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月下奇譚  作者: 土斑猫
三夜の話
13/59

三夜の話・参

 蒼い月の夜だった。

 とても蒼い月だった。

 地に広がる紅い溜まり。

 それを染める程に、蒼い夜だった。





 辺りは、濃い霧に包まれていた。


 前に差し出した手が見えなくなる程、濃密な霧。その中に、一人の少女が立っていた。


 歳の頃は十代半ば。身にまとった服装は黒。身体の線がよく出る、タイトなチェスターコート。裾が大きく後方に広がるその様は、まるで怪鳥の翼の様に見える。長い黒髪を頭の横で纏めたサイドテール。それにまとわりつく水気をしごく様に払うと、少女はそのままやれやれと頭をかいた。



 「ちょっとぉ、遅かったみたいねぇ」



 鼻にかかる様な、甘い声。それが、ぼやく。



 「伊達に迷宮入り果たしてる訳じゃあ、ないわねぇ。まぁ、逃げ足の速い事、速い事ぉ」



 コォオオオオオ……



 独りごちる少女の周りから、霧が引いていく。キョロキョロする視界の中で、蒼い月明かりに染められた風景が明瞭になっていく。



 「……にしてもぉ」



 見下ろした視線の先。霧の引いたその後。顕になった紅い溜まりを、黒いシューズで弾く。



 「しばらく休んでる間に、随分と欲求不満が溜まっていたみたいねぇ。随分と守備範囲が広くなった様でぇ……」



 少女の足元には、ジワリジワリと紅い水面(みなも)が広がっていく。そこに浮かぶ、いくつもの紅い塊がユロユロと揺れる。そのうちの一つに、少女は目を止める。スと腰を屈めると、その指で”彼女”の頬をツと拭った。



 「もったいないわねぇ……」



 憐憫ではない。弔慰でもない。ただ、残念そうに彼女はごちる。



 「あと数年生きてればぁ、さぞやいい女になったでしょうにぃ」



 言葉と共に、伸びる両手。”彼女”をそっと持ち上げる。滴る鮮血で手を濡らしながら、少女は”彼女”の唇にそっと口づけた。



 「せめてのぉ、手向けよぉ」



 口を濡らす紅を舌で拭い、少女は手にした”それ”をそっと下に下ろした。



 「続きの喜びはぁ、来世で教えてもらいなさいぃ」



 そう言って立ち上がると、少女は空を見上げる。いつしか霧は晴れ、東の方向が白み始めていた。ふと耳をそばだてると、近くの曲がり角の向こうから話し声が聞こえてくる。おそらくは、夜通し捜査していた警察だろう。ご苦労な事だ。そう思いながら、少女は彼女”を見下ろして話しかける。



 「良かったわねぇ。もうすぐ、見つけてもらえるわよぉ」



 と、



 ビュウ……



 朝靄を散らし、一陣の風が吹く。その中で、黒いスカートが翻ったと思った瞬間、少女の姿は掻き消えていた。



 「おやすみぃ……。せめてぇ、良い夢をぉ……」



 風音に紛れる様に、そんな声が流れる。そして――



 「お、おい!!見ろ!!」

 「畜生!!やりやがった!!」

 「本部に連絡だ!!」



 静謐の中に、男達の叫びが響く。”彼女”の眠りを妨げるそれを遮る様に、もう一度風が吹く。それに嬲られ、長い二本の三つ編みが血溜まりの中を泳いだ。





 ……速報です。今朝4時32分頃、○○県△△市□□町において、少女の遺体が発見されました。遺体は、前日捜索願が出されていた南方夕子(みなかたゆうこ)さん(14歳)と見られています。遺体の状況から、同町で3月より続いている連続殺人と同一犯によるものと見られています。これで、この事件の被害者は8件となり……





