”が、ユラリと立ち上がる。その身の中から、キリキリと何かが軋る音がしたのは耳の迷いだろうか。
……♪London Bridge is falling down♪……
無機質な歌声と共に、翻る血色のマント。高く伸び上がったそいつの身体が月明かりを遮って、あたしの周りに暗く影を落とした。
そいつの顔は、真っ白い仮面に覆われている。笑う道化師の顔を型どった、不気味な仮面。伽藍堂の眼窩の奥で、あたしを見つめる確かな視線を感じた。
……♪Falling down……falling down♪……
キシシ……
歌と共に響く、軋る音。マントの中から伸びてくる、枯れ木の様な腕。その手に握られるのは、鮮血に塗れた大振りのナイフ。その切っ先をあたしに向けて、そいつはキリリと空虚に笑う。
あたしは問う。震える声音で。だけど、心がすくみ上がってしまわない様に。
「あなたが……切り裂きジャック……?」
……London Bridge is falling down……
答えは返らない。ただ、空虚な歌だけがカラカラと響く。
それでも、あたしは問い続ける。知りたいからじゃない。止まらないために。
「あなたが……ゆうちゃんを……」
滑稽な笑みを型どった仮面。それが、もっと深く笑んだ様な気がした。
……My fair lady……
結ばれる旋律。次の瞬間――
コキン
首が外れた様にひっくり返る、そいつの頭。
「―――っ!!」
ケタタタタタタタタッ!!
止まる呼吸。響き渡る哄笑。そして――
タタタタタッ!!
満ちる鮮血を飛び散らし、真っ赤な刃を振りかざし、深紅のマントを広げて、そいつはあたしに飛びかかる。
「―――――っ!!」
あたしの悲鳴は、霧の中へと溶けて消えた。
それより少し前、中上龍樹は霧に覆われる街の中を走っていた。
自宅で楠ノ木惠の不明を聞いた彼は、母親が止めるのも聞かずに夜の街へと飛び出していた。明確な心当たりがある訳ではない。そもそも、彼女がこんな時間に行く場所なんて本来ある筈もない。楠ノ木惠の目的。それに、彼は思い当たる事があった。
昼間会った時の、思いつめた顔。そして、今の状況。意味するものは、明白だった。
楠ノ木惠は、討つつもりなのだ。南方夕子の仇を。自分の手で。
「バカ野郎……。自分だけで、どうにか出来るつもりなのかよ……!?」
彼女の短慮さを呪う間もあらばこそ、中上龍樹は街の中を走り回る。学校。通学路。南方夕子が殺害された現場。通常では通らない、街の路地裏。
けれど、いない。見つからない。声を上げても、返事はない。分かっていた事だが、電話をかけても通じない。万事手を打ち尽くし、中上龍樹は途方に暮れる。
「ちくしょう……。あいつ、何処に……」
歯噛みしながら、辺りを見回す。そこに広がるのは、普段見知った筈の街の光景。けれど今、そこは見紛う程に様変わりしていた。
立ち込める、濃い乳白色の霧。それに侵され、周囲の全てが霞んで見える。夜闇と相まって、ともすれば熟知している道ですら取り違えてしまいそうな有様。この中を、楠ノ木惠は一人彷徨っているのだ。
強くなる、焦燥の念。
今、この霧の中を彷徨っているのは自分達だけではない。八人もの人間を殺した殺人鬼がうろついているのだ。間違いなく。奴よりも早く、楠ノ木惠を見つけなければならない。何としても。
額の汗をグイと拭い、中上龍樹がもう一度走り出そうとしたその時、
『駄目だよ……』
背後から、声が響いた。
「――――っ!?」
中上龍樹の足が、ピタリと止まる。
空耳か?明確に、そう思った。何故なら、中上龍樹はその声を知っていた。とてもよく、知っていた。その声の響きも。その声の主の事も。そして、”彼女”がもう、この世にいない事も。
気の迷いだと思った。焦燥と、この現世離れした状況が生み出した幻想だと。振り払う様に、頭を振る。そして、もう一度走り出す。
『駄目だよ……。中上君……』
「―――――っ!!」
