表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

君の笑顔が好きだから

作者: 溝呂木

 六月の珍しく晴れたある日。

 僕は体にまとわりつくような湿気を団扇で吹き飛ばして、様々な花の香りを肺いっぱいに詰め込んだ。それからそれをゆっくり吐き出して、カウンターに突っ伏した。

「いや、暑いな。優ちゃん」

 不意に降りかかってきた能天気な声に、僕は頭だけをあげる。

 そこには大きな体にごっつい筋肉、いつも日に焼けけている肌は浅黒く、半袖のシャツを着た、精悍な顔つきをしている若者が入り口に立っていた。

「こんにちは、牧兄ぃ。なにか伯母さんに用」

「いいや。客としてだよ」

「……ずいぶん似合わない人が来たな」

「こらッ、小さな声で言っても聞こえているぞ」

 牧兄ぃ――牧原雄治といい、牧原建業の長男坊で、大人からは坊ちゃん、子どもからは牧兄ぃの愛称で親しまれている。

 そして優ちゃんこと僕、本多優人は普段は高校に通い、金曜から日曜までは泊り込みで伯母が経営しているこの花屋でバイトの身である。

 その伯母は現在、伯母の生活の場となっている店の二階で、向かいにあるフレーユ洋菓子店の人気商品である、レアチーズケーキとハーブティーを前にして、三時から始まるサスペンスドラマの再放送にかじりついているだろう。

「優ちゃんこれちょうだい」

 声をかけられて、僕はぱっと顔を上げると牧兄ぃが鈴蘭を指差していた。

「鉢植えのほうですか」

「いや。花束にしたほうを」

「色はどうしますか」

 僕はカウンターを乗り越えて、牧兄ぃの隣に立つ。

 鈴蘭には主流の白、桜の花を太陽で透かしたようなピンク、頬を赤らめたような紅があり、うちにはどの色も揃っている。

「ピンク……じゃないな、やっぱ白にしてくれ」

「白でいいんですね」

 こくりとうなずく牧兄ぃはジーンズから財布を取り出した。かなり使いこまれていそうな皮の財布だ。そこから千円札が顔を出す。

「牧兄ぃ。仕事はどうしたの。サボってこんなとこでお買い物」

 僕はお金を受け取りおつりを返してから、鈴蘭を取り出して包装しながら聞いた。

「いやいや、これからまたすぐに仕事だよ。ちょっと休憩中に来たんだ」

「なら、わざわざ休憩時間に来なくてもいいのに、うちは八時くらいまでは開いてるよ」

 僕は包み終わった花を曖昧に笑っている牧兄ぃに渡した。牧兄ぃはありがとうと言ってから店を出ようとしたときに振り返った。

「そうそう優ちゃん。俺が来たこと、由香おばちゃんに言ってほしくないんだ。頼むよ」

 牧兄ぃは静かに人差し指を唇に当ててからあたりをきょろきょろしてから逃げるように店から出て行った。

「優ちゃん誰か来たかい」

 牧兄ぃが帰ってからしばらくしてからどすどすと恰幅のよい伯母が階段から降りてくる。きっとコマーシャルの最中なのだろう。

「うん。でも僕が知ってる人じゃなかったよ。新しい団地の人かもしれない」

 伯母さんに嘘をつくのは多少気が引けたが、とりあえずそう言っておいた。

「あら、そう」

 たいして気にもしなかったのか、ドラマを見逃したくないからか、またどすどすと階段を上っていった。

「なんで牧兄ぃは伯母さんに知られたくないんだろう……」

 僕はおつりを見てつぶやいた。



 ※ ※ ※



 結局、僕は牧兄ぃがこっそりと花を買いにきたのかその夜にはすっかり忘れてしまった。それを思い出したのは、牧兄ぃが来てから一週間が経った雨の降る土曜日だった。

「また店番か、優ちゃん」

 傘を畳みながら牧兄ぃが店に入ってくる。

「あれ、牧兄ぃ。また花に買いに来たの」

「静かに静かに」

 牧兄ぃは慌てて僕の口を押さえようとする。

「どうしてそんなにここに来るのが知られたくないの」

 僕はその手を押しのけて、カウンターから身を乗り出して牧兄ぃの顔面に肉薄する。

「いくら仲のいい優ちゃんでもそれは言えないな」

 牧兄ぃは僕の顔から離れて、また先週と同じ鈴蘭を指差した。

「優ちゃん。あれ、頼むよ」

「白ですか」

「うん。頼むよ」

 はにかみながら言う牧兄ぃを見ながら僕は言われた通りの花を包んで牧兄ぃに渡した。

「ありがとな」

 そう言って出て行く牧兄ぃを僕は見送った。

 その次の土曜日にも牧兄ぃは同じ花を買いにきた。その次の土曜日もそして、時間もほとんど決まって伯母さんが二階でテレビを見ている三時から四時の間であった。



 ※ ※ ※



 そうやって牧兄ぃが定期的に花を買っていくようになったある日、僕が伯母さんの家で晩御飯を食べ終わって、食後の緑茶を飲んでいるときに伯母さんはいつ、どの花を買ったのかを記す帳簿とにらめっこをしていた。