 信じられなかった。質の悪い冗談だと思った。こんな事、ある筈がないと思っていた。けれど、夢は覚めなくて、現実はただ整然とそこにあった。


 事件を受けて、学校は臨時休校となった。当然だろう。生徒が殺されたのだ。のうのうと授業する余裕など、ある筈がない。街中の女性にはより強い戒厳令がしかれ、必要最低限以外の外出、特に夜間の外出は絶対の禁止とされた。


 中学生が犠牲になったのは、大きな衝撃だった。犯人の標的は、思っていたよりも広い。その事実は紛う事ない恐怖となって、街を覆っていた。


 あたしは、家に一人だった。


 パパは仕事。ママは、夕子の家に手伝いに行っている。いくら非常事態とは言え、やらねばならない事はある。姿の見えない恐怖に怯えて、痛々しい姿となった夕子を放っておくなんて事、あってはならない。


 そんな事、夕子の家族は許さない。当然、あたしも。夕子の弔いを手厚く行う事。それが、皆に出来るせめてもの抵抗だった。


 本当は、あたしも行きたかった。せめても、夕子の顔を見たかった。けれど、それは二人の母親に拒まれた。


 ママは言った。真剣な顔で、「外に出ては駄目。お願いだから」と。


 夕子の母親は言った。涙を流しながら、「どうか、見ないであげて」と。


 どちらの言葉にも、あたしは抗う理由を持たなかった。


 だから、あたしはここにいる。


 たった一人で、ここにいる。


 涙はもう、出なかった。


 嗚咽はもう、出なかった。


 涙は枯れ果て、喉はカラカラに乾いていた。代わりに湧き出るのは、感情だった。今まで感じた事のない、どす黒い感情。こんなモノが、自分の内にあるなんて知らなかった。普段なら、怖いと思ったかもしれない。こんな感情を持つ自分を、忌避したかもしれない。でも、今は違った。今のあたしの拠り所は、この感情だった。すがりつき、かき抱く。その冷たい熱を感じながら、あたしは一人、部屋の隅で足を抱えていた。


 と、



 カチャン



 微かに響く音。玄関の戸が、開く気配があった。


 パパが帰って来るには、まだ日が高い。ママが帰ってきた?いや、それにしても早すぎる。来客なら、インターホンを鳴らす筈だろう。けど、その様子もない。


 なら、誰?


 誰かが、上がり込む気配があった。そのまま、廊下を歩いてくる。


 あたしの目の前には、一振りのカッターが転がっている。そっと手を伸ばして、それを手に取る。



 タン



 階段を、踏みしめる音。



 タン タン タン



 上がってくる。二階に部屋は、二つしかない。物置と、あたしの部屋。



 タン



 足音が、階段を上がり終える。


 ゆっくりと、立ち上がる。手の中で、カッターの刃がカチカチと鳴った。



 ギシ ギシ ギシ



 音が、廊下を歩いてくる。物置の方には行かない。まっすぐ、あたしの部屋に向かってくる。


 いいよ。来るなら、来ればいい。



 ギシ ギシ ギシ



 おいで。おいで。待ってて、あげる。



 ギシ……



 ”ヤツ”が、部屋の前に立つ。


 いい子だね。さあ……。さあ……。



 ギ……



 ドアノブが、回る。


 さあ、おいで!!


