Stockholm syndrome 12
清々しいよく晴れた日曜。
僕はいつものようにトーストとサラダの朝食をとる。
仮にも、今日は恋人とのデートなのだからもっと気分は浮ついていてもいい筈なのだが、とてもそんな気分にはなれなかった。
今日のデートの相手、メルシーから指示された通りに僕は先日インターネットで検索をかけた。
僕は、普段あまり必要性を感じないことからネット環境は持たない。
そこで勤め先でパソコンを借りる事にしたのだが、世の中には僕の知らない事が数多くあった事と、インターネットを使えばそれもすぐ解消されるという事に、僕は幾度も自分の無知を思い知らされた。
なんとも恥ずかしい話だが、僕はロックフォール社という出版社を今回の検索で初めて知った。
調べてみれば、ニュースや事件の記事をわざと辛辣にこき下ろし、下世話なゴシップのように扱うなるほど僕が興味を抱くはずもないような雑誌を主に手掛ける会社であった。
更に検索をかければこの会社がどのような記事を書いていたのかも、事細かに知ることが出来るであろう。
当然、その後のロックフォール社の命運を大きく分けた大手企業、EXSYの代表取締役社長、エリックとその妻アレット、二人の間に娘が生まれたというニュースが書かれたその記事も。
わざわざ全文など読みたくもない、と思った僕はそのままインターネットの画面を閉じてしまったのだが。
彼女が僕に知ってほしかったことを、僕はある程度は知ることが出来た。
だからこそ、今日のデートでどのような顔をして彼女と会えばいいのか分からなかった。
ちらりと壁に掛かった時計を見やれば、約束の時間が刻々と迫りつつある。
僕は思い腰をあげて、出掛ける支度を済ませて家を出た。
全身を真っ赤なパーティドレスのようなワンピースで着飾り、大きな黒のサングラスを装着し待ち合わせ場所に佇むメルシー。
あぁ、出来るものならば他人の振りをして通り過ぎてしまいたい。
勿論今日のデートは決して優雅なパーティへの出席なんかではなく、せいぜい街をふらりとしてカフェでお茶をした後に映画を観に行く程度のつもりで僕はいた。
「街で変に目立ってしまいそうな素敵な格好だね、メルシー」
皮肉を込めて彼女に声をかければ、それが何か?と言う様にサングラスを外し微笑んでくる。
相変わらずといった強烈な個性を見せつけてくる彼女に、僕は家を出る前の重たい気分など忘れてしまえた。
「変に私に優しくしてくるんじゃないかと心配していたから、貴女からの第一声がそれで安心したわ」
僕自身が抱えていた心配をズバリと言い当てられ、僕は言葉に窮してしまう。
「…とりあえず、どこかで座って喋りましょう?ところで貴女はこの私とのデートだというのに、普段着るような平凡なシャツとパンツルックなのね。ほんと貴女らしいわ」
似合っているけれど、と付け加えると、メルシーはくるりと僕に背を向けて歩き出したので、渋々僕も後に続くのだった。
「この間、私のパパが貴女のことを口説いたでしょ?ママもママで、貴女のことをずっと怪しんで睨んでいたわ。嫌な人達だとは思わなかった?」
場所を変えて、メルシーが訪れたかったという街中の一角に新しくできたカフェにて。
そういえばそんな事もあった、と僕はコーヒーを飲みつつ苦笑いした。
「別に、気にならなかったよ。二人とも、有名人らしい迫力のある人で少し驚いたくらいかな」
メルシーはカフェオレと共に頼んだキッシュを器用にフォークで切り分け口に運びながら、淡々と続ける。
「それならいいのよ。一応貴女は両親公認の人なのだから出来れば二人のことを良く思っていてほしいし、それにあの人達、本当に素敵な両親だと思っているのよ私」
「…うん、本当に素敵だと思うよ。家族の事を第一に考え、君の事を大切に思って下世話な記事を書く出版社から君を守ったのだから」
間違った事は言っていない筈だ、と僕は思った。
彼女の父親、エリックは若くに結婚していたのだが壮年の頃、売り出し中であった若手モデルのアレットと出会い、メルシーが生まれた。
それをきっかけにエリックは元の妻とは離婚し、アレットと再婚したというのが現在のセヴラン一家に繋がっているのだという。
この国では、所帯持ちでありながら別に愛人がいたり、恋愛を楽しんだりといった行為はプライベートであり個人の自由でもある為、第三者から特別非難されるようなことはあまりない。
ところがそれを、ロックフォール社は面白おかしく表現しようとしたつもりだったのか、エリックがEXSYの技術を駆使して女性を切り替え、新しい生命の開発に成功したのだと記事にしてしまったのだ。
誰もがやり過ぎだと感じてしまう記事の内容に、当然書かれた本人達はロックフォール社を訴えた。
特に妻のアレットの怒りようは凄まじかったらしく、どれだけ裁判にお金をつぎ込んででも、会社を倒産に追い込むまでは訴え続けるという姿勢をとり、見事にロックフォール社を倒産にまで追い込んだらしい。
元々好き勝手酷い内容の記事ばかり書くロックフォール社を苦々しく思っていた人々は多かったらしく、愛を貫いた夫婦二人が下世話なゴシップ会社を成敗したのだと喝采があがった、というのが僕がインターネットで読んだ記事のオチであった。
なので、僕が先ほどメルシーに言ったことは間違いなどではない、と僕は思ったのだが、やはり、間接的にでも言うべき内容ではなかっただろうか。
メルシーはまるで他人事かのように、
「まぁ、貴女がそこまで私のパパとママのことを良い人だと褒めてくれるのは嬉しい事だと思うわ、私」
と無愛想に言うと、
「それにしても貴女って噂話とかには今も昔と変わらず全く興味ないの?学生の頃、こんな事ほとんどの子が知っていたと思うわよ?」
僕自身痛感していた己の無知を案の定突っ込まれる事となった。
彼女の家庭の事情はそんなに周知の事だっただろうか?と思ったが、そういえばそうだったのかもしれない。
僕が学生時代行動を共にすることが多かった子達が、メルシーの陰口や彼女の両親のことを何か話していたような気がする。
そのような類の話に興味がなかった僕は、すぐにその場を離れたからその内容を詳しく知ることはなかったけれども。
「…そういうのは、あまり好きじゃないからね」
「思いやりのある優しい人間だとアピールしたいから?」
僕が何か言う度に、こうもグサリと突き刺さる言葉を返されてはたまったものじゃない。
彼女は今、きっと自分の話をなるべく避けたいが為に、代わりに僕の話題を掘り下げようとしているに過ぎないのだ。
だから、こんな一言にまともにとりあう必要などどこにもない。
けれども、いちいち人の核心を突いてくるようなメルシーのこういう部分を、僕は本当に恐ろしいと思った。
「だって、人にはその人の事情というものがあるだろう?それを知らずにとやかく言うのは、あまり気の進む事じゃない」
「けれどもその事情を知ろうとも思わないのは、ただ他人に興味が薄いだけなんじゃないの?」
全く彼女の言う通りだと僕は思った。
ただ、昔の僕が興味を持てなかったのは、家の事情を知ろうともしなかったメルシーに対してではない。
彼女のことを所詮他人だと思って好き勝手に振る舞っていた全ての生徒たちが、僕にとってはどうでもいい存在の他人だったのだ。
では、今僕の目の前にいるメルシーは、僕にとってどうでもいい存在ではないということなのだろうか。
わざと僕に意地の悪い質問をし自分の感情をはぐらかそうとしてくるメルシー。
そんな彼女に、僕は苛立つ感情を抑えるのが難しくなってきていた。