「ねえ、優ちゃん。最近土曜日の三時から四時の間にいつも鈴蘭を買っていかれるお客様がいるけど、誰なの」

 そう伯母さんに聞かれた時、ちょうど僕は熱い緑茶を飲んでいる最中で、急なことで思わずむせ返った。

「この前も言ったかもしれないけど、僕は知らない人だよ。最近引っ越してきた伯母さんの嫌いな他人不干渉主義の人じゃない」

 僕はむせて咳き込むのが納まってからそう言った。

 僕の言う他人不干渉主義というのには僕の住む町を少し説明しなければならない。

 僕の町はなかなか歴史のある町である。なんでも昔、有力な戦国大名が造った城下町であり、それなりに栄えていたようだが、地震やら戦争で城は崩れ、町も火事で多くが焼けてしまったが、今では、城のあった場所にはお寺と少し離れたところに病院が建てられて、城下町も柏木商店街と言う名に変えて、そこを中心に人々の暮らしが営まれるようになった。

 そのように歴史のある町だからか、別に商店街を出て行かなくても大概のものは揃い、店は何代も続き、死ぬまで商店街から離れていかなかった人も少なくはないようだ。けれど若い人たちはこの町から出て行きたいと考えているのも多くて、町には二十代三十代前半があまりいなかったりする。

 また、地域の人々との関わり合いは密接であり、商店街が一つの家族のようなのだ。

 しかし、近代化の波がこの町にもやってきたりして、スーパーやら、団地やら、近くの山を切り拓いて新しい町を作ろうやらで、昔ながらの景観は少しずつ変わってきた。

 そしていつしか、町には都会で培われた他人不干渉主義をかかげる人々が多くやってきて道ですれ違っても姿は見たことあるが良く知らない人が増えてきたのだった。

「こら優ちゃん。お客様がいないからってそんなこと言っちゃだめよ。お客様には……」

「わかってるよ。お客様がいてもいなくてもいつも笑顔、不平、悪口なんて言わない、でしょ。もう何回も聞いてるから分かってるよ。でも伯母さんは他人不干渉主義の人って嫌いなんでしょ」

 僕は伯母さんの長々と始まる説教に先手を打って、伯母さんよりも大きな声でそれを遮っていつもの説教の要点だけをまとめた。

「そりゃ、私は生まれたときからこの町に住んでいたから、ああいう都会から来た人たちの考えはあまり好きじゃないわ。でも、その人個人が嫌いなわけじゃないのよ。……まあいいわ。この帳簿見る限り、なんだかあたしが避けられているみたいで嫌な感じなのよ」

 伯母さんは眼鏡をはずして、帳簿を閉じると、それをテーブルの上に置いた。

「伯母さん、これ見てもいい」

「ええ、いいわよ」

 僕はその帳簿を開く。確かにそこには毎週土曜日にほとんど同じ時間に鈴蘭が買われていることが示されている。

 けれど、それだけではなかった。

 水曜日にも毎週鈴蘭を買っている人がいるのだ。時間はだいたい夜の八時くらい。そろそろ閉店かなという時間である。

「おばさん。この時間に鈴蘭買いに来る人知ってる」

 僕はおばさんに、帳簿を渡して、水曜の欄を指で示す。

「ああ。これは確か美里さんじゃなかったかしら」

「美里さんってあの野田写真館とこの」

 野田美里さん。野田写真館の一人娘で、牧兄ぃの一つ下。家が隣同士ということから、幼馴染ということで、商店街では良く知られている人で、ついでに、その父親が娘を溺愛していることと、親子が揃って仲の悪いことも有名だ。今年、東京の短大を卒業してから、ここに戻ってきて、家の手伝いをしているのだ。

「ええ。前からちょくちょく来ていたけれど……そういえば、今年に入ってからはよく鈴蘭買いに来るわね。ほら」

 僕は今年に入ってからの水曜日の欄をみると確かに鈴蘭が毎週買われている。

「そういえば伯母さん。こんな風に毎週決まった曜日時間にいつも同じ花を買う人ってなんでいるの」

 僕は帳簿のほかのページをじっくり見ていると意外と同じようなことが起きているのだ。

「それは、色々あるけどね。その花になにか想い入れがあったり、単に花が好きだったりね。美里さんみたいに仕事が終わってから、うちに来たりすればいつも決まった時間に来ることはあまりおかしくないわよ」

「仕事が終わってからね」

 口の中で伯母さんの言ったことを僕はつぶやいた。帳簿を閉じて、伯母さんに返した。



 ※ ※ ※



 また土曜日が来た。また牧兄ぃがやってきて、鈴蘭を買っていった。

「牧兄ぃ」

 花を持って店から出て行く牧兄ぃを引き止めた。

「どうした、優ちゃん」

「牧兄ぃって毎週花買って行くけど、花そんなに好きだっけ」

「ん……まあな。最近からちょっとな。事務所に置いておくのと意外と癒されるんだなこれが」

「なら、鉢植えの方にすればいいのに。でもそういえば、よく美里さんがうちに鈴蘭買いに来てるんだって。それも、鉢植えじゃなくて、牧兄ぃと同じ白い鈴蘭の花束のやつ。もしかしてさ、牧兄ぃって美里さんのこと……」

「なんだよッ。俺は別に美里のことなんかしったこっちゃない。変な想像すんな」

 牧兄ぃは目を吊り上げて僕をにらんだ。

「ごめんごめん。ただ、この伯母さんにこのこと知られたくないっていうからなんか気になっちゃってね。伯母さんも帳簿とにらめっこしてちょっと考えてるしさ。とりあえずは、他人不干渉主義の人っていうことにしてるけどね」

