Stockholm syndrome 19
僕は、エドガーが生まれてすぐ家を出て就職した。
本当は進学を考えていて、父と母を安心させるためにも勉学に励んでいたのだが、エドガーを抱き幸せそうに笑う母と父を見て、僕は逃げるようにして急遽別の道を選んだ。
周囲には驚かれ父と母にも反対されたが、僕はもう決めきってしまっていた。
なんだかんだで、今の生活は楽だ。花屋に勤める人達はおせっかいな店長を除けば静かで付き合いやすい人達ばかりだし、同年代の人と会う機会も減ったので昔ほど優しい王子様扱いを受け騒がれることもなくなった。
約一ヶ月前、メルシーが突然僕の家に押し掛けて来た時は色々と大変ではあったが、人間関係で煩わしい思いをすることはほとんど無い。
ただ、エドガーが僕に会いに来る時だけは、僕が昔家族の元から逃げ出したこと、エドガーがこんな自分をどうやら慕ってくれているらしいこと、そして自分にはそんな資格など全くないこと、全ての感情が僕の中で渦巻き、煩わしかった。
メルシーは、僕が何故エドガーの写真を見たときに眉間に皺をよせひどい顔をしていたのか、僕の返答を待っているようだった。
ところが僕はというと、すっかり言葉を発することを忘れてしまっていた。
そんな僕に痺れを切らしたのか、
「全く、あんな顔を見せといて"この子は天使だよ"だなんて言われてもね」
と、メルシーは溜息をつく。
メルシーがあの時顔を顰めていたのは、僕の言いようではなく僕の態度があまりにもおかしかったからなのか。
「それじゃあ僕は、エドガーと駅で会った時にも、そんなひどい顔をしていた…?」
ようやく、僕はメルシーに対して口を開けた。
だが、自分の声はこんなにも怯えているかのような、なんとも情けない声だっただろうか。
メルシーがどんな顔をしているか気になるくせに、そのメルシーの顔をうまく見ることが出来ない。
膝に置いた自分の手をただじっと見つめながら返事を待っていると、メルシーは僕の手にそっと手を重ねてきた。
「いいえ全く。いつも通りの、女学校時代から相変わらずの優しい王子様のようだったわよ?」
僕は、メルシーが僕に重ねてきた手が優しげなものだったので、素直によかった、と胸を撫で下ろした。
ところが、
「まぁ、私はそっちの王子様のような態度でいる貴女の方が問題があると思ったけれどね?」
と、彼女は容赦無く付け加えた。
僕は、メルシーが僕に何を言いたいのか全く分からなくなってしまった。
「…どういうこと?」
思わず顔をあげてメルシーに聞いてしまうと、
「貴女が素敵な王子様のような態度で人に優しくしているのは、人と真正面から向き合うのを避けたいが為なのでしょう?」
と、メルシーは僕の方を見ながらさらりと答える。
その言い回し、どこかで聞いたことがあると僕は思ったが、
「…それって、前に僕が君に言った言葉じゃないか」
すぐにそれはほかでもない、僕がカフェにて彼女に言い放ってしまった言葉だと思い出す。
「そう、だからあの時、私すっごく可笑しかったのよ?私は貴女なんかに言われなくたってとっくに自覚していたのに、貴女は自分のことを何にも分かっていないんだもの」
「…分かって、いるよ」
僕は負け惜しみのように、メルシーに言い返した。
「一体何を分かっているの?」
睨み気味にメルシーに言い返してしまったせいか、メルシーも少しだけ僕を睨むような顔つきになった。
「だから、君の言う通り、僕は…」
言葉を発しながら、僕は心の中で必死に自分に問いただしていた。
本当に僕は自分のこのどうしようもない性分を分かっていたのか?
分かっていながら、ずっとそんな自分をそのままにしていたのか?
気が付くと、僕はまたメルシーの顔をうまく見ることが出来なくなっていた。
「…いや、やっぱり違うよ。君の言う通りだという事にしてしまうと、君と僕は、多少やり方は違くとも似た者同士ということになってしまう」
俯きながら、僕は自分に言い聞かせるようにしてメルシーの言う事を否定した。
「今更何言ってるの?私と貴女は似た者同士じゃない」
「だって僕は、もうこれが自分の性格なのだと諦めきっていて…」
「私も、もうこの我儘で高飛車な性格はどうにもならないのでしょうね」
「そんな自分にずっと嫌気が差していたし…」
「そうそう、私もこれでもこんな自分のこと結構嫌っているのよ」
「…それに、僕は弟にすら気を許せていないんだ」
「それは私には弟がいないから比べようがないけれど、私だってパパやママに対してひどいこと言ったりしたことあるし、やっぱり私と貴女って似たようなものなんじゃない?」
僕が言うごとに、丁寧に口を挟んできて同調してくるメルシー。
否定したくとも、容易く肯定されるかのような形で返ってきてしまう。
どうすれば、彼女が何も言い返せなくなることに成功するのだろうか?
僕はいい加減、この勝ち目のないような口論に疲れ始めていた。
「…それでも君は、ちゃんと両親と一緒に暮らせているじゃないか」
辛うじての反論も、なんとも弱々しい声のものとなってしまう。
「一緒に暮らせていれば、それで問題は何も無いとでも思っているの?」
メルシーは、相変わらず堂々とした物言いだ。
「そんなこと、思ってはいないけど…。それでも僕には、それすら出来なかったから、逃げるようにして…とても、君みたいには…」
もはや、口論ですらなくなってきた。
これではただ、自分の情けない心情をメルシーに吐露してしまっているかのようなものではないか。
「…貴女って、女学校では成績優秀な優等生で、すっかり進学するものだと誰もが思っていたじゃない?私もそうなのだと、すっかり思っていたわ」
「…そういえば、その頃だよね。君が、"攫って頂戴"だなんてとんでもない一言を僕に言ってきたのは」
「羨ましかったからよ、貴女が」
確かに、メルシーは僕のことが羨ましかったのだろうな、と僕は当時思った。
お嬢様として生まれお嬢様として育ったメルシーは、なかなか簡単に家を飛び出してしまえるものではなかったのだろう。
にも関わらず、僕は嫌味ったらしく彼女の発言を跳ね除けてしまったのだ。
「いくら僕が羨ましかったからって、やっぱりとんでもない一言だよ…」
「私、我儘でとんでもないお嬢様だから、こういう言い方しか出来ないのよ」
「違うよ、君は、攫われた人間がどんな心境に陥ってしまうかなんて知らないからそんなことが言えたんだ」
言ってからすぐ、僕は失言だったと思って手で口を覆った。
まるで、僕なら知っていると自明しているかのようなものだった。
メルシーが、何にも言わなくなった。
僕は一体、何をしているのだろう。
今更彼女が何も言い返せなくなることに成功したって、自分が困るだけだというのに。




