31.散りゆく光
「アドニス・アステア」
ラルが男の名を口にする。
「そうだ、アールの父親だ。君は直属小隊長だったね。何度か見たことがあるよ、アルフィリアの『鏡破り』隊長だって。それなら……」
アドニスは外套に隠していた神鏡を取り出す。ラルは剣を構えた。
「リト、行くぞ」
猛スピードでアドニスに向かって駆け、鏡を持つ手に剣を向ける。だがラルの前に黒い影が立ちはだかり、剣を弾く。リトも巨体に弾き返される。
ラルが見上げると、赤い眼をした黒龍がこちらをにらんでいる。さっき言葉を交わした黒龍の面影は失われていた。
「私の邪魔しないでくれるか。祈り子などには分からんだろうが」
アドニスは光の柱に包まれたアールの方に近づいてゆく。ラルが後を追うが、黒龍の吐く灼熱の炎に阻まれる。リトも近づけず、カイアスも突如現れる炎の柱を避けるので精一杯だ。
「生きておったか、小娘。底辺の荒波にのまれて絶えていると思ったが」
フィオナは立ち上がり、アドニスの神鏡に刃を向ける。だがナイフを持った手は彼の左手に押さえられた。そのまま手首をひねられ、ナイフは地面に落ちる。
「こう見えても、若い頃は従軍していたのでね。小娘ぐらいなら素手で十分だ」
フィオナは無防備な顔を殴り飛ばされ、倒れた。リリアも飛びつくが、体が小さいリリアは全身を掴まれ、そのまま床に投げ捨てられた。
「全く、奴隷身分上がりの祈り子の精霊は悲しいな。一つも魔法が使えない。魔法の一つでも使えればご主人様を守れたかもしれないのに」
アドニスはリリアを見下し、光の柱の中へ入ってゆく。光は弾き返すことなく彼を受け入れる。アドニスはアールに神鏡を向ける。
「これで、君らには私をどうすることもできない。アール、今日の生贄と一緒に彼らも捧げる。黒龍の精霊ガルーに我らに仇なす精霊兵を焼き尽くすよう願ってくれ」
アドニスの言葉に反応し、アールの神鏡がより一層輝きを増す。
黒龍はゴオァーアと咆哮をあげる。赤い眼は輝き、最も近くにいるラルを見つめている。いつ襲い掛かってくるか分からない。だが、ラルは気づいていた。
黒龍の体が震えている。顔は左右に振れていて、赤い眼はときおり点滅している。今、神鏡が彼を支配し、彼は生贄としてラルを喰おうとしている。だがそれは彼の本心ではない、心の中で神鏡と戦っている。
黒龍の頭に青い人影が見える。人影は黒龍の耳元でささやいている。
「もう一息だよ。鏡の声を振り切ったら龍さんは自由。さっきの願いはみんな叶うの」
青い人影はリリアだった。リリアが黒龍に駆け寄り、いつの間にかその巨体によじ登っていたのだ。
「貴様はまた一人、祈り子へ落とそうとするか。それも私の息子を」
光の中で、アドニスは叫ぶ。
「精霊よ、耳元の声は堕ちた魔物の囁き、耳を貸すな。そいつを焼き尽くせ」
アールの神鏡は光を放ち、黒龍の体を照らす。光を浴びた黒龍は体を叩きつけ、リリアを振り落とす。
「痛った~い」
床に叩きつけられたリリアの背中に黒龍の炎が迫る。意外にすばしっこいリリアは炎を避けるが、あまりの高温にフィオナの所まで熱気が伝う。近くにいるラル達にはどうすることもできない。彼らも黒龍の炎の前に逃げるしかない。『鏡破り』は神鏡を割って精霊を悪しき精霊使いから解放するのが本職で、精霊にダメージを与えることはできないのだ。
吹き付けられる炎はひたすらリリアを追いかける。
「熱い、熱い、熱いのやめてー」
リリアは幼げな声を上げながら、フィオナの方へ近づいてくる。
リリアの青いドレスはところどころ炎に焼かれ、黒く焦げている。リリアの顔はもう泣き顔だ。動く度に光でできた精霊の涙が散ってゆく。だが、この散りゆく光はリリアのものだけではない。後ろで炎を吐き続ける黒龍の目からも光の粒が放たれていた。炎を吐く度に少しずつ光が溢れてくる。
それでも黒龍の炎は止まらない。どれほど抗おうと鏡の命令は絶対だった。フィオナも逃げざるをえない。
リリアと一緒に炎から逃げる。アールの所からは徐々に遠ざかってゆく。光の結界に守られて彼らには灼熱の炎は届かない。ラルとカイアス達も逃げる。そして、いつしか入口近くに全員が押し固められてしまった。
