Stockholm syndrome 28
幼少の頃から、季節が移り寒さが厳しくなってくると風邪を引くことが多かった。
身体が弱いわけでもなく症状が毎回重いわけでもないので、風邪を引くくらい誰にだってあるものだと思えばなんてことはない。
けれども、実家を出るまではそのことで母に心配をかけてしまうことが僕にとっては風邪よりも、そして何よりも耐え難いことであった。
本当は風邪自体は大して辛くはなかったのだが、子供の頃の僕はいつも毛布に縋り付くようにして顔を隠し寝込んでいた。
僕の様子を心配して時々部屋に訪れてくる母が苦手で、逃げたくて。
それがずっと、癖のようなものになってしまっていた。
朝起きて、僕はベッドの中で妙な寒気がした。
季節は、近頃毎朝飲むのがすっかり日課となったカフェオレがほっと身体に染み渡るような、そんな季節へとすっかり移り変わっていた。
もしかしたら、と思い僕はベッドから立ち上がり体温計を取りに行こうとしたのだが、それはすぐに止めた。
確かめるまでもなく、身体を動かすのがどうにも気怠い。
全身の気怠さと寒気と、あとは喉の渇きとほんの少しの頭痛くらいか。
ベッドに横たわったまま片手で額に手を当ててみたが、熱が一体どれほど出ているのかは自分ではどうにも判別しづらい。
本当は熱を測ってみてあまり高くなければ仕事に行きたいところなのだが、前に一度微熱で出勤したら店長に叱られて家に帰されてしまったことがある。
無理して仕事に出てもお店の人達に迷惑をかけてしまうし、休ませてもらう為に店長に連絡をしても、『家に一人で大丈夫か』とか『看病しに向かわなくても大丈夫か』とか、結局はあれこれ心配をされてしまうのだろう。
わざわざそこまで気にかけてくれるのは大袈裟ではあるが店長が優しい人だという証拠だ。
そんな優しい人達のいる場所で働けていて、つくづく自分は恵まれているんだなと思える。
だからこそ、店長に連絡をする時には細心の注意を払らなくては、と僕はコホンと息を整えてから枕元に置いていた携帯に手を伸ばした。
なるべく、なんてことないような声を作って、何度も『大したことはありません』と訴えるようにそう告げて。
自分のことを心配してくれるようないい人達だからこそ、かえって心配はかけたくないと思ってのことだった。
そのようにして店長に今日の仕事を休ませてもらうことを電話口で告げ終え、僕はそのまま携帯を見つめたままぼんやりと考え込んだ。
今日は、お店にメルシーは来るのだろうか。
もし来たら、僕がいないと不思議に思ってしまうだろうか。
店長やお店の人が僕が休んでいる事を伝えたら、彼女は一体どうするのだろうか。
あれこれ考えている内に、熱のせいか思考が朧気になっていくのを感じた。
どのくらいの時間ベッドの上から動けずにいたのだろうか、突如家の中にインターホンのチャイムの音が鳴り響き、僕はギクリとする。
どうやら誰かが僕の家に訪ねてきたみたいだが、考えるまでもなくもう誰が来たのかは分かっていた。
本当は、インターホンが鳴る前からその誰かが訪れてくることも予感できていたのだが、それにも構わず僕は毛布を頭のてっぺんまで被って動けずにいた。
ことを遡ること1時間ほど前、丁度店長に連絡の電話をし終えた後のこと。
携帯を眺めながらぼんやりとメルシーのことを考えていた僕は、何を思ったのか彼女に"今何をしているのか"とメールを送ってしまっていた。
まだ朝の時間帯だし、彼女もすぐには連絡してはこないだろうと油断しているとすぐに僕の携帯は鳴り、おまけにその着信はメールではなく通話のものだった。
「…わざわざ電話してくれなくたってよかったのに」
仕方なく電話に出てそうぼやくも、彼女は今日の仕事はどうしたのかと早速僕に鋭い指摘をいれてくる。
観念するようにおずおずとメルシーに事情を伝えると、彼女はなにやら僕の家に看病しに来る気満々の様子で僕に体調の事や食べたい物などを次々と尋ねてきた。
僕はほんの少し返答に迷ったが、そんなつもりで連絡したわけではないからと、彼女にやんわり断るようにして伝えた。ところが、
「貴女がどんなつもりかは知らないけれど、私はすぐにでも家を出るつもりだから恥ずかしくないように少しは身なりを整えておくのよ?」
とメルシーは僕に言い残し通話をプツリと切ってしまい、そして現在に至るという次第であった。
実のところ、自分でもどういうつもりでメルシーに連絡をしてしまったのかよく分からないままでいた。
けれども、大人しく彼女の指示に従い身なりを整えて待っているのも癪だと思った僕は、わざと何も考えないようにしてそのまま寝入っていた。
とはいえ、もう家まで来てしまっている彼女を迎え入れないわけにもいかず、仕方なく僕は渋々と起き上がり玄関へと足を向かわせた。
