Stockholm syndrome 22
随分長く独り言のようなものを呟いてしまっているだろうと、僕はそう思いながら言葉を続けていた。
何がどう、隣にいるメルシーに伝わっているのかなんて分からない。
それどころか、自分が今こんな過去を語りながら、一体何を思っているのかすら分からなかった。
昔から、自分の感情が分からなくなることは多々あった。
僕は結局昔から今まで変わらず、こんな人間なのだな、と痛感してしまう。
「僕がレノラに付いていってしまったせいで、父と母の仲は微妙になっていき口喧嘩も多くなっていった。喧嘩とはいっても、決まって何か文句を言うのは母の方で、僕は、優しい父はただ大人しく母の言い分を聞くばかりで可哀想だと思って、自然と父の肩ばかり持っていた」
淡々と語りながら僕は、両親のことを素敵な人達だと僕に何度も語ってくれたメルシーとはなんて差なのだろう、と思った。
もちろん、メルシーは多少無理をして両親のことをいつも自慢気に語っていたのだろうという事は感じていたけれど、それでも、こんな僕よりかは。
「…こんなこともあった。確か、母が友人と会ってくるといって、夕飯前にふらりと出掛けてしまって。結局夜遅くに帰ってきた母に、僕は、"これからは僕が夕飯を父さんに作るから何も心配はしなくていいよ"って言ったんだ」
父さんが遅くまで帰ってこないから心配していたよ、とか、急に出て行ったりしないでよ、とか。
他にいくらでも言い方はあっただろうに、当時の僕はわざわざこんな言い回しをするような捻くれた子どもになっていた。
僕は、言葉を続けた。
「そしたら母は、"その優しいところ、本当にお父さんにそっくり"って、僕に言った」
今でも忘れられない。幼い頃は、確か母にそう言われると嬉しかったはずなのに。
その時の僕は、妙な息苦しさを感じてしまいこんな思いになるなんて、とますます母のことが苦手になってしまったのだ。
「…僕のこの性格は、きっと父譲りなんだ。だから、父がレノラに優しかったように僕もまた、レノラに優しくした…のだと思う」
僕が最後を濁らすような形で言ってしまうと、急にメルシーがすっと息を吸った。
「…えっと、こんなところで、そろそろ口を挟んでも大丈夫かしら…?」
長い間ずっと黙って僕の独り言を聞いていてくれたメルシーが、腫れ物にさわるような慎重な様子で口を開く。
あのメルシーにこんな風に気を遣わせてしまうなんて、と僕はつくづくこんな自分が嫌になった。
「…私、心理学とか、そういったものにはあまり詳しくはないのだけれど、誘拐された人が誘拐犯に対して情が湧き協力的になってしまう、そういった症状…のようなものを聞いたことがある気がするのだけども…」
彼女は僕に何を言いたいのか、僕はすぐに理解できた。けれども、
「違うよ。確かに、そういった症状に陥ってしまう人もいるようだけど、僕のは違うよ、メルシー」
僕は、メルシーの言葉を遮り否定した。
あれは、中学生の時だっただろうか。
僕は、メルシーが言おうとしていたある症状の名前をある時知ってしまった。
正しくは、自分が昔レノラに対して抱いた感情の正体をずっと知りたかったから、僕は自ら調べた。
実の母親を憎みまでして貫くような感情は、やはりどこかおかしいのではないかと僕は不安に思い、そして疑っていたからだ。
だが、僕はその症状の名前を知った時、やはり今のように"違う"と、その名前が自分がレノラに対して抱いた感情の正体なのだとは、認めなかった。
誘拐犯を好きになって何が悪い。
あれはきっと、僕にとって初恋だったのだ。
そもそも、僕にとってはレノラは決して誘拐犯なんかではなかった。
レノラに対する感情を、症候群のようなものだと、認めることなどできるはずがない。
だが、それを認めないのなら、母に対して抱いた感情は一体何になるというのか。
