2話
翌朝目覚めると誰もいなかった。
夏休み前、七月の暑さが俺に見せた幻覚と簡単に昨晩の出来事と別れを告げて、朝食を取るべく思い足取りでリビングへと向かった。
「秋人、ちょと話があるんだけど」
「ん? なに」
部屋着のまま椅子に座り、テレビをつけたところで僅かに暗い雰囲気を含んだ母さんが朝食と共に台所から現れた。
「急にお父さん海外の出張に行くことになっちゃって、私も付いていこうと思うの」
「ほぇー。――えっ?」
「毎月仕送りはするから秋人には明日から、もしかしたら今晩辺りから一人暮らしをしてもらうことになるんだけど、大丈夫?」
「いや、まあ。なんとかなるとは思うけど……」
悩ましげに話していた母さんの表情は少し晴れやかなものとなり、「じゃあ安心ね」とだけ言って、準備のためだろう、リビングを後にした。
これは幻覚か、もしくは夢か、はたまた現実か。軽く目を閉じ、思考をめぐらせる俺に幻聴が聞こえ出す。
「うーん、お母さん料理美味しいね。これならわたしを遠い親戚にしてここで住めばよかったなー」
ゆっくりと目を開くとそこには幻覚が見えていた。昨日も見たような気がする美少女系幻覚。
「幻覚よ」
目の前に座り、俺の手から盗み取った箸で目玉焼きを突っつく幻覚少女に俺は言った。
「現実にその物言いはよくないんじゃないかな?」
にこにこと可愛らしく微笑み、思わず見とれてしまいそうになるが、すぐさまそんな感情は切り離し、至って真面目な声で、気持ちで彼女に訴えてみる。
「一旦、俺に現実を見せてくれ」
少し首をかしげ、すぐさま何か思いついたのか表情を晴れやかにし、両手で俺の顔を包み込む。そして僅かに身を乗り出し、俺に顔を近づけて楽しそうに笑った。
「今見えているものが現実だよ」
脳内に瞬く間に様々な思考が巡っていく。
とりあえず死んで見るか。と思った次の瞬間にはもう一度眠りに付くことが思い浮かび、更に次の瞬間には額を机に叩きつけてみるという案が提示される。しかし、そのどれもが流星の如く流れていき、結果として俺の頭の中はすっからかん。真っ白だ。
「わたしはニートの神!」
突然目の前に座っていた少女は立ち上がり、拳を天へと突き上げた。
「世の中の空気を緩めるゆるキャラ系神様さ!」
どやぁ、と俺に視線を送りつけてくるが、さらりと受け流す。
学校いこう。うん。
重たい気持ちを引きずり目の前の、自称ニートの神様の前から俺は立ち去った。
なにやら背中に向けられる視線は感想を求めているようで、無視すんなよと訴えているようで、ほんの少し可愛そうにも思ったが、俺の変わりにエアコンが冷え切った空気を感じてか冷風を部屋に送るのをやめたのを感想として受け取ってもらおう。
「寒くないもんっ!」
大声で言いながら何かが破壊される音が俺の耳に届いた。
エアコンよ、すまんな。
心の中で夏の暑さから身を守ってくれる偉大な存在に一言謝っておく。
そのまま自室に帰り、制服に着替えながら俺の思考はフルに回転していた。朝からこの回転速度はもしかすると人生初かもしれない。
未だにあれを幻覚として処理し続ける俺の脳みそ内部では、早急に不要なデータの削除が行われているような気がしてならない。その証拠にほら、だんだんと幻覚の記憶が消えていく。キエテイクー。
「寒くないもん」
呪文のように呟かれた言葉に、脳内の削除作業は一時停止させられてしまった。
視線は俺を呪い殺してやると訴えているようにしか見えない鋭いもので、扉を人間の目玉一つ分だけ空けた隙間から俺に注がれている。
「うっ、寒気が」
わざとらしく口にし、身震いしてみる。
「とうっ」
謎の掛け声が発せられ、直後変身ヒーローが見せるような鋭いとび蹴りが俺の脇腹にめり込む。
「がはっ――!」
ミシッ、って――ミシッ、って音がしたけど!?
