表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月下奇譚  作者: 土斑猫
三夜の話
15/59

三夜の話・伍

 ♪London Bridge is falling down

 Falling down, falling down

 London Bridge is falling down

 My fair lady♪





 霧夜の中に響く、冷たい歌声。キリキリと軋む歯車の音の様なそれが、キンキンと脳髄に食い込んでくる。堪らず、後ずさるあたし。その前にドチャリと湿った音を立てて、頭と下半身のない身体が落ちた。


 飛び散る鮮血が頬にしぶく。



 「ひぃっ!!」



 くぐもった悲鳴が、喉を塞ぐ。足から力が抜けるけど、崩れ落ちるのは何とかこらえた。座り込んでしまったら、二度と立てないと分かっていたから。



 バサリ……



 そんなあたしの前で、血色の塊が落ちる。

 揺れる血溜りに、重い水音を立てて降り立った”そいつ”が、ユラリと立ち上がる。その身の中から、キリキリと何かが軋る音がしたのは耳の迷いだろうか。



 ……♪London Bridge is falling down♪……



 無機質な歌声と共に、翻る血色のマント。高く伸び上がったそいつの身体が月明かりを遮って、あたしの周りに暗く影を落とした。


 そいつの顔は、真っ白い仮面に覆われている。笑う道化師の顔を型どった、不気味な仮面。伽藍堂の眼窩の奥で、あたしを見つめる確かな視線を感じた。



 ……♪Falling down……falling down♪……



 キシシ……



 歌と共に響く、軋る音。マントの中から伸びてくる、枯れ木の様な腕。その手に握られるのは、鮮血に塗れた大振りのナイフ。その切っ先をあたしに向けて、そいつはキリリと空虚に笑う。


 あたしは問う。震える声音で。だけど、心がすくみ上がってしまわない様に。



 「あなたが……切り裂きジャック……?」



 ……London Bridge is falling down……



 答えは返らない。ただ、空虚な歌だけがカラカラと響く。


 それでも、あたしは問い続ける。知りたいからじゃない。止まらないために。



 「あなたが……ゆうちゃんを……」



 滑稽な笑みを型どった仮面。それが、もっと深く笑んだ様な気がした。



 ……My fair lady……



 結ばれる旋律。次の瞬間――



 コキン



 首が外れた様にひっくり返る、そいつの頭。



 「―――っ!!」



 ケタタタタタタタタッ!!



 止まる呼吸。響き渡る哄笑。そして――



 タタタタタッ!!



 満ちる鮮血を飛び散らし、真っ赤な刃を振りかざし、深紅のマントを広げて、そいつはあたしに飛びかかる。



 「―――――っ!!」



 あたしの悲鳴は、霧の中へと溶けて消えた。





 それより少し前、中上龍樹(なかがみたつき)は霧に覆われる街の中を走っていた。


 自宅で楠ノ木惠(くすのきけい)の不明を聞いた彼は、母親が止めるのも聞かずに夜の街へと飛び出していた。明確な心当たりがある訳ではない。そもそも、彼女がこんな時間に行く場所なんて本来ある筈もない。楠ノ木惠の目的。それに、彼は思い当たる事があった。


 昼間会った時の、思いつめた顔。そして、今の状況。意味するものは、明白だった。


 楠ノ木惠は、討つつもりなのだ。南方夕子の仇を。自分の手で。



 「バカ野郎……。自分だけで、どうにか出来るつもりなのかよ……!?」



 彼女の短慮さを呪う間もあらばこそ、中上龍樹は街の中を走り回る。学校。通学路。南方夕子(みなかたゆうこ)が殺害された現場。通常では通らない、街の路地裏。


 けれど、いない。見つからない。声を上げても、返事はない。分かっていた事だが、電話をかけても通じない。万事手を打ち尽くし、中上龍樹は途方に暮れる。



 「ちくしょう……。あいつ、何処に……」



 歯噛みしながら、辺りを見回す。そこに広がるのは、普段見知った筈の街の光景。けれど今、そこは見紛う程に様変わりしていた。


 立ち込める、濃い乳白色の霧。それに侵され、周囲の全てが霞んで見える。夜闇と相まって、ともすれば熟知している道ですら取り違えてしまいそうな有様。この中を、楠ノ木惠は一人彷徨っているのだ。


 強くなる、焦燥の念。


 今、この霧の中を彷徨っているのは自分達だけではない。八人もの人間を殺した殺人鬼がうろついているのだ。間違いなく。奴よりも早く、楠ノ木惠を見つけなければならない。何としても。


 額の汗をグイと拭い、中上龍樹がもう一度走り出そうとしたその時、



 『駄目だよ……』



 背後から、声が響いた。





 「――――っ!?」



 中上龍樹の足が、ピタリと止まる。


 空耳か?明確に、そう思った。何故なら、中上龍樹はその声を知っていた。とてもよく、知っていた。その声の響きも。その声の主の事も。そして、”彼女”がもう、この世にいない事も。


