三夜の話・肆
♪~♪♪~♪♪~♪~♪~♪♪
歌が、流れていた。軽快な調子の、聴き心地の良い歌。
聞いた事はない。
最近流行りの曲じゃない。
ひょっとしたら、どこか外国の歌なのかもしれない。
とにかく、今の街の、恐怖に閉塞した雰囲気を和らげるにはもってこいの歌だった。
そこは、今の状況下にはそぐわない程に賑わっていた。道の真ん中に沢山の人が集まって、大きな輪を作っている。
最初はこの非常時に何事かと思ったけれど、近くに寄ってみて分かった。
歌が、流れている。それに混じって聞こえてくるのは、軽くテンポを刻む靴の音。誰かが、パフォーマンスをしているのだ。
何となく興味が出て、近くに寄ってみた。
集まってるのは若い男の人が多かったけれど、チラホラと女の人も混じっている。どんな非常事態でも、その中で気楽に行動する人達は必ずいる。ここにいるのは、そんな人種だ。平和ボケとでも言うべきか。正直、こんな時にと忌々しく思う。人の事を言えた義理じゃないけれど。
人の間から覗いてみると、輪の中心で踊る人影が見えた。パフォーマンスをしているのは、二人組。両方とも、女の子。そう。驚いた事に、演じているのはあたしとさして年差のない少女達だった。
一人の女の子は歌い手。
格好は綺麗な金色のストレートロングに白いベレー帽。服も真っ白なロングのワンピース。その様は、白い肌と相まって、まるで天使の様に見える。
彼女は後ろに立っている店の外壁に背を預け、小さな口で歌を紡いでいた。口の動きは小さいのに、声量はとても大きい。
周りの人混みの喧騒も、全く邪魔にならない。と言っても、耳障りな喚き声でもない。小鳥のさえずりの様に澄み渡った、とても綺麗な声。下手をすると、プロの歌手より上手いかもしれない。ってか、あたしが知らないだけで、本当にプロなのかもしれない。それくらい、素敵な歌だった。
もう一人の女の子は踊り手。
歌い手の女の子とは対照的に、黒一色で服装を固めている。大きく裾の広がったチェスターコートに、膝よりずっと高いレザーのミニスカート。サイドで纏めた黒髪が、軽やかに身を翻す度に蛇の様に宙を舞う。
全くもって年頃に似合わない服装だけど、その綺麗な風貌とよく合って妖艶な雰囲気を醸し出していた。長いコートと髪を纏って舞う姿はとても美しくて、まるで人を蠱惑する悪魔の様だ。
もっとも、短いスカートとコートの間から白い足が覗く度に歓声が上がる辺り、周りの連中が何処を見てるかは知れたものだけど。
しばし、彼女達の演に見とれていると、周囲が騒がしくなってきた。見ると、人混みの向こうに、停車するパトカーと数人の警官の姿があった。きっと、騒ぎを聞きつけてきたのだろう。
「こら、君達!何やってる!!」
「戒厳令が出てる最中だぞ。帰った帰った」
そんな事を言いながら、警官達が人混みを散らし始める。
「何だよー」
「いい所だったのにー」
そんな不平の声が飛び交う中、警官達は忠実に職務を遂行していく。
あたしだって、こうしてる場合じゃない。捕まれば、間違いなく家に更迭されてしまう。あたしには、やらなきゃいけない事がある。そういう訳には、いかないのだ。
むき出しの肩に蝶々のタトゥーを入れたお姉さんが、警官と揉めている。警官の意識がそのお姉さんに向いてる間に、場を離れる。最後にチラリと振り返ったけれど、そこにはもう、歌姫の姿も舞姫の姿もなかった。
それからしばらく後、あたしは一人で夜の街中を歩いていた。持ってきたカロリーメイトを齧りながら携帯を見ると、午後8時を表示していた。夕子が殺された時間は、もっと早い。つまりは、もう”あいつ”の動く時間になっていると言う事だ。口に押し込んだカロリーメイトを呑み込んで、はあ、と息をついたその時、
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突然、携帯がなった。ママからだった。黙って、着信を切る。ママからの電話はさっきから何度もあったし、メールだって何件も来ている。けど、答える事は出来ない。帰る事は、出来ない。あたしには、やらなければいけない事があるのだから。そっと、懐に手を入れる。そこに忍ばせた冷たい塊。その感触を、確かめる。
そう。あたしは、教えてやらなきゃいけない。刻んでやらなきゃ、いけない。”あいつ”に。夕子が受けたのと、同じ痛みを。
懐の中で、冷たいそれがキシリと鳴った。
