Stockholm syndrome 17
僕がまだ、弟のエドガーよりも少し幼い位の子供だった時のこと。
確か、いつも仲良く遊んでいた友達とケンカしてしまった時のこと。
ある時、いつものように友達と遊ぼうと思っていた矢先、たまたま別の子から遊びに誘われてしまって。
いつも遊んでいたあの子のことが頭によぎりつつも、断る事の出来なかった僕は結局誘われるがままにその子についていった。
一人取り残された友達はしばらく僕と口もきいてくれなかった。
泣きじゃくりながら母にその事を話せば母から、
「貴女はきっとお父さんに似たのね」と笑われる。
あの人も、嫌な事を嫌だと言えない優しい人だから、と僕の頭を撫で慰めてくれた母。
今思えば、その時の母は呆れ顔だったのかもしれない。それでも、その時の僕はいつでも優しい父のことが大好きだったから、自分は褒められたのだと思っていた。
母もそんな父のことを愛しているのだと疑いなく信じていたため、僕は母から父のようだと言われて嬉しかったのだ。
それからというもの、僕はこっそりと父のような優しい人間を目標とし、憧れた。
周りから優しい人だと思われるように心掛け、母から父のようだと言われる度に嬉しくなっていた。
時が経ち、母から父に似てきたと言われることが苦しくなっていっても尚、僕は結局今でも父のような優しい人間を目指してしまう。
だからもし、エドガーが僕に憧れ、僕のようになるのを目標とし会いにきてくれているのだとしたら、僕はどうすればいいのだろう。
「お願いだから、僕の弟の顔を見た後は大人しく帰ってくれないかな…?」
午前10時、エドガーが来る約束の15分前、僕は隣のメルシーに念を押した。
昨日の宣言通り僕の弟、エドガーを見るつもりでいたメルシーと、僕は駅でエドガーを待っていた。
「もちろん、姉と弟との間に水を差すような真似はしないわよ」
それならほんの少しの時間のためだけにわざわざ来なくてもいいのに、と僕は言ってしまおうかと思ったが、彼女を無理に追い払うことが出来る筈もない僕はこれ以上は何も言えなくなる。
「それにしても偉いわね。貴女の弟くん、貴女に会うために一人で列車に乗ってくるのね?」
「これまでは、父が駅まで付き添っていたんだけれどね。エドガーも7歳になったから、自分一人で行きたいって駄々をこねたんだって」
「…ふぅん、本当にいい子ね。今日は一緒にどこかへお出かけ?」
メルシーはどうしてこんなに僕とエドガーのことを聞いてくるのだろうか。
本当に大人しく帰ってくれるのか心配になってきたが、
「少しだけ一緒に街を歩いたりしたら、後は僕の家かな。僕の家に一日泊まって、明日の朝には帰す予定だから」
と僕が素直に今後の予定を話せば、
「それじゃあ今日は一日ずっと弟くんと一緒なのね。お姉ちゃん、頑張って」
と、にっこりと微笑まれ激励されてしまった。
その言い様からして明らかにふざけているな、とは思ったが、"お姉ちゃん"という呼ばれ方はどうにも僕には似つかわしくないような気がしてなんとも複雑な気持ちになってしまう。
どう返していいかも分からず遠くに目を移すと、くるんとした可愛い癖っ毛のブロンズ髪の男の子がこちらに走ってくるのが見えた。
「お姉ちゃんだ!お姉ちゃん!」
男の子はこちらが出迎えにいく間もなく、あっという間に僕の元まで駆け寄ってきて勢いよく僕に抱きついてきた。
「エドガー、よく来たね」
後ろへよろめきそうになるのをどうにか耐えて、僕は数ヶ月ぶりに会う弟の頭を撫でる。
背中には大きなリュックを背負い、僕に抱きついたまま嬉しそうに笑うエドガー。
ぱっと僕から離れたかと思うとエドガーは、
「今日はね、ボク一人で来たんだよ」
と、その場で大げさにくるりと回ってみせる。
自分一人で来たのだということを見せびらかしたいのだろうか。
ニコニコしながらこちらを見上げてくるエドガーに釣られてこちらも笑ってしまう。
「偉いね、エドガーは」
「偉くもなんともないよ、これくらい当然だよ!でも、お姉ちゃんはどうして今日は一人じゃないの?」
自慢げになっている弟を微笑ましく見守っていたところで、僕は隣のメルシーの存在を思い出した。
「あ、えっと、この人は…」
どう説明しようかとメルシーに目配せしようとするが、メルシーは僕なんてそっちのけで屈んでエドガーに話しかけていた。
「こんにちは、エドガーくん。私、あなたのお姉さんの学生時代のお友達なの、よろしくね」
落ち着き払った態度でにこりとエドガーに微笑みかけるメルシー。
まるでおしとやかなお嬢様のようだ、と僕は思ったが、彼女は一応正真正銘のお嬢様であった。
それでもなんだか別の人間を見ているかのようでなんとも可笑しい、と僕は変な笑いが出てしまいそうになったが、なんとか堪えた。
僕がこんな失礼なことを考えているというのに、メルシーは尚もエドガーに優しく笑いかける。
「一人でお姉さんに会いにくるなんて、偉いのね」
すると、人見知りではなさそうな筈のエドガーが黙ってなにやらもじもじと恥ずかしそうにしている。
正真正銘のお嬢様としての大人な振る舞いを傍から見ていた僕は、メルシーに気付いてもらえるようにわざと大きく咳払いをした。
「メルシー、僕たちは移動するからそろそろ…」
「…あんまりちょっかいを出すとあなたのお姉さんが妬いちゃうから、私はお邪魔するわね。それじゃあね、エドガーくん」
エドガーの頬に軽くキスをするとメルシーはすっと立ち上がってようやく僕の方を見た。
「また今度ね、王子様」
ぐっと顔を近づけ、くすぐるような声で僕の耳元で囁くと、
「あ、今はお姉ちゃんだったわね」
とわざわざ訂正し僕の頬にもキスをして、メルシーは颯爽と去って行ってしまった。
エドガーの前での態度は所詮、よそ行きのようなものに過ぎないのだな、と全く僕は呆れてしまった。
けれども、メルシーにペースを乱されている姿をエドガーに見られてしまうことは免れたので、正直僕はホッとしていた。
「エドガー、僕たちも行こうか?エドガーの好きなシュークリームをお菓子屋さんで買ってあげるから、僕の家で一緒に食べよう」
僕は、少し屈んでエドガーの手を取った。
大好物の名を言われて、やった!とエドガーは嬉しそうにぴょんと飛び跳ねた。
そして、エドガーはメルシーの後ろ姿を眺めながら、
「凄いなぁ、お姉ちゃんはお友達も優しい女の人で…。ボク、緊張しちゃった」
と、ぽつりと呟く。
その言い方はメルシーを褒めているのか、それとも僕を褒めているのか。
おそらく、どちらもなのだろうな、と僕は思った。
メルシーが聞いたら、喜ぶだろうか。
「うん、そうだね。優しい子だと僕も思っているよ」
エドガーが言うのなら、本当にそうなのだと思えてしまうからなんとも不思議だ。
ただしそれはメルシーに限った話であって、僕はエドガーに何度"お姉ちゃん"と呼ばれようとも、自分がそうなのだとはとても思えないのだった。
こんな自分の、どこが優しいのだろうか。
エドガーに会うと、僕はいつも現実を叩きつけられてしまうような、そんな気持ちを感じてしまうのだった。