「やっぱり、本当に来たんだ…」
玄関を開けると案の定佇んでいたメルシーに、僕はたまらずため息が出た。
メルシーは僕のことを心配してわざわざ来てくれたのだというのに、どうして僕はこんな迷惑そうな態度を取ってしまうのだろう。
そんな苛つきから、ただでさえボサボサ気味な前髪を思わずくしゃりと搔き上げた。
一方目の前のメルシーは、困っているような、笑っているような、そんな微妙な顔で僕の方を見て機嫌を伺っている。
今日の彼女はピンク色のカーディガンとふわりとしたシルエットのスカートが優しげな印象で、それに比べてパジャマ姿のままの自分はあまりにも不恰好で情けなくって、今になってせめて着替えくらいはしておけばよかった、と小さく後悔した。
ふとメルシーの手元に目をやると、お見舞いの品なのか買い物袋を片手にぶら下げていた。
「全く、なんか色々買ってきてくれてるみたいだけど…ちょっと熱があるだけで大したことなんてないのに…」
僕は彼女を家の中に上がらせながらも、つい悪態をついてしまう。
「とは言っても、私は料理はろくに出来ないから持ってきたのはほとんど完成品よ?あっけど私にもホットワインくらいなら作れると思うの、多分!」
あからさまに機嫌悪く振る舞う僕に対し、メルシーは分かりやすいほどに空回りな明るい笑顔で買い物袋を僕の目の前に掲げた。
「ありがとう…けど、買ってきてくれただけで充分だから君は座ってて」
本当は彼女に合わせて笑ってやりたいのだが、ため息まじりのような、そんな疲れたような笑いで彼女を迷惑がるような言い方しか今の僕には出来なかった。
「…それはどうもありがとう。けれども私だってその気遣いだけで結構だから、代わりに貴女が座っていてくれていいわよ」
先ほどの笑顔から明るさは消え失せ少しだけ冷たさを感じるような声で僕に微笑むと、メルシーは僕の言うことを無視するようにスタスタとキッチンへと歩き出した。
なんとなく、彼女の機嫌も悪くなってしまったような気がする。
自分がこんな態度でいるから当然なのかもしれないが、それでもメルシーは僕のために何か作ってくれようとしているのだと思うと申し訳なくって、とりあえず僕はおずおずと彼女の後ろへと続いた。
メルシーがキッチンの作業台にトサリと買い物袋を置いたところで僕は、
「あの…やっぱり君にちゃんと作れるのかなんだか不安だし、火傷とかしたらと思うと心配だから手伝うよ」
と、彼女の服の袖をそっと引いて笑いかけてみた。
ところが、メルシーはそんな僕が迷惑だと言うかのように僕の手を払い除けると、キッと僕の方を叱るように睨んできた。
言葉は何もなかったが、病人は病人らしく大人しくしていろということなのだろう。
「…ごめん」
どうして自分はこうも、誰かからの優しさを無駄にして嫌な思いをさせてしまうのだろう。
風邪の症状よりも自分の偏屈な性格に嫌気が差して、僕はふらつきながら気まずい空気から逃げるようにしてキッチンを離れた。
根っからのお嬢様で料理が出来ないと言っていたメルシーをキッチンに一人取り残してしまう事にはやはり少し不安もあった。
けれども結局は、風邪自体は大して辛くはないはずなのに寝込んでしまいたいという気持ちが勝ってしまっていた。
だからと言ってベッドに寝直すのは大袈裟だろうか、と思った僕はベッドから毛布を引きずり下ろしてきてとりあえずリビングのソファをベッド代わりにして寝転んだ。
しかしこれではメルシーが食事や飲み物を運んできてくれた時に勝手が悪そうだと思い、ソファの正面にあるローテーブルの下に毛布を潜り込ませ、そのまま自分もテーブルに潜るようにしてカーペットの床に寝転んだ。
ずっと寝たきりでは身体の具合が悪いのではないかとメルシーを心配させてしまうかもしれないので、彼女がリビングにやって来た時にはソファを背もたれにして座っておこう。
そう打算的な考えをしながら顔を隠すように毛布を被って寝込むと安心できてしまい、ますますこんな自分が情けなくなる。
キッチンの方からは、小鍋がカシャリと作業台に置かれる音やガスコンロの火がつく音、それに食器棚の開く音など、メルシーが忙しく作業を行っている音がパタパタと聞こえてくる。
ここは自分の家なのに自分以外の人がキッチンで料理を作っているなんて、なんだか慣れない不思議な感覚だ。
しばらくするとキッチンからの音もだんだんと静まってきて、そろそろ出来上がるのだろうかともぞりと身体を起こし座り直したところで丁度メルシーが僕に声をかけてきた。
「お待たせ。ほら、私にだってこのくらいの料理なら無事に出来るのよ?」
赤色と青色のカフェオレボウルの中に入ったホットワインを両手にそれぞれ持ち、メルシーは僕の隣まで来るとゆっくりとその場に腰を下ろした。