「そりゃ、伯母さんにも悪いことしちまってるな。まあ、そのうちちゃんとお詫びはするさ」

 そう言って牧兄ぃは店を出て行こうとする。

「牧兄ぃ」

 牧兄ぃは首だけを僕のほうに向ける。

「牧兄ぃって、美里さんと仲あまり良くなかったよね。それに昔から野田って呼んでいなかったっけ。いつから、名前で呼ぶようになったの」

 牧兄ぃは曖昧な表情をして、何も言わないまま店を出て行った。

「怒っちゃったかな」

 僕は牧兄ぃの後姿を見送りながらそう思った。

「もしかしたら、牧兄ぃと美里さんって付き合ってたりするのかもな」

 牧兄ぃが僕の視界から消えていくと、自然とそんな考えが浮かんできたがすぐにそれは消えてしまった。

 なんといっても、牧兄ぃと美里さんの仲は親子揃って犬猿の仲といってもいいくらい悪いのからだ。



 ※ ※ ※



 しばらく一人で店番を務めていると、伯母さんが上から笑顔で戻ってきて、閉店まで一緒に過ごした。それから夕飯の準備を二人でしているとき伯母さんはあッと声をあげた。

「優ちゃん。そういえばもう緑茶の葉を切らしちゃってたの忘れてたわ」

 伯母さんは申し訳なさそうに僕を見た。僕が食後に熱い緑茶を飲むのは習慣化しており、それがないとどうもご飯を食べた気にならないのだ。

「そしたら……」

 僕は時計を見ると八時を少し過ぎている。

「僕、ちょっとよし子ばあちゃんのとこに行って来るよ」

 よし子ばあちゃんのとことは、商店街でも古くから代々伝わっているお茶屋さんで、店主も三代目であり、よし子ばあさんの愛称で親しまれている。僕は財布を持って店を出て行った。

 商店街の夜は早い。夜八時過ぎにはほとんどの店は閉じて、翌日に備える。だから、僕がお茶屋に向かう道の左右に広がる店のいくつかは閉店のシャッターが下りていて、あたりから、晩御飯のほのかな香りが漂ってくる。まだまだと明かりを灯しているのは、地元の中学生に人気のラーメン屋とお好み焼き店、それから炭火の匂いがするからお茶屋から更に先に行くとある、焼き鳥屋もまだ仕事の終わった人たちを相手にしているに違いない。

 また、ラーメン屋とお好み焼きの二つの店の前には部活を終えてから、みんなで食べに来たのか学生服のかたまりがたむろしている。それらのかたまりを横目に過ぎていくと、目的のお茶屋はすぐだった。

 しかし、お茶屋の前には誰かが立っている。

「牧兄ぃだ」

 お茶屋の前に牧兄ぃが立っている。そして、中に入っていった。

 僕も続いて、木造の時代劇にも出てきそうな建物に、柏木茶屋と書かれた暖簾をくぐった。ほんわりとお茶の香りがする。

「おや、優ちゃんいらっしゃい。もう店仕舞いしようかと思ってたよ」

 よし子ばあちゃんがしわしわの顔を更にしわしわにさせて、お茶の葉を並べている長机から、僕を迎え入れてくれた。

「いつもの緑茶かえ」

「うん、切らしちゃったんだ。あれ、よし子ばあちゃん今、牧兄ぃが来なかった」

 よし子ばあちゃんは僕のいつもの緑茶を入れる木で作られた筒を取り出そうと、しゃがみこんでいて、僕の視界には入っていない。

「雄治がかい。いや、今日は来とらんよ」

 座りなさい。と言いながら、よし子ばあちゃんはお茶の葉をその筒の中に移し変えしながら言った。

 僕はその間に店の中を見回してみる。しかし、店はそんなに広くなくて、その狭い空間に、様々な種類のお茶の葉が並べられており、そのレジなどが置いてある長机の向かい側には、ここでお茶を楽しめるようにと、よし子ばあさんが直々にお茶を淹れてくれて、それを飲む場所として年季の入った机が三つ置かれている。とてもじゃないが、牧兄ぃが隠れるようなところはない。

