Stockholm syndrome 20
呼び名の分からなかった自分の感情の名称を知ることが出来るのは、いいことなのだろうか。
不安でしかなかった自分の居場所が見つかったかのような安堵感。
そして自分の不安が間違いではなかったのだという確信。
けれども、決していいことばかりではないのだろうと、僕は思う。
例えば、自分がこれまでこれは恋なのだと思い込んでいた感情に、もし別の名称があったのだとしたら。
不安でしかなかった自分の居場所なんてますますなくなってしまうし、自分の中のどの感情を信じればいいのかなんて、もう分からなくなる。
しばらく、沈黙が続いていた。
メルシーが僕に持って来てくれた薔薇の香りだけが、部屋には優しく香っていた。
その優しい香りに、なんだか僕はひどくメルシーに対して申し訳ないと感じてしまう。
「もう私、今日は帰った方がいい?貴女のこと、怒らせてしまったみたいだし」
沈黙を消し去ってくれたのは、メルシーの方からだった。
「怒ってなんか、いないよ」
僕はなるべく、優しい言い方をしようと気をつけながら彼女に答える。
「けど私、なんだか貴女に失礼な事を言ってしまったみたいだし、昔」
「…失礼な事なんかじゃないよ」
折角僕に綺麗な薔薇の花を持ってきてくれたメルシー。そんな彼女のことを、責めるようなことはとても出来なかった。
「貴女って確か、人にはその人の事情があるのだというのに、それを知らずにとやかく言う事はあまり好きではないって言っていたわよね?私が貴女にしてしまった事って、つまりそういうことなのでしょう?」
メルシーは、僕が前に言ったそんなことまで記憶してくれているのか。
あぁ、けれどもまた僕は、すぐに沈黙を作り出してしまう。
返し方が分からずに黙ってしまっていると、
「…もう私とは話したくもないの?」
と、メルシーは小首を傾げて僕に確認してきた。
僕の沈黙を、そのように捉えられてしまうのは明らかに誤解だ。
僕は誤解を解きたいが為に思わず口に出す。
「違うよ、ただ…誰にも話したくなんかないだけなんだ。言ったって、どうせ分かってもらえない」
「…そう。話しても貰えないのなら、本当に一生分かりっこないわね」
彼女の言うことは全くもってその通りなのだが、それ故、僕はつまらない意地でつい彼女に言い返してしまう。
「…君だって、君の両親のことを僕に教えてくれる時、紙に書いて回りくどく教えてくれたくせに」
「それじゃあ貴女も手紙でも書く?もちろん私なんかにではなくって、ちゃんと貴女のご両親に」
誤魔化すように意地を張る僕なんかとは違って鋭い指摘をしてくるメルシーに、僕の心臓は跳ね上がった。
「そんなの無理だよ…!それに、父とは連絡は取っているけれど、母とは家を出てから一度も連絡を取っていないんだ。家にいた時から、ろくに会話だってしていなかった位だし」
「一緒に住んでいれば、多少親子の会話くらいあったでしょう?」
僕は首を横に振った。
「本当に話さなかったんだ。僕が母を一方的に嫌っていたから」
僕は、先程から思ったよりもスラスラと言葉を発せていることに、自分で自分に少し驚いていた。
そして、僕が突然母を嫌っていただなんて言い出すから、メルシーもきっと驚いているはずだと思った。
僕はまたすぐに言葉を続ける。
「けど、僕の母は、子供思いのとても思いやり深い人で、決して悪い人なんかではなかった。それに、エドガーだって本当にいい子だと僕は思っている」
それなら、とメルシーは一息入れてから僕に尋ねてきた。
「どうして、嫌うのよ?」
「…分からない」
そんな事を聞かれたって、僕はそう答えるしかない。
「どうして、分からないのよ?」
「分からないから、分からないんだよ」
その質問にも、こう答えるしかなかった。
メルシーは、埒が明かないといった顔で呆れている。
どうすれば、メルシーが以前僕にしてくれた時のように、両親とのことを打ち明けられる?
