三夜の話・弐
1888年8月31日から11月9日の約2ヶ月間、ロンドンで5人の女性がバラバラに切り裂かれて殺されるという、連続猟奇殺人事件が起きた。署名入りの犯行予告を新聞社に送りつけるなどの奇行も伴い、劇場型犯罪の始まりとも言われている。犯人は精神病患者から王室関係者までが挙げられたが、結局逮捕には至らず、迷宮入りした。一世紀以上経った現在も犯人は不明。
その犯人を、人々は恐怖の意を持ってこう呼んだ。
――「切り裂きジャック」――と。
キーンコーンカーンコーン
学校の、終業を告げるチャイムが鳴る。先にも言ったみたいに、例の事件のせいで、部活動は軒並み休止されている。あたし達生徒は、速攻で帰宅を促される。ゾロゾロと群れ帰る生徒に混じりながら、あたしは溜息をついた。
「あ〜あ。部活やりたいな〜。この戒厳令、いつまで続くんだろう?」
「事件が解決するまでは無理だよ。いい加減諦めなよ。惠」
ぼやくあたしを、夕子がそう言って諌める。
「でもぉ〜」
「でももストも、ないでしょう」
まあ、分かってはいるのだ。何だかんだ言っても、今は非常事態。これ以上被害を増やすまいとする警察の懸命さも、子供達を心配する親や先生達の想いも。
でも、いくら理解出来ても募る不満はまた別問題。道々に見て取れる警察官の姿を見て、あたしはもう一度溜息をついた。
そんな自分を、夕子が困った様に見ている。それに気づいて、あたしは二ヘラッと頼りなく笑って見せた。
と、
「よお、相変わらずしょぼくれてんな」
後ろから、聞こえて来る声。振り返ると、サッカーボールを頭でリフティングしながら歩く龍樹の姿があった。龍樹はあたしと同じサッカー部。チームのエースでもある。あたしも、一対一じゃ絶対勝てない。忌々しい事だ。
「中上君、道路でそんな事してると危ないよ」
そんな龍樹の姿を見た夕子が、すかさず注意する。
「はいはいっと……」
いつも反抗的な龍樹も、夕子には逆らわない。素直にボールを下ろして、両手に持つ。普段、あたしの言う事なんか聞きやしないくせに。癪に障る事この上もない。
「全く。めーわくな話だよな。犯人、早くとっ捕まればいいのにさ」
ブツブツ言う龍樹。思うところは、あたしと同じだ。
「そうだよね。お陰で欲求不満もいい所だよ」
そう相槌を打つあたしを見て、龍樹がポンと手を打つ。
「あ、そうだ。惠、お前囮になれよ」
「は?」
何を言ってるんだ?こいつは。
「お前が囮になってさ、夜の街を歩き回ればいいんだよ。釣られて犯人が出てきたら、そこをふん縛ればいい」
ピクリ。思わず米神がヒクつく。
「あ~ら。それは良い考えですこと。でもね、狙われてるのは若くても高校生からなのよ?あたしじゃあ、ちょ~っと若過ぎるんじゃないかしら~?」
「ああ、平気平気。お前なら、高校生どころか30代でも通用するって」
ピクピク。さらにヒクつく米神。
「あら~、それはそれは。それって何かしら?あたしが老けてるって言いたいのかしら?」
「よく分かってるじゃねえか。いい子いい子」
そう言いながら、あたしの頭をよしよしと撫でる龍樹。
プッチン
切れた。限界である。
「んだとテメェ!!何ならアンタから地獄に送ってやろうかぁ!?」
憤怒の形相で身構えるあたし。けれど、龍樹は涼しい顔。
「大丈夫だって」
「は?何がよ!?」
「そん時は、オレが守ってやるって」
シレっと、そんな事を言った。
「あぅ……」
ボシュッ
一瞬で消える、怒りの炎。代わりに、顔に血が上る。
これだ。こいつはいつも、サラッとこんな事を言うのだ。やり辛いったら、ありゃしない。言葉を失い、黙り込むあたし。多分、顔は真っ赤だ。そんなあたしを見て、龍樹は笑う。
「あはは。何だよ。何、焼き餅みたいな顔なってんだよ」
ケタケタと笑う龍樹。あたしには、返す言葉もない。ああもう、本当にどうしてくれよう。
もういっそ、股間でも蹴り上げてやろうか。あたしがそう思いつめたその時、
「あ、いけない!!」
夕子が、突然声を上げた。
「ん?」
「どうしたの?」
「わたし、学校に宿題のプリント忘れちゃった」
そう言って、自分の頭をポカリとやる。
「ええ!提出日、明日だよ!?」
「うん。わたし、戻って取ってくるね」