 しかし、僕はあるものに吸い寄せられた。それは、みんながお茶を飲むそれぞれの机の上には花が竹で作られた花瓶らしきものに活けて飾られている。

「あれ、よし子ばあちゃん。あの花は」

「ん、ああ。ええ花じゃろ。いや花とはいいものだねえ。これがあるかないかで店の雰囲気が変わっちまうよ」

「そうでしょ。でもその花どうしたの。よし子ばあちゃんはうちに来てないでしょ」

「ああ。もらったんじゃよ」

「牧兄ぃにもらったんでしょ。今日うちにあの花買いに来てたし」

 そう。僕の目の前にある花は、今日牧兄ぃが買って行った白い鈴蘭だった。

「いいや。これは美里ちゃんがくれたんじゃよ」

 僕の期待した答えが返ってこなくて少しがっかりしたが、美里さんとは随分意外な答えが返ってきたものだ。

「美里さんが」

「そうじゃよ」

「いつくれたの」

「今日じゃったかな」

「今日なの。月曜とか火曜じゃなくて」

「今日じゃよ。どうかしたのかい」

 よし子ばあちゃんは不思議そうな顔をして僕を見ている。

「ううん。ただ、今日は美里さんうちには来なかったからさ」

「そうかい、じゃあ優ちゃんのとこで買ったんじゃないのかもしれんなあ」

 よし子ばあちゃんは僕に緑茶の詰め終わった筒を渡した。僕はそのお代を支払って、もう一度店内を見回す。牧兄ぃはやはりいない。

「ねえ、牧兄ぃって本当に来なかった」

「ああ、来てないよ」

 よし子ばあちゃんはまた僕を不思議そうに見ている。

「その奥にもいない」

 僕はよし子ばあちゃんの後ろを指した。そこには、店と生活空間が仕切られている暖簾がかけられており、奥はよく見えない。

「昔はよくあったけれど、今じゃそんなことはありゃせんよ」

 よし子ばあちゃんは笑いながら僕を見た。

「だいたいなんだい優ちゃん。牧兄ぃ、牧兄ぃって。お金でも取られたのかい」

「違うんだ。ただね……」

 僕はよし子ばあちゃんに牧兄ぃが毎週同じ花を、同じ時間に買っていくこと。なぜかそれを伯母さんに知られたくない。ということを話した。

「ふうん。雄治がね。それで、あの花は雄治がうちにあげたと思ったわけだね」

 僕はこくりとうなずいた。

「なるほどねえ」

 よし子ばあちゃんはまた顔をしわしわにさせた。しかし今度は笑っていない。

「ばあちゃんなにか知ってるの」

 よし子ばあちゃんは顔をしわしわにさせたまま何も言わない。ただ、その目が僕を鋭く捕らえていた。

「優ちゃん」

 優しい声。けれど、その中になにか緊張させるものを含ませる声だった。僕は背筋を伸ばした。

「確かに、私は知ってるよ。なんで雄治が同じ曜日、同じ時間に同じ花を買うのか知ってるよ」

「本当に」

 よし子ばあちゃんの思わぬ言葉に僕は身を乗り出した。

「じゃあ、牧兄ぃは今ここにいるの。僕、牧兄ぃがここに入るの見たんだよ」

「優ちゃん。まずは私の話を聞きなさい」

 今度は子どもを叱るようにぴしゃりと言い放った。

「今はね、雄治はこの事について絶対に触れてほしくないって思っている。他の人にも知られたくないとも思っている。だから、優ちゃん。今はそのことをやたらと口にしたり、探ろうとしないでくれないかい」

 よし子ばあちゃんが言ったことを僕は頭の中で繰り返す。何度も繰り返す。

 牧兄ぃが今はこのことについて聞かれてほしくない。なぜ。しばらくって、いつまでなの。なんでそんなことを隠す必要があるの。それになんでばあちゃんがそのことを知ってる。まるで本人を代弁してるようなことを言う。

「なんでそんなッ……」

「優ちゃんッ。……お願いだよ、今はそうっとしてくれないかい」

 よし子ばあちゃんは大きく僕の名前を呼ぶと、目を垂らして、悲しそうな顔をしている。

 僕は何も言わずに席を立って、店から出て行った。



 ※ ※ ※



「おかえり。あらっ。優ちゃんお茶の葉はどうしたの」

 伯母さんにそう言われて僕はハッとした。お茶はあのまま置いてきてしまった。

「ごめん。店においてきちゃった」

「まったく、優ちゃんにもおっちょこちょいのところがあるのね。どうする今からとりに行く」

 伯母さんは微笑みながら、今夜のご飯をテーブルに並べていく。

「ううん、明日またとりに行くよ」

 今はよし子ばあちゃんに会う気は起こらなかった。

 僕はご飯を食べてから寝るまでずっと柏木茶屋の一件のことを考えていた。

 よし子ばあちゃんはしばらくの間は牧兄ぃが同じ花をこっそりと買うことをやたらと口にしないように言ってた。すると、やはり牧兄ぃは人には言えないことをしているのだろうか。しかし、しばらくは言ってはいけないということはしばらくしたら言ってもいいということなのだろうか。

 よし子ばあちゃんの言うこと、牧兄ぃのことだけじゃない。美里さんのことも気になる。

 美里さんがよし子ばあちゃんのところに行くこと自体にはなにもおかしなところはない。

 けれど、なにか引っかかる。

 僕はベットに寝転がった。

 美里さんと牧兄ぃは無関係なのか。二人とも同じ花を買い、美里さんは花を牧兄ぃが入っていったはずの柏木茶屋にプレゼントしていること。

 更に、美里さんがあの鈴蘭を買っていく訳だ。もし美里さんがよし子ばあちゃんに花をプレゼントするために買っていたならば買ったその日、もしくはその次の日には渡すものではないだろうか。

 もっと言えば、牧兄ぃが花をその日に買って、それと同じ日に美里さんが花をプレゼントする。これは今日だけの出来事であって、ただの偶然なのか。それとも、毎週同じことが行われているのか。