うずくまり脇腹に手を当てる俺など気にも留めずに、ゆるキャラ系幻覚神様は先ほどと同じ台詞を一言一句はっきりと口にしていく。
「わたしは! ニートの神!」
ここで一度大きく息を吸う。
「世の中の空気を緩めるゆるキャラ系神様さ!」
快活な笑顔で足元に寝転がる俺に訴えてくる。しかし、そんな笑顔にときめいている余裕は俺に無かった。脇腹の訴える痛みは常軌を逸していて、過去に経験したことの無いレベルだ。呼吸もしずらく、視界は時折点滅している。
「おい、クソニート……きゅう、きゅう。――しゃ」
どうにか絞り出した台詞に、ニートは言うのだった。
「まったまたー、演技上手なんだから」
そう言って俺の脇腹を軽く足先で突っつく。
「ぐっ!」
軽く触れられただけだというのに、体全体を強烈な電撃が走り抜けた。
「えっ、嘘。マジなの?」
俺の反応に困惑顔で長い足を折り曲げて、か細い俺の声を聞き取るためかお互いの呼吸音が聞こえる距離までやってきた。
「マジ、や……ばい」
しかしドキドキしている時間など無い。そもそも命に余裕が無い。
しだに視界の点滅はゆっくりと視界が暗くなっている時間のほうが増えてくる。なんかもう息もまともに吸えていない気がする。
やべぇ、死ぬ。
「す、すぐに直すから」
必死な顔で俺に訴える彼女は、脇腹にそっと手を添えた。僅かに人肌の温かさを感じる。ゆっくりと、しかし確実にその温かさは俺の体中に広がっていき、徐々に呼吸も安定していく。視界もはっきりとしてきて、流れ的に生と死の狭間に迷い込んでしまったのかと勘違いしてしまうほどに自然だった。
「俺は――死んだのか?」
「ふふん、わたしは神様なんだよ?」
勝ち誇る笑みが腹立たしいが、どうにか俺は生きているようだった。
見慣れた部屋、見慣れない人、聞きなれた朝の音、聞きなれない人の声。うむ、生きているようだ。
「時間、時間は?」
寝転がったままなんとなく口にする。
一瞬彼女は視線を泳がせると、すぐに時計で視線を止め、さらりととんでもない事実を口にするのだった。
「八時十分だよ」
「やっべ!」
俺は飛び起き、中途半端に着ていた制服に数秒で着替え、部屋を飛び出した。歯を磨くのはこの際仕方ない、どうせ学校じゃ大して話したりしないんだ。今日くらい問題ない。
「はぁ、疲れちゃった。しばらく良いかな」
俺の背後で聞こえたため息みたいに小さな呟きは、脳みそに届くよりも前に、振り落とされてしまう。
家から学校までは三十分ほど掛かる。そしてチャイムが鳴るのが八時三十分ひ弱なこの体の全力ダッシュで間に合うかどうか。
「くっそ」
何で俺は学校に行くためにこんなにも頑張って走らなきゃならないんだ。ふざけんな。
「やあ、少年君も遅刻かい? 急がないと間に合わないぞ」
快活な笑みを浮かべ一瞬俺に並ぶと、それだけを言うと後ろで一つに結ばれた黒い長髪を、上下左右にと忙しなく揺らしながら、ぐんぐんと先へ進んでいく。
なんだろう、変な人に遭遇する確率の高さが急激に上がってはいないだろうか。肩で呼吸をしながら、ぼんやりとそんなことを思っていた。
学校は諦めるべきかな……。
というわけで、2話でした。
至らぬ点が多々あるとは思いますが、少しでも楽しんでいただけていれば幸いです。
なにか意見等ございましたらコメントお願いします。
本作に反映できるかどうかは、作者の時間しだいですが、次回作を書く際に参考にさせていただきます。