「よくやった。これで楽に生贄にありつけるぞ」
アドニスの言葉にフィオナ達の後ろの扉が開く。扉の向こうには男一人と子供たち。
フィオナはその姿を見て涙が出てきた。
「レダ……」
見たことのある子供たち。それはギルド・メメントのメンバーだった。ここにいるのはその全員だった。彼らの瞳は光を失い、無表情に立ち尽くしている。
「ご主人様、ご所望の品をお持ちしました」
執事風の男の言葉にアドニスは震えていた。
「なぜ、その子達だ。生贄として使うのは奴隷身分の子だけだと言ったはずだ」
「ご主人様はおっしゃっていたではないですか、アステアの家計が危ういと。経済的なことを考えるとギルド・メメントという慈善施設を継続するのは難しいと存じあげた次第で」
「君は私の言うこと聞いておったのか。私は無力なアルフィリア軍に代わって国を守りたいだけだと言ったではないか。そのための最小限の犠牲として生贄を取ってくるよう頼んだが、死を待つだけの未来の無い奴隷だけにしろと口酸っぱく言ったではないか」
「ですが……」
「私を魔物使いと同類にしないでくれ。私は生贄などしたくないのだ。ギルド・メメントへの寄付は私のせめてもの罪滅ぼしなのだよ。それを君は奪おうとするのか」
「もしや、この仮初めの王国もですか」
「そうだ、生贄となった者へのせめてもの償いだよ。この中だけは奴隷居住区とは違う、幸せな世界にしたかった。奴隷身分には手に届かぬ市民並みの服を着て、手に届かぬ貴族並みの食事をし、手に届かぬ城に住まわせたかった。私の自己満足かもしれんがな」
「それなら、何で精霊の言うことを聞かなかったの。その黒龍の精霊は私たちに言ったの、『あなた達は鏡を使うことしか知らない、言ってくれれば助けてあげられるのに。生贄なんて僕はいらない』って。あなたは本当は良い人なんでしょう。精霊の言う通りにしていれば、罪に問われることなく、ずっと尊敬できる人であれたのに」
アドニスはフィオナを見つめていた。彼に言葉が響いているかはわからない。
「ご主人様、今は生贄の言葉を聞いている時間はありません。これが最後なんです。これを逃せばご主人様とアール様はいつしか彼らに祈り子へ落とされます。そうなれば国を守るご主人様の願いは叶いません」
「アステア家一の策士だというが、あんたが一番分かってない。鏡が無くても、ここで生贄を喰わなくても、あの精霊は願いを叶えるって言っているんだ。それを信用したらどうだ。ご主人様の願いも一番叶っている気がするが」
光の中でアドニスは頭を抱えている。黒龍はこちらをにらみつけているが動いていない。赤い眼は今も点滅している。
「俺らもむやみやたらに神鏡を割っているわけではない。貴族が鏡を失うとどうなるかは分かっているから。今、解放したら鏡は割らない。さぁ、どうする」
従者はその言葉に一瞬ためらう、しかし彼は変わらなかった。
「ご主人様、これで最後なのです。さぁ、完成させましょう。ご主人様の一大事業を」
アドニスは従者を見つめる。その瞳には精霊使いとしての誇り、揺れる天秤は今、止まった。
「精霊よ、先の三人だけを喰らえ」
アールの神鏡が悲しき光を黒龍に向けて放つ。黒龍の赤い眼はフィオナ達に焦点を合わす。
黒龍に向かって風が起きる。
フィオナは体の中が抜けてゆく感触を覚えた。彼はこうして生贄を喰ってきたのだと。ラルやカイアスも抵抗できない。リリアは黒龍に向かって何か言っているが全く聞こえない。意識が薄らいでゆく、どこか遠くへ、遠くへ。
だが、その風は弱まってゆく。同時に黒龍は顔を上下左右に揺らす。神鏡の光は点滅し、意識が徐々に戻ってゆく。
意識を取り戻すと、黒龍は淡い青の光に包まれていた。
「そうだよ、もう少し、もう少しであなたは自由。大丈夫、私の力貸してあげるから」
リリアが黒龍の体を両手で触れている。いやむしろ、全身で抱いているようだった。
不思議な青の光に包まれた黒龍の動きは徐々に穏やかになる。もう風はない、フィオナ達は立ち上がる。
アドニスが光の柱から出てくる。従者が剣を出し迫ってきたが、カイアスが止める。アドニスにはラルが剣を突き付けた。
アールの神鏡からいつしか光が消える。
「ゴオァーア!」