 考えれば考えるほど、わからない。わからないことが多すぎる。

 だんだん考えてるのが億劫になってきて、明日よし子ばあちゃんに聞いてみようと思いながら、僕は浅い眠りについた。



 ※ ※ ※



 しかし、唐突に僕のその眠りを破るものがあった。

「ガッシャーーン」

 ガラスの割れた音だろうか。随分遠くから聞こえた気もする。頭が朦朧としていて、外を見ようか、また寝てしまうか、僕はすぐに行動に移すことができなかった。

 けれど、しばらく考えてから、意を決して布団を跳ね除けて窓を開けて身を乗り出した。

 街灯がぽつぽつと光っているだけで、いつもの商店街の夜と変わらない。

 さっきの音はなんだったのか……

 深く考えずに僕は窓を閉めて、また眠りについた。



 ※ ※ ※



 翌日。僕は昨日の疑問による不快感を抱えながらも、伯母さんとの朝食のときに昨日のことを聞いてみた。

「伯母さん。昨日夜中にガラスのようなものが割れた音しなかった」

「したかしら……今日朝、店の前を掃除してたときは何もなかったけどな」

「結構大きな音だった気がするんだけどな」

 伯母さんはぱくぱくと朝食を口に運びながら考えている。

「それなら、あとで調べてみましょうか」

 伯母さんはにやりと笑った。

 僕の商店街は一つで家族のようなものだ。だから商店街で起きたことは大抵聞けば分かることである。それは裏を返せば、商店街では隠し事はあまりできないということだ。

 伯母さんはご飯を食べ終えると、食器を流しに置いて、鼻歌を歌いながら外に出て行った。僕は食べ終わってから、その食器を洗うと、伯母さんが新聞を持って帰ってきた。

「優ちゃん。あったわよ。昨日の夜中にガラスが割れてたわ」

「どこが割れていたの」

「それがね、野田写真館の二階の窓だったわ。ちょっと見てきたけど、そんなたいしたものじゃなかったわよ。窓が一枚まるまる割れてただけよ。でも、優ちゃんよくあそこのガラスが割れた音なんて聞こえたわね。ここから野田さんのところまで結構離れているわよ」

 伯母さんは新聞を広げて興味深く見入っている。

 別に政治欄や経済欄ではなくてテレビ欄を眺めているのだろうが……

「それで、なんで野田さんのところのガラスが割れたの。イタズラかなにかかな」

「どうやら違うみたいよ。野田さんのお父さんが美里さんと大喧嘩したんですって。夜中に近所迷惑だって坊ちゃんパパがぼやいてたわ」

「牧兄ぃのお父さんが」

「ええ、ほら。牧原建業と野田写真館って隣同士じゃない。一ヶ月前くらいからやたら、親子喧嘩が多いんだってさ。それに、それを止めに坊ちゃんを派遣しようとしても、そういう時に限っていつもどっかに行っちゃってるんだって。おまけにあそこの二軒は本当に仲が悪いでしょ。それで、とうとう、坊ちゃんパパが怒って野田さんのお宅に殴りこみに行ったそうよ。その時にガラスが割れたみたい」

「その話も牧兄ぃのお父さんから」

「ううん。これは近所の人から色々聞いて分かったことよ」

「そうなんだ。ほんの十分やそこらで分かるもんなんだね」

「そりゃ、ここは打てば響くようなところですもの」

 自慢げに伯母さんは胸を叩いた。

「それにしても、美里さんって一人娘で、お父さんは溺愛してるんだから、喧嘩なんか起こりそうもないけどな」

「そうでもないわよ。もう二十代になっちゃったとはいえまだまだお年頃の娘だしね。やっぱり、色々あるんじゃないの」

「そうかなあ」

「そうだって。優ちゃんだって、もうお母さんや私に色々干渉されたくない時だってあるでしょ。それじゃないの」

 確かに伯母さんの言うように干渉されたくないこともある。でも基本的に母さんや伯母さんは僕に干渉するようなことはあまりない。だから、その伯母さんの言葉にすごく納得することもなかった。

「でも美里さんって言ったら、親孝行の鏡とも言われるような人だよ。そんな人が親子喧嘩なんかするかなあ」

「優ちゃんにそう言われちゃうと何かありそうで、気になるけど、でもあまり、深く入りすぎちゃうのは失礼なことよ。やっぱり、今はよく言われるじゃない。なんだっけ、プラハの侵害だっけ」

「違うよ。プライバシーの侵害でしょ」

「それそれ」

 伯母さんは新聞を折りたたんで、テーブルの上に乗せた。

「さて、優ちゃん、そろそろ、開店時間だから準備しましょ」

 伯母さんは立ち上がって、階下の売り場へと向かっていった。僕もテレビ欄をサッと見てからすぐに降りて行った。



  ※ ※ ※



 お昼まで僕と伯母さんは花の世話をしつつ、接客をして、午前中は過ごした。

 伯母さんは店先にある花に水をやりながら、カウンターで本を読んでいる僕に声をかけた。

「そういえば優ちゃん。あなたお茶取りに行かなくていいの」

「お茶……ああ、昨日の。忘れてたや」

 時計をみると、二時を回ろうとしている。

「伯母さん今、とりに行ってきていい」

「うん、今はそんなお客様も多い時間じゃないし、行ってらっしゃい」

 僕は本をカウンターの下に置いて外に出た。

 梅雨ももうじき明けるのか、快晴で暑いくらいだ。商店街の見慣れた光景をぼんやり眺めながら、僕は散歩気分で歩いて、柏木茶屋に入った。

 店内は昨日と変わってなくて、客も僕しかいなかった。

「いらっしゃい。あら、優ちゃん。お茶、取りに来たかい」

 よし子ばあちゃんは昨日と同じようにしわしわな顔で出迎えてくれた。

「うん……僕そのまま出て行っちゃったから」

「あらあら、そんなにしょげることないよ。はい」

 よし子ばあちゃんは昨日のお茶の葉が入った筒を渡してくれた。

「ありがとう」

「優ちゃん。昨日はあたしもちょっと言い過ぎちゃったかもね。優ちゃんは、優ちゃんなりに色々心配とかしてたかもしれないものねえ。それに、雄治はなにかと優ちゃんにかまっていたから、優ちゃんが心配するのも無理ないね」