中上龍樹は、自室の中でふさぎ込んでいた。夕食も食べず。かと言って、何かをするでもなく。ただベッドに突っ伏していた。
(あんたのせいで……)
頭の中で、楠ノ木惠の言葉がリフレインする。それは、彼自身が確かに思っていた事だった。あの時、自分が余計なちょっかいを出さなければ、南方夕子は惠と離れる事はなかった。そうすれば、南方夕子は死なずに済んだ。
そう。楠ノ木惠の言葉は正しい。全ては、自分のせいなのだ。いくら思い悩んでも。どれだけ己を責めても。時が戻る事はない。分かっている。分かってはいるけれど、心と現実は自分を許さない。
彼に出来る事はただ、自責の念に震えるだけだった。
と、
「龍樹……」
そんな声と共に、部屋の戸が開いた。入ってきたのは、彼の母親だった。
「何だよ!?今は入って来るなって……」
言いかけた言葉が、止まった。
母親の顔は、真っ青だった。そこには、憂慮と焦燥の色が濃く出ている。
「……何か、あったのか?」
咄嗟に出た問いに、母親が答えた。
「今、惠ちゃんのお母さんから電話があって……家に、惠ちゃんがいないんですって……」
「!!」
一瞬で、全身の血が下がる。母親は、続ける。
「夕子ちゃんのご葬儀の手伝いから帰ったら、姿がなかったらしくて……。携帯にも出ないらしいのよ。あなた、昼間会ったんでしょう?何か、心当たりない?」
言われて思い出されたのは、昼間会った惠の顔。何かを思いつめた様な瞳が、脳裏を過る。
「まさか……あいつ!!」
抱えていた枕を跳ね上げ、中上龍樹は立ち上がった。
いつの間にか、霧が出てきていた。
とても、とても濃い白夢。ほんの、数メートル先が見えない。月も、星も、外灯の明かりさえもが霞んでいく。
周りには、人の気はない。人のいる所を避けてきた事もあるけれど、それでも街中にいてこの静けさは異常だった。
……同じだ……。
あたしは、息を飲んだ。
そう。同じだった。あの時、夕子がまさに刻まれていたあの時間。街に満ちていた、あの霧と。
あたしは、無言で懐に手を入れる。包んでいたタオルの中から、隠していた果物包丁を取り出した。
霧は、さらに満ちていく。もう、右も左も分からない。ただ、遠くに霞む月だけが見える。
……London…… Bridge is…… falling down……
歌が、聞こえた。微かに。だけど確かに。
泡立つ背筋。こみ上げる恐怖を、無理やりに飲み込んだ。
……Falling down…… falling down……
歌は続く。気配は、もう間違いない。いるのだ。間違いなく、”ここ”に。
手にした包丁を一閃させて、あたしは叫ぶ。
「いるんでしょう!?出てきなさい!!」
………。
答えはない。代わりに、風鳴りを伴って霧が流れる。
「あんたなんか、怖くないわ!!相手をしてやる!!そして、ゆうちゃんの痛さをあんたにも教えてあげる!!」
……London Bridge is…… falling down……
「何よ!!丸腰の女の子しか相手に出来ないの!?この臆病者!!」
やっぱり、答えはない。あたしが、もう一度叫ぼうとしたその時――
ボタリ
「!?」
何かが、あたしの米神に落ちてきた。
「な……何……?」
拭い取る。生温かい、ヌラリとした感覚。拭った手を見ると、真っ赤な色に染まっていた。
ボタ
息を呑む間もなく、またそれが落ちてくる。
ボタリ ボタリ ボタッ ボタッ ボタッ
「な……何よ!?何なのよ!?」
やがて、落ちてくるものに肉片や臓物の欠片の様なものが混じり始める。
「や、やだ!!何なの!?何なのよぉ!!」
半ば、半狂乱になる意識。
それが、言う。
”見るな”と。
上を、見てはいけないと。
けれど、身体は言う事を聞かない。
赤く染まっていく地面を見る事を拒む様に、視線は上に上がっていく。
この上には、確か外灯が一灯あった筈。そこにある、あえかな光。それを求める様に、視線を上げた。
途端――
ズルンッ
何かがぶら下がった。
一瞬、それが何かは分からなかった。
赤く滴る臓物。蝋の様に青白い肌。そして、力なく垂れ下がった肩に刻まれた、蝶々のタトゥー。
それが何か。それが誰かを察した時、あたしは初めて、恐怖の悲鳴を上げる。
落ちてくる、下半身。
ぶちまけられる、大量の臓物と鮮血。
叫び続ける、あたし。
そんなあたしを、伽藍堂の眼窩が見つめる。
頭のない上半身を、咥えぶら下げた”それ”。
表情のない顔で、ニタリと笑う。
そして、響く音色はあと一つ。
――My fair lady――