Stockholm syndrome 4
「忘れたとは言わせないわ。あの日、私は貴女に言ったのよ、"私を攫って頂戴"と」
「君は全く成長していない子供のままだね、メルシー。そんなことをしたら僕は誘拐犯だ」
本当なら富豪の生まれである彼女には口に合わないであろう店先で買った豆で淹れたコーヒーを、ダイニングチェアに腰掛け二人向き合って飲みあう。
一体彼女はなんて昔の話を引っ張り出してくるのだろう。
忘れたなんて言わないよ。
今聞いてもなんてとんでもない一言なのだろう。
僕は今、このとんでもなく非常識なお姫様を家に入れてしまっている。
一人暮らしには申し分のない広さのこの部屋も、彼女にとっては貧乏で可哀想な暮らしに映ってしまうのではないかと思うと気が進まなかったのだが、玄関の前で立ち話というわけにもいかなかった。
僕の考えをよそにメルシーは僕の部屋をぐるりと見渡して、
「うん、なかなかいいんじゃない?私と貴女、ここで慎ましく暮らしてゆくというのも」
本当に、さらりと問題発言を撒き散らすお姫様だ。
ちょっと待ってほしい。
先ほどまでは、彼女のこちらの都合を顧みないところには相変わらずだと、懐かしさすら感じていた。
けれども、今の発想は流石に飛躍しすぎていてどこから突っ込めばいいのか分からない。
「待って、メルシー。今、なんて?」
「貴女が私を攫ってくれないから、私自ら攫われてあげるわ」
コーヒーを可愛らしく両手に持ち、わざと小首を傾げてにこりと笑うメルシー。
もはや、言葉を失うしかない。
どうやら、彼女の悪い癖が、数年会わない内に随分拗れてしまったらしい。
学生時代から、我儘で、とことんお嬢さま気質だったメルシー。
それだけなら、僕はまだ可愛いものだと思えた。いや、きっと誰もがそう思った。
ある時は会社の優待券。
ある時は誰もが欲しがるようなとんでもなく高価な品々。
ある時はもっと露骨な、現金で。
彼女の困った癖とは、とにかく人に自分の財力を振りまき人を寄せ集ようとすること。
モノや金で、人を釣っていたのだ。
そんな彼女が、ついには自分の身を投げ出して僕の気を引こうとしている。
僕は目眩がした。
一体、何なんだ君は。
「けれど、君から貰った手紙にはそんなことは書いていなかったけど?」
眩む思考をどうにか落ち着かせながら、僕は冷静になろうとしていた。
とはいえ、冷静になりたくても、これから切り出す手紙の内容すらも読んだ時には目眩を覚えたものだ。
僕はお金には今のところ苦労はしていない。
それでも、収入が増えれば今の生活がぐっと楽に、そして豊かなものになるには違いない。
今以上に収入を得るには、更なる労働が必要だ。
君と恋人になる。
たったそれだけの働きで、僕は収入が得られる。
要約するのなら、そんな内容の手紙だった。