黒龍が咆哮を上げる。それは部屋に響くことなく、脳裏を直接震わす。その声の波動はアールの鏡に響き、亀裂を生む。その一点の亀裂はいつしか鏡全体に広がり、砕け散った。
鏡の破片は光となって部屋中に飛び散った。キラキラと光る破片は淡い青に染まり、徐々に昇華してゆく。そして鏡の破片が消えるとき、黒龍を包む青い光も消えた。
黒龍は自らの意思を取り戻し、駆け出す。その標的はアドニスだった。光の柱に逃げ込もうとするが、黒龍の鋭い鉤爪が先だった。黒龍はアドニスを軽く踏みつける。
「ぐがあぁっ」
アドニスは踏みつけられ叫びをあげる。ラルはアドニスのもとに近づき、胸元から神鏡を引っ張り出す。
「頼む、それだけは、やめてくれ」
ラルは容赦なく神鏡に剣を突き付ける。神鏡は簡単に割れ、破片は昇華した。枠縁はすぐに熱を帯びて燃え尽き、アドニスは精霊を失った。
神鏡が燃え尽きたのを見て、黒龍は足を外す。足が外れて動けるようになったアドニスは腰に帯びた短剣を取り出す。それを自らに向けたとき、短剣はアドニスの手元からは消えていた。
「神鏡を失うとみんな自刃しようとするけど、神鏡が無いからって、生きていけないわけじゃない。あんたの部下を見て見ろ、彼は神鏡を持っていないんじゃないか。それでもあんたの願いを叶え続けていたんだ。それに、あの兵士も後ろの子供たちも神鏡なんか持っていない。力は失うかもしれない、貴族社会では生きていけないかもしれない。でも死ぬことはないと思うが……どうだ」
ラルの言葉に、アドニスは力が抜けたように倒れた。
「たいちょー、あっちは縛ったッス」
従者を縄で縛ったカイアスがやってきた。
「じゃあ、こいつも縛ってくれ」
「分かったッス」
そのとき、光の柱の中にいたアールが目を覚ました。アドニスの神鏡が無くなった今、もう既に光の結界は存在しない。
「大丈夫? アールさん」
フィオナはアールの隣にいた。階級が違うとはいえ同じ年に契約の儀式を受け、授与式に同席した男の子。今はフィオナと同じ鏡が割れた祈り子だ。黒龍がまだ離れていないように、彼の胸には神鏡の枠縁だけが残っていた
アールはフィオナの顔を見た後、そうすることが定められていたかのように神鏡を見る。
「グアアアーァッ!」
彼は叫び声をあげ、腰に手を伸ばす。取り出したのはまたしても短剣。松明の光を反射し橙に輝いている。
フィオナはその右手を押さえる。
「ガアアアッー」
だが、押さえるのが少し遅かった。短剣はアールではなくフィオナの服を貫き、皮膚に到達している。白い服が赤く染まる。不意にも他人を刺してしまったアールは短剣から手を離す。フィオナの血を見てのけ反り、這いながら後退する。アールの動きを追うようにフィオナは服を血で染めながら近づいていった。
そして、アールの目の前でしゃがみ込む、胸元の割れた神鏡が見えるように。
「あなたは憶えているか分からないけど、あれから私は生きてきたの。この割れた鏡と一緒に」
フィオナの横にはリリアの姿、黒龍の精霊もアールのもとに寄り、大きな鼻を近づける。
「あなたの精霊はあなたを信じているの。だから鏡の力が無くとも、今あなたのそばにいる」
アールは出会ったときと同じように黒龍の精霊ガルーの鼻に触れる。その手を精霊は鼻をヒクヒクさせて受け止める。
「だから帰ろう、私たちと一緒に。鏡が割れていても私のように生きていけるから」
フィオナはアールの両手を握りしめる。その手には鞄の中で崩れた一輪の花。美しいが青に染まり不当に扱われる花。それでも彼らも生きている。鏡が割れていようが、見た目が劣っていようが関係ない。
私には、言葉をかけることしかできない。
この言葉は決して魔法の言葉ではない、今のあなたにとって最善かはわからない。しかし、それでも私は言う、あなたに届くかわからないけど。
これが今の私にできること。だから言い続ける。せめて一緒に生きて帰ろうって。応援するからって。
そして、あなたに渡す。せめてあなたにたった一輪の花束を。不遇でも生きてきた、今ここにしかない青い一輪を。
アールはフィオナの手をそっと握りしめる、手元からは青い花びらが落ちてゆく。
そしてアールは精霊たちに見守られ、再び眠りについた。