 よし子ばあちゃんは目を垂らして言った。

「確かに、牧兄ぃのことはすごく気なるよ。よし子ばあちゃんがなんで、知ってるのかも気になるけど、今は聞かないで置くよ。そのほうがいいんでしょ」

 よし子ばあちゃんは嬉しそうにうなずいた。

「ありがとねえ。なんたって、雄治はあたしの孫みたいなものだからねえ」

 そう、よし子ばあちゃんが言って僕はハッとした。

「牧兄ぃのとこってそういえばお母さんが早くに亡くなっちゃったんだっけ」

「ああ、まだ雄治は三歳の時にね。だから、私が雄治の面倒みたりしてね。もう随分昔のことみたいだよ」

よし子ばあちゃんは遠いものを見てるかのように目を細めている。

 前に伯母さんから聞いたことがある。牧兄ぃは小さいときに母親をなくして以来、父親が仕事をしている間はよし子ばあちゃんが母親代わりをつとめていたということを。だから、よし子ばあちゃんだけは牧兄ぃを坊ちゃんとは呼ばずに名前である雄治で呼ぶ。

 そんなよし子ばあちゃんだから、牧兄ぃになにがあるのか知っているのかもしれない。

 それから、しばらくよし子ばあちゃんと他愛のない話をしていて、そろそろ話題が尽きようとしていた時に背後から声がした。

「ばっちゃんッ」

「あら、美里ちゃんどうしたのかい」

 よし子ばあちゃんは入り口のほうを向いてゆっくりと言った。僕もそっちを向くとロングヘアで薄い緑のワンピースを着ていて、ここまで走ってきたのか、息を切らして今にも泣き出しそうな顔をした野田美里さんが立っていた。

 僕の存在に気がつくと、泣きそうな顔は奥に引っ込んで、何事もなかったように、微笑みながら軽く会釈したので僕もそれを返した。

「こんにちは、おばあちゃん。優ちゃんもこんにちは」

「どうしたんだい美里ちゃん。なにかあったかい」

「ううん。なんでもないよ」

 美里さんは笑って応えた。

「あれ。美里さん目が赤いよ。どうかしたの」

 僕の言う通り、美里さんの目は赤くなって、血走っている。一晩中泣いて過ごしたかのようだ。

「昨日ちょっとあってね」

「昨日の窓が割れたことに関係しているの」

「あら、優ちゃん知ってたの」

「うん、夜中になにか割れた音が聞こえたから今朝、伯母さんに調べてもらったんだ」

「あはは、優ちゃんのとこの伯母ちゃんはなんでも知ってるね。さすが、商店街一の情報屋だね。そうだっ、伯母さんと言えば、さっきお店通ったら、伯母さんに早く帰ってきなさいって言われたわよ」

 僕は反射的に壁時計をみると店を出てきてから一時間は経っていて、三時まであと少しだった。

「ホントだ。早く帰らなきゃ。美里さんありがとう」

 僕は二人に会釈をしてから、出て行った。



 ※ ※ ※



 店に戻ると、おばさんが、眉間に皺を寄せて、カウンターにどっかりと座っていた。

「伯母さんごめんなさい。よし子ばあちゃんと話してたら、夢中になっちゃって……」

「もう、遅いわよ。あとは店番頼むよ」

 そう言うか否や、伯母さんはどかどかと階段を上っていった。

 僕はぼんやりとカウンターから外を眺めていた。眺めながら、今日、美里さんが来たときのことを考えていた。

 美里さんのあの今にも泣きそうな顔。なんだか、悪いことをして、親に叱られて、自分のことをよく分かっている人に助けを求めてきたかのような、そんな印象を受けた。

 昨日の親子喧嘩のせいかな。

 しばらくすると、牧兄ぃが店の前を歩いているのが見えた。なんだか、落ち込んでいるようで、歩く姿勢が普段よりも若干下を向いている。

「牧兄ぃ」

 僕はカウンターから大きな声を出して、牧兄ぃを呼んだ。それに気がついた牧兄ぃは、腕時計で時間を確認すると店の中に入ってきた。

「いらっしゃ……牧兄ぃどうしたのその顔」

 遠くから見ると分からなかったが、店に入って近づいてくると牧兄ぃの左頬が腫れているのだ。

「ちょっとな」

 牧兄ぃは悪戯がばれた時のような曖昧な笑い方をしている。

「喧嘩でもしたの」

「まあ、そんなとこかな」

「もう、牧兄ぃは大人なんだからそんなやたらめったら喧嘩するもんじゃないよ。話し合いとか平和的解決をしなきゃ」

 僕が口を尖らすと牧兄ぃは笑った。

「はは、優ちゃんに説教されちゃかなわないな。俺だって、もう昔みたいに四六時中喧嘩ばかりやってるわけじゃないよ。てか、そんなに昔、俺が毎日喧嘩していたように見えたか」

「うん。牧兄ぃがよく喧嘩するって話は良く聞いたし、実際に何度も見てきたからね。近くのお店の人たちが体を張って、止めに入ったりもしてたし、自分から他人の喧嘩の中に飛び込んで行ったりもしたもんね」

 事実、牧兄ぃは毎日、無鉄砲に喧嘩をしているように見えた。大人たちの坊ちゃんというあだ名はこのあたりからきているのだ。

 けれど、一度牧兄ぃは僕にその喧嘩のことについて話してくれた。

「たしかに、周りの人からみたら、俺は手当たり次第に喧嘩をしているかのように見えるかもしれない。けどな、それは違うんだ。俺が喧嘩をするのにはきちんとした理由がある」