メルシーはニコリと笑い、青色のカフェオレボウルを僕の方に差し出してきたので、僕はぎこちなくそれを受け取った。
「…で、こっちは私の分ね」
ちらりと僕の顔を伺ってから、味見をするように赤色のカフェオレボウルに入ったホットワインを一口すするメルシー。
「うん、私にしては上出来!ミッシェルも早く飲んで?」
小首を傾げられ自分も飲むように促されたが、僕の内心はそれどころではなかった。
どうして、よりによってこのカフェオレボウルを使われてしまったのだろう。
この赤色と青色のカフェオレボウルは色違いのお揃いで、いつかメルシーにカフェオレを振舞ってやる時のために買っていたものだった。
赤色をメルシーに、青色を自分用にこしらえていたのだが、丁寧に青色の方を僕に差し出し赤色の方を彼女自身が手にしたということは、僕がどういうつもりで用意していたものなのかお見通しということなのだろうか。
「…ありがとう。あ、あのさ…これは、その…」
彼女に聞いて確かめようにも、どう尋ねればいいのか分からずに僕は分かりやすく自分の手の中のカフェオレボウルとメルシーの顔を交互に見ながら困惑してしまった。
「え?あ…これってこのカフェオレボウルのこと?…うん、ミッシェルにしては、可愛い色を選んだと思うわよ?」
僕がこんな有様だったので、メルシーもなんだかぎこちない返答で僕に笑いかけてくれた。
そういえば自分の食器棚には味気のないありふれた白い食器ばかりが並んでいたので、そんな中紛れ込んでいたこのお揃いのカフェオレボウルはさぞかし目立っていたことだろう。
目について何となく手にしたメルシーに、どうして色違いで同じものを二つ用意していたのか、その理由を薄々と気付かれてしまっても仕方がないのかもしれない。
「…どうして青い方が僕ので、赤い方が君のって分かったの…?」
おそらく僕の予想は当たっているはずだ、と思いつい呟いてしまうと、
「…分かるわよそんなの、なんとなく」
と、呟き返されるように言われてしまい、いよいよ僕は恥ずかしさのあまり何も言い返せなくなってしまった。
今日は散々メルシーを迷惑がってしまうような態度を取ってばかりいたというのに、僕は言う事やする事がちぐはぐすぎる。
きっと、これからメルシーにその事をまた鋭く指摘されてしまうのだろう、と諦めるように彼女の顔をチラリと窺ったのだが、僕はその瞬間思わず固まってしまった。
「…メ、メルシー?どうしてちょっと涙ぐんでいるの…?」
どうしたわけか、メルシーは瞳を潤ませながらじっと自分の手元を見つめ黙り込んでいたので、僕は慌てて彼女の顔を覗き込んだ。
「…だって、貴女が私のためにわざわざ用意してくれてたのだと思ったらなんだか嬉しくて…。私、いつも貴女の家に勝手に押し掛けてばかりいたけれど…これは確かに私が来た時のために用意してくれていた物なんでしょう…?」
顔を俯かせ泣いているところを隠すようにするメルシー。
嬉しい、と言ってくれたので決して怒らせてしまったわけではないのだろうけれども、まさかあのメルシーを泣かせるような羽目になってしまうとは。
こういう泣かれ方をされた時には、どうしてやるのが良いのだろう?
気恥ずかしさや混乱やらでおどおどとしている間に、メルシーは俯いたまま手に持っていたカフェオレボウルをコトリと正面のローテーブルの上に置き、そのまま僕の手の中のカフェオレボウルもするりと抜き取ってテーブルの上に同じように置いてしまった。
「メルシー…?」
一体どうしたのだろうと思い声を掛けると、彼女は突然がばりと僕に思い切りよく抱きついてきた。
「…もう私、今日は何をしに来たのか分からなくなっちゃったわ」
思い切りは良かったくせに僕にしがみつきながら吐露する彼女の声は観念したかのようにか細い声で、いつもは余裕綽々で気丈な振る舞いでいる彼女でも、こうした姿を見せることがあるのかと思い意外だった。
メルシーは僕に抱きつくために飲み物を避難させたのか、と理解するのに少々時間は掛かってしまったが、結局僕はいつも彼女の言う事やする事に助けられてしまう。
メルシーが僕の事を勢いよく抱き締めてくれたお陰で、僕も自然な気持ちで彼女の背に手をそっと回し抱き締め返すことが出来た。
「…今日は来てくれて、ありがとう」
メルシーと、それから自分自身に言い聞かせるようなつもりで僕はそう呟く。
今日は来てくれてありがとう。
心配してくれて、ありがとう。
ずっとそう、本当は誰かに言いたくて仕方がなかったかのような気がしてくる。
そしてそれが今日、ようやく言えたような気がする。
メルシーにつられて、自分もなんだかじわりと目元が滲み、出てきた声も涙交じりのものになってしまったのがほんの少しだけ恥ずかしい。
それでも、抱擁を少し緩めてお互い見つめ合えば、どちらからともつかずに愛おしい笑いが溢れた。