直接なんかではなくとも、間接的にでも、この際吐き出してしまうことが出来るのならば。
けれども、僕と両親のことなんて、メルシーのようにインターネットで調べたって出てくるはずもない。
そもそも、ニュースの記事として書かれてしまうような、重大な事件では決してなかったはずだ。
全ては僕の考え、行動が問題なのだ。
自分の口で語らなくてはどうにもならない。
だが、一体どこからどう話せばいいというのか。
「…僕の父は、とても優しい人だった」
ぽつりと、独り言のように僕は呟く。
いきなり、父のことから語ったりなどして大丈夫だろうか、と僕はメルシーの顔をちらりと窺ったが、メルシーはただ黙っていた。
何度も僕が作り出した沈黙を消し去ってくれたメルシーだったが、どうやら今度は、沈黙の中、ただ僕の言葉を待ってくれているようだった。
ぽつり、ぽつりと、沈黙をもう作り出してしまわないようにと、僕は独り言のようなものを続けるのだった。
僕の父は、とても優しい人だった。
困っている友人、道往く人、時には、新聞で見かけた捜索願の記事にまで。
若い時からとにかく人の不幸が見逃せなかった父は、誰からも頼られていて、そして誰からも慕われていた。
中には明らかに父の裕福な生まれを頼って寄ってくる女性もいたけれど、それでも父は、誰一人拒まず優しく接していた。
そんな父の身を案じた父の家族が父にお見合いを勧め、そうして父と母は結ばれたのだと僕は聞いていたけれど、結婚してからも、多分父はそういう人だったのだろうと僕は思う。
ある時、僕が10歳の誕生日を迎える四日前の日のことだった。
雪の降るクリスマスイブの夜、父と母と僕の三人でレストランで夕食をとった帰り、イルミネーションでチカチカと賑わう大通りの途中で、父が突然歩みを止めた。
賑やかな大通りから横に入った明かりの控えめな閑静な小道の脇に、その女性は佇んでいた。
父が「レノラ?」と呼びかけ近寄ったその女性は、見るからに衣食住に恵まれていない貧しそうな人だった。
明らかに防寒の足りていない薄汚れた長いスカートとセーターに、痩せた身体。髪は綺麗な茶色をしていたが、伸び切っていてあまり手入れはされていないようだった。
父よりも数歳年下のようだったが、僕たち家族の存在に気が付いてこちらに向けてきた時の目には異様な鋭さがあり、僕は少し怖かった。
僕と母は、この人は一体何なのだろうと父の後ろで唖然としていた。
そのレノラという女性は、父に話しかけられてもむっつりとした表情で何にも答えなかった。
父は、すぐ帰るから先に帰っていてほしいと僕たちに声をかけてから、自分の着ていたコートを脱ぐとレノラにそっと羽織ってやった。
母は溜息をつき、そして僕の手を取り歩き出したので、僕は父とレノラの方をちらちらと気にしながら母の後に続いた。
僕と母が家に帰り着いてから数十分ほどで、父も家に帰ってきた。
ただ、家に入ってきた父に続いてレノラも無言のまま家に入り込んできたので、母は思わず何事なのかと声をあげた。
父は、彼女は僕の知り合いで、ほんの少しの間だけ家に置いてやってほしいと僕と母に申し訳なさそうに頼みこんできた。
母は、また溜息をついた。
僕は、レノラの顔をちらりと窺ってみたが、無表情で、何を考えているのか全く分からなかった。
それから、レノラはいつまでかは分からないがしばらく僕の家に居座ることとなった。
けど、レノラは父に無理やり連れて来られただけに過ぎないのだと不服そうな態度で、何を話しかけてもむっつりと黙っていたので、僕と母はどうすればいいのか分からずにいた。
父は、そんな僕と母を気遣ってか、レノラの住む家なり働ける場所なりを探しに行ってくるよ、と一日に何度かレノラを連れて家を出た。
家族と一緒に過ごすのが一般的なクリスマスイブとクリスマス。
その中に、レノラがいるというなんとも変わった二日間を過ごし、次の日の真昼の事だった。
父はまたレノラと共に出掛けており、僕は母と食料品の買い物中だった。
いつもの三人分よりも少しだけ多めの食料品が入った買い物袋を、僕は母と手分けして持っていた。母は買い忘れたものがあったことを思い出し、荷物を持ったままでは大変だろうからと僕に先に帰っているように家の鍵を手渡してくれた。
母に従い僕は先に家に帰り鍵を開けようと思ったのだが、ところが鍵はすでに空いていた。
家の中には、何故か父よりも先に帰っていたレノラがいた。
僕は、家を入ってすぐのところで、すっかり立ち尽くしてしまっていた。
レノラは、僕の家の中の戸棚やクローゼット、いたる場所を無遠慮に漁り散らかし荒らしていたのだった。
手には、どこから見つけたのかは分からないがお札も数枚握られていた。
僕に気が付いたレノラが、慌てるように手に持っていたお札を後ろに隠し、適当に笑って誤魔化そうとしたが、僕はとても笑い返せなかった。
レノラは、苦しそうに笑い続けながら僕に歩み寄り、僕の手を握ってきた。
優しい良い子だから、この事はお父さんお母さんには言わないで。
そう切なげに訴え僕の手を握ってきた彼女の手にはやっぱりお札があり、そして彼女の手は震えていた。
この人は、なんだか可哀想だと僕が呆然と突っ立っていると、レノラが、僕の手を強く引っ張った。
何処かへ、連れていかれるのだと僕はその瞬間思った。
けれども、そんな少ないお金で一体何処へ?
僕は、確かその時そんなことを考えていた。