 僕がその理由ってなにと聞くと牧兄ぃは笑ったまま応えなかった。そんなこともあったのだ。

「確かにな。でも昔の話だ。俺、高校に入ってからは喧嘩してないぞ」

「確かに、あまり、牧兄ぃが喧嘩したって言う話聞かなくなったからね」

「優ちゃんは喧嘩したことないのか」

「僕は平和主義者だから、喧嘩なんかしたくないよ」

「一度くらいしておいたほうがいいぞ。男は言葉じゃどうしようもない時があるんだ。そんな時こそ拳と拳でぶつかり合うほうが分かり合えたりすることもあるんだぞ」

 最後のほうは悲しそうに、声もほとんど呟くかのようになってしまった牧兄ぃを見て僕はなにも言えなかった。

 しばらくの沈黙。それを破ったのは僕だった。

「牧兄ぃ。なにがあったの。牧兄ぃがなんの理由もなく、喧嘩することはないもん。なにか訳があるんでしょ。もしかして、鈴蘭になにか関係してるの」

 僕は牧兄ぃの顔をじっと見つめて聞いた。

「それは……」

 牧兄ぃの目が右に左にと泳いでいる。

「ごめん。優ちゃん。今はなにも言えないんだ。……いや、言ってもいいかもしれないけど、あまり、人に知られたくないんだ」

 申し訳なさそうに、牧兄ぃはうなだれた。

「昨日、よし子ばあちゃんのところに行ったんだけど、同じようなこと言われた」

「そっか、ごめんな」

 牧兄ぃは時計を見る。僕も店の壁にかかっている時計をみるともう四時になろうとしている。

「牧兄ぃ。そろそろ帰らないと伯母さんが戻ってくるよ」

「そうだな。じゃあ帰るわ」

 牧兄ぃはとぼとぼと店をあとにした。



  ※ ※ ※



 牧兄ぃから電話が来たのはそれから数日後の夜、そろそろ寝ようかなとリビングから離れようとした時に電話が鳴ったのだ。

「……もしもし、優ちゃん。あのさ、話があるんだけどちょっといいかな」

 牧兄ぃの声はこの前あった時とはとってかわって、明るかった。

「いいよ。どうかしたの」

「いや、会って話がしたいんだけど」

「今すぐのほうがいいの」

「いや。今日はもう遅いから明日にしよう。あしたの夜八時に柏木茶屋に来てくれないか」

「いいよ。それにしても牧兄ぃ、なんか声が明るい気がするけどどうかしたの」

「そうか。まあ、そういうことは明日話すよ。忘れるなよ」

「夜八時に柏木茶屋だね。必ず行くよ。おやすみ牧兄ぃ」

 そう言うと僕は電話を切って、自分の部屋に入って、ベッドに寝転んだ。

 牧兄ぃの声からして、悪いことではなさそうだ。それに柏木茶屋で話すということはきっと、よし子ばあちゃんも参加するのかもしれない。となると、牧兄ぃが毎週花を買っていくわけも教えてくれるかもしれない。

 そう思いながら、僕はゆっくりと眠りに落ちていった。



 ※ ※ ※



 そして、夜八時五分前。僕は柏木茶屋の中にいた。目の前にはよし子ばあちゃんがにこにこした顔でお茶を淹れている。

「よし子ばあちゃんなんかいいことあったの」

 そういうとよし子ばあちゃんは「まあね」と嬉しそうに言った。

「さて、優ちゃん。こっちにおいで」

 よし子ばあちゃんは淹れたお茶をお盆に載せて、以前僕が牧兄ぃが隠れたのではないかと思われる奥の通路に続く暖簾を通っていった。僕もそのあとをついて行く。そうして、導かれた場所は売り場からもよし子ばあちゃんが普段生活しているところからも離れている一つの和室だった。襖は閉じられており、中からの明かりで影がうごめいている。牧兄ぃだろうかと思いながら、靴を脱いで、よし子ばあちゃんと一緒に襖の前に正座で座った。