分からなくなる。
こんな自分は、一体何なのか。
メルシーの言うことを否定したからといって、別の答えを自分が知っているわけでも決してなかった。
「えっとね、ここまで聞いていて、貴女が女学校卒業後に家を出たのも分かった気がしたわ。…ずっと、家に居づらかったのよね?」
メルシーはまたも僕に気を遣ってくれ、わざと別の話題を振ってくれた。
もう僕は、メルシーにどう思われようと構わないと思っていたから、何でも言ってしまえた。
全て語ったら、もう彼女には帰ってもらおうとまで僕は考えていた。
「…いや、もうその頃には僕の家はこんなものだからって思っていたし、部屋に篭って優等生ぶって勉強でもしていれば、居づらいと感じることはなかったよ」
「あら…そうだったの?」
メルシーはほんの少しだけほっとしたような表情を見せてくれた。
「…けど、そんな時にエドガーが生まれて」
僕がそう言葉を続けると、メルシーはすぐに怪訝そうな顔つきになった。
「僕は、生まれて間もないエドガーに幸せそうに笑いかける父と母を見て、その時になって今更、二人が再び気を許しあえていたのだということに気が付いた。けど、それに気が付くまで、僕は…」
僕は、天使のように愛らしい弟の顔を思い浮かべた。
きっと僕は今、また眉間に皺がよったひどい顔をしてしまっているはずだ。
「僕は、実の弟を、血の半分繋がらない弟だとずっと思い込んでいて…」
言葉に詰まってしまい、続きが出てこなくなってしまった。
その時に、メルシーがすっと僕の頬に片手を添えた。
突然どうしたのだろうと僕が思うと、
「もういいから、早く自分の涙を拭ってやって頂戴」
と、メルシーは僕に向かって呟いた。
僕は、メルシーに言われて慌てて自分の頬を触って確認してみた。
誤魔化しきれないほどに、情けなく僕は泣いてしまっていたけれど、僕は何故かまた否定を重ねてしまう。
「違うよ、これは…」
これは、父や母、そして弟のエドガーに申し訳なくって流れてしまった涙なのか、それとも、レノラへの思いを認めてほしくって流れてしまった涙なのか。
訳が分からなくなってしまって、僕は思わず手で顔を覆ってしまった。
「…また否定?貴女って、私が何か言う度に分からないって言うか違うって否定するかばっかりじゃない」
メルシーから最もな指摘を受けてしまい、僕は顔を覆ったまま情けなく、ごめん、と呟いた。
メルシーが、溜息をついて僕の髪をそっと撫でた。
「謝罪も別にいらないわ。あのね、分からないだとか、違うだとか、そんな事言われたって私はそんなことしか言わない貴女の方がよく分からないわ。ただ一言、そんな自分が辛いんだって、吐き出して泣いてしまえばそれでいいじゃない、多分」
僕は今、なにやら自分では思いつきもしなかった衝撃的なことを言われてしまったような気がした。
けれどもすぐ、もしかしたらそれは、至って普通のことなのかもしれない、という気もした。
自分は今、いや、これまでずっと、辛かっただけなのか。
メルシーに、ただそう伝えればよかっただけなのか。
「…多分っていうのは、それでいいのか、私だってよく分からないから。私ってやっぱり貴女に似ているんだわ。こういう時どうすればいいのか、何にも分からないんだもの」
メルシーはそう言って呆れるように笑ってみせたが、声は少し震えていた。
無理して気丈に振舞ってくれているのだと、僕は思った。
メルシーは僕のためにわざわざ気丈に振舞いこんなことを言ってくれているのかと思うと、僕は涙が余計溢れてしまい止まらなかった。
僕は、自分が何故こんなにも泣いてしまうのか、やはりよく分からない。
けれども、自分の手だけでは拭いきれなかった分の涙をメルシーが拭ってくれた時、不思議と、辛いのだとは感じなかった。




