Stockholm syndrome 1
その日、僕はとても困っていた。
僕の勤める小さな花屋によく来る常連さん。栗色のふわふわとした長い巻き毛が可愛らしい、僕と同じ20代前半くらいの若い女性のお客さん。
そのお客さんからなんと、これまでお店に通っていたのは実は僕に会うためだったのだと突然の愛の告白を受けてしまったのだ。
お店を終う前の夕刻7時、その時店にいたのは僕と、お客さんのその女性と、お店で飼われているマンチカンの子猫、シェリーとの、二人と一匹だけ。
「みゃあ」
たくさんの花々に囲まれしんとした気まずい空気の流れる中、シェリーがなんとも呑気な可愛い声で鳴く。
僕が何と言っていいか分からず相変わらず黙り込んでいると、女性の方は今にも泣き出しそうな不安げな表情を浮かべだした。
このままではまずい。
何か、言葉を発さなくては。
そうは思ったのだが、それよりも、何よりも。
僕はまず確認をしなくてはならなかった。
"君は本当に僕が好きなのか?"と。
栗色の巻き髮の彼女に比べると、僕はブロンドの少々癖のある短い髪。
可愛らしいなんて形容詞とはかけ離れた長身で、シャツとパンツの組み合わせしか似合わないようなルックスで。
昔から変わらずこんな見た目をしていたので、女学校時代には王子様だなんてあだ名をつけられていた。
一人称まで、優しくハンサムな父に影響されて「僕」を使ってきてしまったため勘違いされることが多いのだが、僕の性別は分類するのなら告白してきた女性と同じれっきとした女性。
女性から声をかけられた時には、僕はまず勘違いした上であるのか否かから確認しなくてはならなかった。
「あの」
僕は一呼吸おいてから、彼女に例の確認事項を執り行う。
同日、8時半。
僕はヘトヘトになって自宅へと帰り着く。
全6室の小さな2階建てのアパートの、2階の一番端の一室が僕の自宅だ。
女学校を卒業後、僕は実家の優しい父と子供思いの母、それから生まれて間もなかった弟のエドガーの元から離れて、一人で生きていくことを決めた。
そのため、多少の重労働はやむを得ない。それにしても、今日は精神的にとても参ってしまったのだった。
「この店の名前は知っている?」
「プティボヌール。常連ですよ、私。知っています」
「君の名前は?」
「クリス・ローレンス」
「そう、可愛い名前だね、クリス。ではクリス、僕の名前は?」
「ミッシェル…ミッシェル・オーリックさんですよね?」
「なるほど、僕の名前も知っているんだね」
「当然です」
栗色の巻き毛の彼女、クリスは少しムッとして答えた。
はたから聞いたら一問一答の可笑しな会話としか思えないなんとも奇妙なやりとり。
それも当然、今の両者はボタンをかけ違うかの如く互いの思惑が噛み合わない。
告白の返事ももらえずに、僕が何を言いたいのかよく分からないまま質問に答えるクリス。
クリスがどういうつもりで僕を好きなのか、真偽を確かめる為の質問を繰り返す、僕。
「では、クリス。君がこれまで好きになった人からでもいいし、なんとなくでだっていい。君の好みのタイプというものを僕に教えてくれないかな?」
直球で、僕は女だけど間違ってはいないかい?と聞けばいいだけのことなのに、妙な気を使って遠回しに彼女に質問をしてしまう僕。
願わくば、途中で何かおかしいと思った彼女が気付いてくれますようにと。
結局、僕が帰り着いた時間がこんな時間だったことから後察しのように、僕の願いが彼女に届くこととなったのは最後の最後だった。
最終的に、彼女ははじめ僕のことを案の定男性だと勘違いしていたようだが、男性だろうと女性だろうと例え人間のふりをして地球を侵略しにきた宇宙人だろうと、僕のことを好きになったことには変わりはないのだと、熱烈なアピールをしてくれた。
宇宙人でも構わないだなんて、勇気のある子だなぁと感心しながら、少し変わった可愛らしいクリスに、僕はどうしたものかとまた沈黙を続けてしまうのだった。
思えば、僕は昔から妙に人を傷つけまいと慎重になりがちだ。
その傾向はよく母に指摘はされていた。
「貴女は本当に、姿形と優しすぎるところが父にそっくりだ」と。
母がいつか話してくれた話によると、父は優しい性格が災いしてか婚約してからも尚女性に言い寄られることが多かったらしい。
その上、人を傷付けてしまうのを避けたくてこっぴどく振ることも出来ずに、結果困ってしまうことが多かったのだと。
本当に、僕は父とそっくりなのだな、と呆れて笑いたくなる。
けど、父と違って僕は独り身だ。
妻のあった父とは違って、僕にはお付き合いを断る正当な理由もなく、加えて宇宙人といった発想が突然出てくる彼女がとてもいじらしく思えてしまって。
必死で訴える彼女に押されて次の休みの日に、まんまとデートの約束を取られてしまったのであった。