「雄治、入るよ」

 そう言うと、襖を開けて中に入っていく。僕も後に続く。

 和室の中央には机があって、それを隔てて、牧兄ぃが座っている。この前見た腫れは引いていた。そして、牧兄ぃの他にも座っている人がいた。

「あれ、美里さん。どうしてここに」

 牧兄ぃだけじゃなくて、美里さんもいたのだ。それも、二人で仲良く横に並んでだ。

「こんばんは優ちゃん。なんでびっくりしているの」

「だって、なんで美里さんがいるの」

「まあ、優ちゃん。座りなよ。わざわざ来てもらって悪いね」

 牧兄ぃの顔はにやけてどうもだらしがない。

 よし子ばあちゃんがみんなにお茶を配ってから牧兄ぃは切り出した。

「あのな、優ちゃん……」

 牧兄ぃの声は真剣そのものだがどうも締りがない。それでも牧兄ぃは気にせずに続ける。

「俺、結婚するんだ」

 一瞬僕の頭の中は真っ白になって、中央に結婚という文字が小さく躍っている。そしてそれはだんだん大きくなって僕の頭の中を支配していく。

「結婚って、誰と。ま、まさか……」

 僕は美里さんを見ると、美里さんは頬を赤らめてこくりとうなずいた。

 言葉が出てこない。なぜ、牧兄ぃが美里さんと。そもそも、この二人は犬猿の仲ではないのだろうか。

「なんだ。おめでとうの言葉もないのかよ」

 牧兄ぃは僕を小突いた。

「ああ、美里さんおめでとうございます。でもなんで、牧兄ぃなんかと……それより、二人は付き合っているの」

「ああ、結構前からな」

「あれは、私が高校に入ってからでしたっけ」

 二人は嬉しそうに顔を合わせている。

「そんなに前から……でも、よく気づかれなかったね。誰にも知られずに会うなんて大変だったんじゃないの」

「まあな。でもそこはばあちゃんがなんとかしてくれたんだよ」

 よし子ばあちゃんは嬉しそうに頷いた。

「この部屋は本当に昔からあるんだけどね、昔からよく、密会場として使っていたんだよ。まあ私の代ではこの二人が初めてだけどね」

 今度は牧兄ぃにバトンタッチをする。

「まあ、毎日のように使っていたら、いつか誰かに見られることもあるかもしれないから毎週土曜の夜に使うって決めていたんだ。だから、優ちゃんがこの前俺が入っていくのを見たっていうのは、まさにその時だったんだよ」

「そうだったんだ。でも、牧兄ぃと美里さんってすごく仲が悪いんじゃなったの」

「確かに悪かった時期もあったけどな。それは俺が毎日のように喧嘩してた時だけだ。でも本当に今でも悪いのは親のほうさ」

 僕はお茶を飲む。他のみんなもお茶を飲む。少し間をおいてからまた僕は質問を始めた。

「二人が付き合っていて、ここで密会をしていることはわかった。じゃあ、美里さんが一ヶ月前辺りから親子喧嘩をしている原因って、この結婚の話だったの」

 美里さんは恥ずかしそうに頷いた。

「雄くんのお父さんは話したらすぐに分かってくれて、許してくれたのに、あんな喧嘩っ早い無鉄砲なやつのとこにやるなんて許さんってうちのお父さんは許してくれなかったの。それで、時間がすごくかかっちゃったのよ」

 なるほど、と頷きながら僕は閃いた。

「じゃあ、もしかしてこの前美里さんのとこの窓ガラスが割れたのって、牧兄ぃが美里さんのお父さん殴っちゃったりしたんじゃ……」

 牧兄ぃは僕の言うことを遮った。

「逆だ。逆。俺が親父さんに殴られたんだよ。誰がお前なんかなやつに娘を渡せるかって言われて殴られて、それみた親父が美里の親父さんに飛び掛って、二人で大暴れ。それで、窓ガラスが割れちゃったのさ」

「だから、次の日は頬があんなに腫れてたんだね。それにしても牧兄ぃも、よく殴り返さなかったね」

「当り前だ。喧嘩しちまったら美里に嫌われちまうよ」

 そう言って、また美里さんと二人で顔を見合わせて微笑んでいる。なるほど、愛の力とは偉大なものだ。

 僕が感心していると、今度は美里さんが話し始めた。

「それで、二人が落ち着いてから、ガラスの片付けをしたりして、それからまた説得が始まったんだけど、お昼くらいにまた、お父さんが雄くんのこと殴りかかって、あたしどうすれば分からなくなって、それでばっちゃんを呼びに行ったの。ばっちゃんならきっとなんとかしてくれると思ってね。そしたら、優ちゃんがいたからびっくりしたよ」

 なるほど、それで美里さんはあんなに息を切らして、今にも泣きそうだったんだ。

「それから、ばっちゃんがそこに着いたときもまだやっていてね。雄くんを一度外に行かせて、よくお父さんとばっちゃんと私でじっくり話をして、少しずつ納得してもらったのよ」

「じゃあ、牧兄ぃ。なんで牧兄ぃはあの鈴蘭を買っていたの。伯母さんに知られたくないのは分かるけど、なんで毎週買っていたの」

 僕は牧兄ぃを真っ直ぐ見据えて尋ねた。

「それは……」

 牧兄ぃは照れたように頬をぽりぽりと掻きながら、ちらりと美里さんの方を見て言った。

「鈴蘭は、美里の好きな花だからな。こいつに、この鈴蘭をプレゼントして喜ぶときの顔がすごく可愛くて、何度もみたいから気兼ねなく二人っきりになれるここで、その顔をじっくり見たいからだよ」

 なるほど、美里さんを喜ばせるためにいつも、鈴蘭を買っていたんだ。納得したが、牧兄ぃはあんなくさいセリフを言って恥ずかしくないのだろうか。

 そう思っていると目の前では美里さんがにっこりと笑って、牧兄ぃの頭を思いっきりはたいていた。

「なにするんだよ」

 牧兄ぃが叩かれた頭を押さえて抗議するが美里さんも負けていない。

「雄くんなんであんなくさいセリフ平気で人前で言っちゃうの。信じらんない」

 ぽかぽかと牧兄ぃを叩いている美里さん。なんだかとても絵になっていて、僕はよし子ばあちゃんにこっそり耳打ちをした。

「なんかあの二人ってお似合いだね」

「ねえ、なんだかこうしてみてると二人とも子どもに戻っちゃったみたいでね、可愛いものだよ。さて優ちゃんお邪魔虫は退散するとしようかね」

 よし子ばあちゃんは嬉しそうに立ち上がって、音もなく部屋から出て行った。

 僕もその後に続いていくが、最後に襖を閉める前に飛びっきりの笑顔で。

「牧兄ぃ、美里さん。結婚おめでとう」




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