Stockholm syndrome 16
仕事帰り、数ヶ月ぶりに父から携帯にメールが入っていた。
弟のエドガーが僕に会いたがっているから、都合のつく日を教えてくれないかということだった。
今度の休みは土日にとっているのだが、土曜はメルシーと前回行きそびれた映画を観にいくこととなっていたので、日曜にしよう、と僕は思った。
結局僕は、次の休みもメルシーと会う約束をしていた。
この間のメルシーとのデートの帰りに、メルシーと僕は互いの連絡先を教え合った。
とうとう僕の携帯に、勤め先の人達とお得意様のお客さん達と、それから父の他に一応恋人の連絡先も入ることとなったのだった。
家に帰り着くと、僕はとりあえずソファに倒れこみ一息ついた。
携帯を手に取り、なんとなく父からのメールを再度眺める。
エドガーが、僕に会いたがっているのか。
僕は、エドガーが生まれてすぐの女学校卒業後に、実家を出た。
なので、正直エドガーは僕のことをあまりよく知らないだろう。
ところが二年位前から、半年に一回ほどエドガーが僕に会いに来るようになったのだ。
今回で確か四回目くらいだろうか。
エドガーは一人暮らしをしている僕のことをしっかりした姉だと尊敬してくれているらしく、会うといつもきらきらした笑顔で僕の話を聞きたがるのだった。
そんなエドガーに、最近僕がメルシーとなにやら変わった仲になってしまったことなど絶対話せそうもない。
僕はぼんやりと、メルシーと連絡先を交換した後の最終確認の会話を思い出す。
「…僕が君と関係を続けるにあたってなのだけど」
別れ際、僕はこれだけははっきりさせておかなくては、と思いメルシーに確認をした。
「結局、お金を使って僕との関係をどうこうするのは、やめてくれるという事でいいんだよね?」
「けれども貴女、その交渉のためのキスを無かったことにしてって私に言った訳だしねぇ?」
僕を困らせようとわざとニヤリと笑い言い返してくるメルシー。
「それじゃあ、やっぱり無かったことにはしなくっていいよ」
「何度もコロコロと主張を変えるのはずるいわよ」
このまま言い合いをしていても埒が明かないと思った僕は、とっさの提案を持ち出した。
「…それじゃあ、お金を僕に払ってくれるのは、君が僕に愛想が尽きた時…ではどうだろう?」
「どういう事よそれ?」
「僕が面倒な性格をしているのは他でもない君が一番知っているだろう?きっと、その内いくら君でも僕には付き合いきれなくなるだろうから、僕がお金を君から貰うのは、その時でいいよ」
逆に言ってしまえば、メルシーがずっと僕と関係を続けてくれる気でいてくれれば、僕はメルシーからお金を受け取らずに済む。
きっと、メルシーは僕のことをそう容易く手放しはしない、と心のどこかで自信を持っていたから、僕はこんなことを言ってしまえたのだろう。
あまりにも自惚れすぎだ、とは思っていたがメルシーは、
「いいわ、それならたくさん貴女を振り回して、たくさん貴女に報酬の明細を押し付けてあげる。後で貴女が後悔するくらいの大金を支払ってあげるんだから」
と、僕に言いくるめられて少し悔しそうにしていた。
…そんなこんなのやり取りだったわけだが、改めて振り返ってみると、僕は一体何がしたいのだろう。
僕はメルシーと、ずっと"恋人でいる"という関係を続けていきたいのだろうか?
「今度の映画は、何を観にいこうかな…」
ソファに倒れこんだままぽつりと呟き、なんだか恥ずかしくなった僕は慌てて立ち上がり夕飯の支度を始めるのだった。
僕は映画選びのセンスがあまりないのかもしれない。
恋人と観にいく映画とのことで、僕はメルシーと観に行く映画になんとなくラブストーリーを選んだのだが、見終わった後のメルシーは、映画の設定の甘さをまず突っ込み、やれ男が情けないだの、女も女で思わせぶりな態度が観ていてイラついただのと、どこまでも手厳しかった。
正直、僕も今回は映画選びに失敗したと思っていた。
けれども彼女の毒舌な批評はなかなか的を得ていて、それを聞いている僕はそれなりに楽しめたかもしれない。
メルシーが延々と映画について語っている時に、僕の携帯が鳴った。
ごめん、と謝り確認してみると父からのメールだった。
画像が添付されていたので開いてみると、なんとも愛らしい笑顔でこちらを見つめる弟の写真が飛び込んできた。
「ミッシェル、この子は誰?」
いつの間にこんな近くにいたのか、僕の携帯を遠慮なく覗き込んでいたメルシーが尋ねてくる。
「…エドガー。僕の弟で、天使だよ」
さらりと僕の口から出た天使という発言に、メルシーは目をぱちりとさせる。
「自分の弟を天使だなんて、よっぽどこの弟クンのことが可愛いのね?」
「だってしょうがないだろう。エドガーは本当に僕にとって、いや、特に父と母にとって天使のような存在なのだから」
メルシーは顔を顰めた。
変な物言いをする奴だと、怪しまれたのだろう。
だが別に、メルシーにどう思われようが僕は偽りなくそう思っていた。
エドガーは天使だ。
一応、僕のミッシェルという名にも大天使という意味はあるのだが、僕なんてちっとも父と母にとって天使だなんて呼ばれる可愛い存在ではない、と自分では思っていた。
「それで、どうしてその天使のように愛らしい弟クンの画像を眺めていたの?」
「…父が、送ってきてくれたんだよ。明日、エドガーが僕に会いに駅まで一人で来るそうだから、迎えに行ってほしいっていう連絡のついでに」
「え?明日?この子が?」
明らかにエドガーに興味を持った様子のメルシーに、まずいと僕は思った。
「…言っておくけど、明日は君とは会えないし、もちろん弟と会わすわけにもいかないからね?」
「大丈夫よ。明日、私が一人で勝手に駅まで行ってこっそりこの子を見てくるだけだから」
目を輝かせながらさらりと言ってのける彼女に僕は、きっと大丈夫では済まないのだろうな…という予感を感じたのだった。




