40.満ちゆく時
フィオナは兵士の案内で城の通用口に着いた。
そこに居たのはカイアスだ。背後には重なるように鎧姿が見えた。僅かに見える顔には見覚えがある。
ラル?
カイアスは無言で背負ったラルを降ろす。全身が明らかになった瞬間、フィオナは思わず目を背けた。
ラルを包むのは黒い獣が巣食う、黒い霧。
「隊長はいきなり俺を突き飛ばしてそのまま意識が飛んだ。何か分かるかい?」
カイアスは勘がいいが、精霊は見えない。この黒い霧も彼には見えていないだろう。
フィオナは向き直り、ラルに近づく。息はしているようだ。
そっとリリアに目配せした。彼女はゆっくりと頷き、フィオナの背に触れた。
両手は青い光を帯びる。その両手でラルを囲う黒い霧に触れた。
自分の意識が吸い込まれるような感覚、ラルに巣食う黒がフィオナの両腕を伝い、侵し始める。
フィオナは思わず歯を食いしばった。
「フィ、フィオナちゃん?」
負けてはならない。祓わなきゃ。
黒い獣は小さくなり、霧も徐々に晴れてゆく。だが同時に侵される感覚は強まっていく。
さっきに比べて力はなく、受ける負荷ばかり大きい。
意識が徐々に遠のいていく、落ちたら終わり。
(ダメ、待って。もう少し、もう少しだから)
消えゆく黒の隙間に白銀が見える。鎧の色ではない、内側から輝いている。白銀の光は黒の霧を薙ぎ払い、いつしかラルの身から黒の獣は離れた。
フィオナは意識を失った。
*****
全身を揺さぶられる感覚と共にフィオナは目を覚ました。
視界は大きく揺れ、気持ち悪い。
だが、目覚めたことに犯人が気付いたのか揺れは止まった。
目の前にはカイアスの顔。今、フィオナはカイアスの両腕に抱かれていた。
「ほら、俺のおかげッス。たいちょーのショボい揺さぶりで起きるわけないッスよ」
「いくらフィオナが軽くても一人胴上げは無いだろ。お前、落ちたら骨折するかもしれない」
「たいちょーだって、止めなかったじゃないッスか。同罪ッスよ」
「……うん。とりあえずベッドに降ろそうか」
ラルの指示によって、柔らかい白のベッドにフィオナは寝かされた。
「私……。どうしたの」
「なんにも憶えてないの?」
フィオナはラルとカイアスから経緯を聞いた。
「それにしても、フィオナちゃんはすげーッスよ。何かあったんスか」
「リリアが私に宿って、力をくれたんです」
正直、ありのままの答えだった。もちろん、カイアスの反応は。
「リリア? それ何スか」
精霊を見ることができない彼にとって意味不明だったようだ。ただ言葉が悪かった。
「痛い、痛い、やめてくれ」
カイアスの横腹をリリアがつねっていた。頬を膨らし軽く怒っている。
「私、物じゃない」
それがリリアの言い分だ。最後に一発つねった後、手を離した。
「ふぅ、リリアは恐ろしいッスね。あー、痛い、痛い」
リリアはまたカイアスをつねった。
「ハハハ。ともかく、やっと精霊が宿るようになったんだね。おめでとう」
ラルの表情は言葉の割に微笑みすらなく、影があった。
「そういえばカイアス。フィオナの意識が戻ったら、前線に戻る命令じゃなかったのか」
「あ、そうでしたね……」
カイアスは兜を被り直し、立ち上がる。
「必ず戻ってくるよ」
そう言い残して、ゆっくり部屋から出ていった。
「ラルさんも出ていくんですか」
「ああ、体調は戻ったし、事が済めば出ていくよう命令を受けている」
顔は俯き、呆然と床を眺めているような感じだ。だが、フィオナの立場では何も声を掛けられない。
しばらく沈黙が続き、やっとラルが顔を上げた。
「フィオナ、君は戦場に出たことあるかい。一人相手の戦闘じゃなくて」
戦場を経験していないことはラルも分かっている。
「俺も戦場は初めてだ。魔物使いとは何度も戦ったことはあるが、大規模な組織相手はない」
ラルは手元から紙を一枚取り出し、フィオナに差し出した。
フィオナは受け取った瞬間、紙を床に落とした。書面は非情にも表のまま落ちた。
『召集令状』
令状にはフィオナの名が記されていた。両手を口元に当て、紙から顔を背け、苦しそうに呼吸するフィオナ。
予想はしていた、だが掛ける言葉をラルは持ち合わせていなかった。
こんなもの、破り捨てたかった。せめて今回だけは見逃して欲しかった。渡せば罪、渡さなければさらなる罪。意識の狭間に揺れながら、ラルは何もできなかった。
せめてできることは召集が必然だったように振る舞うこと。リリアを宿したことで召集が決まったとは言わないこと。
「任務はエレシアの補佐。呼ばれたら王立教会へ行くように」
指令のみを伝えて、ラルはフィオナから目を背け、部屋を駆け出ていった。
「ラル!」
フィオナが呼ぶ声に振り返ることはなかった。
ラルはもう知っている。
エレシアが倒れた場合、巫女として一切の役を引き継ぐことになるだろう。
その役は……。
残されたフィオナは召集令状をクシャクシャに握り締め、一人部屋で涙を流した。
*****
その頃、王立教会の祭壇でエレシアが祈りを捧げていた。五つある祭壇を全て使い、差し向けられた見えない敵と一人戦っている。身体は痩せて、呼吸は荒々しい。苦悶に満ちた様子は見るに堪えない。だが手を差し伸べる者は誰一人いない。
もちろん王国もエレシアだけに頼っているわけではない。いざというときは精霊使いの術で対応できるようにしてある。
だが、王国が用意している方法に手を染めれば、あれと同じ。いや、それ以上の罪を背負うことになるだろう。アルフィリア王室の面子は丸潰れだ。いつしか精霊達の信用を失い、ただの国と化すだろう。
国王はエレシアが祈りを捧げる姿を遠くから見ていた。体から紅の光が放たれている。その背に向かってそっと願いを託した。
夜は静かに過ぎていく。想定外に早い侵攻の中、訪れた束の間の静寂。エレシアの様子を知る者は覚悟を決めていた。