 気の迷いだと思った。焦燥と、この現世離れした状況が生み出した幻想だと。振り払う様に、頭を振る。そして、もう一度走り出す。




 『駄目だよ……。中上君……』




 「―――――っ!!」



 また、聞こえた。そして、感じた。自分の背後に。明確な、”彼女”の気配を。



 「………」



 理解した瞬間、背筋が怖気立つ。足が竦む。冷たい汗が、頬を伝った。



 『怖がらないで……!』



 ”彼女”が言う。強く。けれど寂しく、悲しく、”彼女”は言う。



 『何も、しないから……。わたしは何も、しないから……』



 悲痛ともとれる、その声音。それが、彼の心を凪いでいく。そこにある気配は、確かにもうこの世のものではない。けれど、声に込められる想いは、確かに”彼女”のもの。その事を悟り、彼もまた言葉を返す。カラカラに乾いた喉から、声を絞り出す。



 「……南方……か……?」

 『!』



 気配が、揺れた。まるで、”それ”が通じた事を、喜ぶ様に。だから、確信した。



 「南方、なんだな?」

 『……うん……』



 頷く気配。肯定の言葉。考えるよりも先に、身体が動く。



 『見ないで!!』

 「!!」



 悲痛な叫びが、振り返ろうとした身体を止めた。


 ”彼女”が、言う。



 『お願い……。見ないで……。見ればきっと、あなたは……』

 「南方……」

 『今のわたしは、もう南方夕子じゃない……。南方夕子だったモノ……。その形だけを型どった、ただの残滓……』



 話す度に響く、ヒュウヒュウと泣く音。そして、風に乗って微かに流れる鉄錆の香。それに、中上龍樹はようやく気づく。



 『だから……お願い……』



 もう一度の懇願。その声が濡れている様に思えたのは、気のせいだろうか。ただ、その思いは容易に理解出来た。確かに、自分でも望みはしないだろう。そんな姿を、友人に見られる事は。



 「……分かったよ……」



 だから、中上龍樹は足を止める。疼く心の痛みを、抑えながら。



 『……ありがとう……』



 嬉しそうな、だけど悲しそうな声。それは、今の”彼女”がこの世の者ではない事を確かに示す言葉だった。





 中上龍樹は問う。彼女ではなくなった、”彼女”に向かって。



 「……南方、お前、どうして……」

 『……伝えなきゃ、いけない事があるから……』

 「伝えなきゃ、いけない事……?」



 何かを問う前に、南方夕子だったものは答える。



 『行っては、駄目……。惠の元には……』

 「え……?」



 思わぬ言葉に、中上龍樹は戸惑う。



 「何言ってんだよ!!早く行かないと、あいつも……」

 『もう、遅いわ……』

 「!!」

 『あの娘はもう、あいつに捕らわれている……』

 「な……!!」



 その事実に、血の気が引いた。



 「あ、あいつって、まさか……!?」

 『そう……』



 ”彼女”は告げる。冷淡に。



 『”切り裂きジャック”と、呼ばれる存在に……』

 「――――っ!!」



 それを聞いた瞬間、中上龍樹は走りだそうとした。しかし、



 ギシリ……



 「!?」



 突然、身体の動きが止まった。まるで、何かに束縛される様に、身体の自由が効かない。



 (な、何だ!?)



 口に出そうとした言葉も、形にならない。ギシリギシリと、身体が軋む。



 『言ったでしょ……。行っては駄目……』



 背後から響く、この世ならざる声。冷たい冷気が、身を縛る。



 (金縛り……!!)



 そう気づくのに、時間はかからなかった。



 『何度でも、言うわ……』



 背後で動く、”彼女”の気配。



 ヒヤリ



 氷を押し付けられる様な感触が、背中を覆う。強く香る、鉄錆の香。”彼女”が、身を寄せていた。まるで、己が失くした温もりを求める様に。



 『行っては、駄目……。行けば……』



 甘く、けれど血の香を漂わせる吐息が、耳朶にかかる。



 『あなたも、殺されるわ……』

 「!!」



 紡がれたその言葉に、再び血が凍る。中上龍樹を愛しげに(いだ)きながら、南方夕子だった存在はなおも囁く。



 『”アレ”は、今のわたしと同じ……。この世のモノではない……』

 (!?)

 『”アレ”は、過去の模倣犯でもなければ、ただの猟奇殺人犯でもない……。いつかの悪夢、数多の命を狩り染めた、狂鬼……』



 周囲の霧が、ユラユラと揺らめく。まるで、次に刻まれる言葉を忌む様に。



 『”切り裂きジャック”、そのものよ……』



 ザザザ……



 夜気が歌う。霧が鳴く。今この地に確かに在る、その存在に傅くために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