Stockholm syndrome 14
僕はきっと、恥ずかしさが一定の限界を超えてしまった為、ここまできたら何だってやってやる、とヤケになってしまっていたのだろう。
"貴女がここで私にキスでもしてくれれば、金目の物を使って貴女を煩わせる事を考え直してあげる"
そのメルシーの言を容易く信じた僕は、いや、決して信じたわけではないのだが信じたいと思った僕は、真昼間に、それもカフェの店内で周囲が僕らに注目している中で。
僕はメルシーの顔をじっと見つめた。
すると、メルシーも黙って僕の方を見つめ返してきた。
ほんの少しだけ、お互いの顔が近付く。
このままではやはり恥ずかしさに負けてしまうと僕は思ったので、目を閉じ、そして彼女の唇に自分のそれを軽く重ね合わせた。
どっと周囲の声が湧いたのが分かった。
先に勘定は済ませておいて良かった、と僕は心底思った。
僕はメルシーの表情を確認することも忘れ、彼女の手を強く引いて周囲の囃したてる声から逃れるようにして店を出た。
先ほどからツカツカと速い調子で聞こえてくる靴の音。
それがメルシーの靴の音だと気が付いてからようやく、僕は自分がメルシーの手を握ったままずっと早足で彼女を連れ歩いていたことに気が付いた。
どこに向かうわけでもなく、僕はとにかく先ほどのカフェと、そこでの一連の出来事から遠ざかろうと街道を突き進んでいた。
少し歩く速度を緩めると、僕が正気に戻ったのだとすぐメルシーに気付かれてしまった。
「こんな遠くまで避難ご苦労様。案の定、ギャラリーは大騒ぎだったわね」
「……さっきのは、忘れてくれないかな」
こんなにも、自分が思い切りのある人間だとは思いもしなかった。
自分の顔がとんでもなく赤く染まってしまっているだろうと自覚していた僕は、彼女の方を向けないまま情けなく呟いた。
当然、彼女が今どんな顔をして僕についてきているのかも分からない。
ただ、先ほどのメルシーの声が普段通りの余裕綽々といった調子に聞こえたので、僕はより一層彼女に今の自分の顔を見られるわけにはいかない、と焦った。
「…結局、貴女は私をどうしたいわけ?」
「え?」
思わず振り向いてしまうと、自分と同じくらいか、もしくは自分以上に顔を真っ赤にさせたメルシーとばっちり目が合ってしまった。
こんな更に恥ずかしくなる展開になるなんて、全く予測できていない。
思わず足も止まってしまう。
「私に本当にキスしてくれたり次は忘れろと言ったり、貴女は私をどうしたいわけって言ってるの…!」
怒鳴り気味に再度聞かれ、僕は訳が分からなくなった。
「君の言う通りに僕はしただけじゃないか…!君こそ、これから僕をどうしてくれるっていうんだ…!」
彼女に釣られるようにして僕もつい怒ったような口調で反論してしまうと、
「…どうしましょう?」と、なんとも間抜けな返事が返ってきてしまった。
僕はここで一つ、メルシーに対してある誤解をしていた事が分かった。
僕は、すっかり彼女は僕の性格を読みきっていて、自分が僕よりも優位に立てるような意地の悪い言い回しばかりしているものだと思っていた。
…のだが、そちらからキスの交渉を持ちかけておきながら、それが実現されると恥ずかしがり挙句混乱しているところから察するに、案外彼女も僕と同じように勢いでどうにかしている部分があったようなのだ。
「とりあえず、なんだか疲れたしゆっくり休める公園のベンチにでも座りたいな、僕は…」
率直に今の気分を呟くと、彼女も疲れきってしまっていたのか、
「今度は、貴女に場所は任せるわ…」
と、あっさりと次の行き先が決まったのだった。