そして、踵を返す夕子。その背に、慌てて声をかける。
「あたしも一緒に行くよ」
けれど、夕子は首を振る。
「大丈夫。二人は先に帰ってて」
「でも……」
「心配ないって。道には、警察の人や先生達もいるんだし」
そう言うと、夕子はクルリと向き直って叫ぶ。
「中上君!惠の事、しっかり送ってくんだよ!!」
「え?あ、お、おぅ」
急に話を振られた龍樹が、慌てた様に頷く。
「じゃ、頼んだからね」
そして、再び踵を返すと夕子は今まで来た道をかけ戻っていく。
「また、明日ねー!!」
飛んでくる言葉。あたしも声を張り上げる。
「うん!また明日―!」
射し始めた、紅い斜光。その光の中で、夕子が微笑むのが分かった。それが、何だかとても眩しく映ったのは、気のせいだろうか。大きく手を振ると、夕子は再び背を向けて走っていく。その背を、あたしは何だかとても切ない気持ちで見送った。
「何だろう。ゆうちゃん、何だか変だったけど」
「……気でも、使ってくれたんじゃねぇの」
「え……?」
龍樹の声に振り向くと、いつの間にか辺りに人の気がなくなっている事に気づいた。
「……二人っきりだな」
「え?あ、それは……」
落ちてくる夕日の中で、龍樹の顔が紅く染まって見える。あたしも、同じ顔色をしているに違いない。
「久しぶりじゃね?こういうの」
「う……うん……」
しどろもどろになりながら、答えるあたし。そう。街が今の状態になってから、あたし達は監視と集団行動の中で動いてきた。こんな風に、彼と二人っきりになるのは、本当に久しぶりだ。
意識し始めると、もう止まらない。どんどん、顔に血が集中してくる。
「何、真っ赤んなってんだよ。お前」
そう言って、龍樹があたしの頬に触れた。
「ひゃん!!」
思わず、すくみ上がる。心臓が、トカトカ飛び出しそうだ。
「ま、待って!!人が見てるって……」
「誰が?」
「誰がって……」
アワアワしながら、キョロキョロと辺りを見回す。辺りには、本当に誰もいない。街中なのに、正真正銘の二人っきりだ。どういう事だろう。いつもなら、必ず監視係の警察官か先生がいる筈なのに。一瞬、そんな疑念が頭を過るけど、そんなものは次の事態で吹っ飛んでしまった。
龍樹が、あたしに向かって顔を近づけてきたのだ。
「ちょ、ちょっと龍樹!!あんた、何考えて……」
「恥ずかしかったら、目つぶってれば?」
「そ、そう言う問題じゃ……」
この状況に、彼も勢いに乗ってしまったらしい。止まる様子が、全然ない。間近に来る、彼の唇。
「~~~~~~~~っ!!」
たまらず、目をつぶるあたし。彼の吐息を、間近に感じて――
ビュウ……
一瞬、日が陰った。周囲を吹き抜けて行く、冷感。身体の火照りが、あっという間に冷えていく。
驚いて目を開けると、龍樹も当惑した顔で辺りを見回していた。
……霧だった。さっきまで、温かい夕日に照らされていた街路が、白い霧に覆われ始めていた。
「何……?これ……。急に、こんな霧なんて……」
見れば、夕日はとうに沈んで、東の空には蒼い月が昇り始めている。急激に冷えていく気温。あたしはたまらず、龍樹に身を寄せた。
「龍樹……寒い……」
「ああ、そうだな。早く、帰ろう」
さっきまでの熱は、すっかり冷めていた。あたしと龍樹は、そろって帰路を歩き始める。ふと、夕子の事が気になった。
「夕子、大丈夫かな……?」
「大丈夫だろ。街には、まだ警備の人達がいる筈だから」
そんな龍樹の言葉に、あたしはためらいながら頷いた。
「そう……だね」
この時、あたしの心は酷く萎えていた。家に、帰りたかった。一時でも早く、この場を離れたかった。
「ほら」
龍樹が、手を差し出してくる。迷う事なく、その手を取った。二人の手の間に、微かな温もりが灯る。まるで、さっきまでの熱の残火の様に。それを拠り所に、あたし達は走った。まるで、満ちてくる霧から逃げる様に。
コォオオオ……
低く唸る様に、風が鳴る。
……London Bridge is falling down……
風鳴りの中に、何か唄の様なものが聞こえた様な気がした。
後に、あたしはこの日の選択を一生悔やむ事になる。
あの時、夕子を一人で行かせてしまった事を。
そう。あたしはもう、夕子に会う事は二度と叶わなかったのだから……。