また、聞こえた。そして、感じた。自分の背後に。明確な、”彼女”の気配を。
「………」
理解した瞬間、背筋が怖気立つ。足が竦む。冷たい汗が、頬を伝った。
『怖がらないで……!』
”彼女”が言う。強く。けれど寂しく、悲しく、”彼女”は言う。
『何も、しないから……。わたしは何も、しないから……』
悲痛ともとれる、その声音。それが、彼の心を凪いでいく。そこにある気配は、確かにもうこの世のものではない。けれど、声に込められる想いは、確かに”彼女”のもの。その事を悟り、彼もまた言葉を返す。カラカラに乾いた喉から、声を絞り出す。
「……南方……か……?」
『!』
気配が、揺れた。まるで、”それ”が通じた事を、喜ぶ様に。だから、確信した。
「南方、なんだな?」
『……うん……』
頷く気配。肯定の言葉。考えるよりも先に、身体が動く。
『見ないで!!』
「!!」
悲痛な叫びが、振り返ろうとした身体を止めた。
”彼女”が、言う。
『お願い……。見ないで……。見ればきっと、あなたは……』
「南方……」
『今のわたしは、もう南方夕子じゃない……。南方夕子だったモノ……。その形だけを型どった、ただの残滓……』
話す度に響く、ヒュウヒュウと泣く音。そして、風に乗って微かに流れる鉄錆の香。それに、中上龍樹はようやく気づく。
『だから……お願い……』
もう一度の懇願。その声が濡れている様に思えたのは、気のせいだろうか。ただ、その思いは容易に理解出来た。確かに、自分でも望みはしないだろう。そんな姿を、友人に見られる事は。
「……分かったよ……」
だから、中上龍樹は足を止める。疼く心の痛みを、抑えながら。
『……ありがとう……』
嬉しそうな、だけど悲しそうな声。それは、今の”彼女”がこの世の者ではない事を確かに示す言葉だった。
中上龍樹は問う。彼女ではなくなった、”彼女”に向かって。
「……南方、お前、どうして……」
『……伝えなきゃ、いけない事があるから……』
「伝えなきゃ、いけない事……?」
何かを問う前に、南方夕子だったものは答える。
『行っては、駄目……。惠の元には……』
「え……?」
思わぬ言葉に、中上龍樹は戸惑う。
「何言ってんだよ!!早く行かないと、あいつも……」
『もう、遅いわ……』
「!!」
『あの娘はもう、あいつに捕らわれている……』
「な……!!」
その事実に、血の気が引いた。
「あ、あいつって、まさか……!?」
『そう……』
”彼女”は告げる。冷淡に。
『”切り裂きジャック”と、呼ばれる存在に……』
「――――っ!!」
それを聞いた瞬間、中上龍樹は走りだそうとした。しかし、
ギシリ……
「!?」
突然、身体の動きが止まった。まるで、何かに束縛される様に、身体の自由が効かない。
(な、何だ!?)
口に出そうとした言葉も、形にならない。ギシリギシリと、身体が軋む。
『言ったでしょ……。行っては駄目……』
背後から響く、この世ならざる声。冷たい冷気が、身を縛る。
(金縛り……!!)
そう気づくのに、時間はかからなかった。
『何度でも、言うわ……』
背後で動く、”彼女”の気配。
ヒヤリ
氷を押し付けられる様な感触が、背中を覆う。強く香る、鉄錆の香。”彼女”が、身を寄せていた。まるで、己が失くした温もりを求める様に。
『行っては、駄目……。行けば……』
甘く、けれど血の香を漂わせる吐息が、耳朶にかかる。
『あなたも、殺されるわ……』
「!!」
紡がれたその言葉に、再び血が凍る。中上龍樹を愛しげに抱きながら、南方夕子だった存在はなおも囁く。
『”アレ”は、今のわたしと同じ……。この世のモノではない……』
(!?)
『”アレ”は、過去の模倣犯でもなければ、ただの猟奇殺人犯でもない……。いつかの悪夢、数多の命を狩り染めた、狂鬼……』
周囲の霧が、ユラユラと揺らめく。まるで、次に刻まれる言葉を忌む様に。
『”切り裂きジャック”、そのものよ……』
ザザザ……
夜気が歌う。霧が鳴く。今この地に確かに在る、その存在に傅くために。