 ドアが、開いた。



 「うわぁああああああっ!!」

 「わぁあああああっ!?」



 カッターを振り上げたあたしの前で、龍樹(たつき)が目を剥いてひっくり返った。



 「あ、あれ……?龍樹?」

 「あれ?じゃねーよ!!何なんだよ!?急に!!」



 腰を抜かした龍樹が、半泣きの顔で叫んだ。





 「……何しにきたのよ?」



 部屋に入ってくる龍樹に、そっけなく言いながら背を向ける。



 「いや、その……」

 「何?はっきり言って!」



 口篭る龍樹。少し、イラっとくる。



 「おばさんにさ、お前の事見に行ってくれって頼まれてさ……」

 「ママに頼まれたから?」

 「い、いや!!それだけじゃなくてさ……」



 困った様にガシガシと頭を掻きながら、龍樹は言う。



 「その……お前、大丈夫か……?」

 「大丈夫って、何が?」

 「いやだから、南方があんな事になって……」



 その言葉を聞いた瞬間、何かが切れた。



 「大丈夫な筈、ないじゃない!!」



 突然の激昂。龍樹が、ビクリと身体を固くした。



 「死んだのよ!?ゆうちゃんが!!殺されたのよ!!何も悪い事、してないのに!!」

 「(けい)……」

 「何で!?何でゆうちゃんが、こんな事になるの!?こんな目に、合わされなきゃいけないの!?世の中には、もっと死んで当たり前の奴がいるじゃない!!それなのに!!何で!?何で!?何で!!」

 「おい!!惠、落ち着けよ!!」



 半狂乱のあたしをなだめようとする龍樹。その手を振り払い、あたしはギッと彼を睨む。



 「!!」



 あたしの視線に、彼が固まるのが分かった。



 「……あんたのせいよ……」

 「……え……?」



 自分でも、ゾッとする程に暗く重い声が出た。彼が、戸惑うのが分かる。



 「あの時、あんたがいなければ、ゆうちゃんは気を使ったりしなかった!!あたしと一緒に、帰って来れた!!」

 「!!」



 龍樹の顔が、悲しげに強ばる。



 「あんたよ!!あんたさえ、変なちょっかい出してこなければ……」



 違う。こんなのは、違う。こんなのは、ただの八つ当たりだ。だけど、あたしは止まらない。止められない。



 「どうしてくれるのよ!?ゆうちゃん、死んじゃったじゃない!!どうしてくれるのよ!!どうするのよ!!」



 傷ついていく。彼が。龍樹が、傷ついていくのが分かる。それでも、それでも。



 「あんたが……あんたが……!!」



 そして、あたしは言った。言って、しまった。



 「あんたが、死ねば良かったのに!!」



 龍樹は、黙っていた。何も、言わなかった。部屋に、沈黙が降りる。龍樹は変わらず、黙ったまま。あたしの、荒い息だけが響く。



 「………」

 「………」



 反論して欲しかった。怒鳴り返して欲しかった。何なら、頬を張り飛ばしてくれたって構わなかった。だけど、彼は何も言わなかった。怒りの色を、見せる事すらしなかった。そんな彼に、あたしは背を向ける。



 「もう、帰って……」

 「……分かった……」



 あたしの呟きに、龍樹が答えた。とても、とても悲しそうな声で。彼が、身を返すのが分かった。そのまま、遠ざかっていく足音。あたしは、振り返らない。振り返れない。玄関の戸が開く音。閉じる音。いつしか、あたしは泣いていた。枯れたと思っていた涙が後から後から溢れてきて、ポトポトと足元の床を濡らした。





 それから数刻後。日が、傾き始めていた。


 もうすぐ、夜が来る。


 ”あいつ”の、時間が来る。パパが帰るには、まだ時間がある。ママはまだ、帰らない。


 ……やるなら、今だった。


 部屋を出て、台所に向かう。戸棚を開けて、中を見る。そこには、鋭く光る果物包丁がひと振り。それを手に取り、タオルに巻くと懐に入れた。その足で、玄関に向かう。外に出ると、門の中から外を伺う。通る人は、誰もいない。おあつらえ向きだった。そのまま、道を駆け出す。


 分かっていた。”あいつ”は、警察には捕まらない。捕まえられない。


 餌が、必要なのだ。”あいつ”を引き寄せる、餌が。


 そして、餌なら”ここ”にある。一番手近な、餌が。


 ――待ってて。ゆうちゃん――


 あたしは誓う。心の、中で。


 ――仇、討つからね――


 そしてあたしは、夜闇の落ち始めた街に向かって走り出した。

 懐の中の包丁が、鋭く冷たく、キチリと鳴いた。

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