Stockholm syndrome 9
「人生にはスムーズな切り替えが必要です。例えば僕の考え続けるOSだってそうだし、それから世には美しい女性も大勢いるから、スムーズに切り替えないと拝みきれなくって困っちゃうよね」
いかにもビジネスの成功者らしい、恋も仕事も順風満帆と言わんばかりの自信満々の応答をしてみせる男、エリック・セヴラン。
僕は生まれてこのかた週刊誌等は読んだことがないのだが、そんな僕でさえ彼のこの発言はニュースや新聞等のメディアで何度か耳にしたことがある。
だが、そんな彼と対面するのは、もちろん初めてのことだった。
「では、改めて紹介するわね、パパ、ママ。こちらが私の愛するハニー、ミッシェルよ」
世界的に有名なEXSYの代表取締役社長エリックとその妻、元モデルのアレット。
まさかその二人とこんな狭い自宅のリビングの机で向かいあい、隣に彼らの愛娘メルシーを座らせることになろうとは。
彼らがこんな庶民的な家には馴染まないだけなのか、それともこの自宅が彼らには相応しくないということなのか、どうにも気が気でない僕を他所にメルシーは呑気に僕を紹介する。
もはやメルシーのハニーという発言に突っ込む気にはなれない。
いや、本当に突っ込むわけにはいかないのだ。
突然僕の家に押しかけてきた有名人一家に僕が唖然としていると、メルシーは彼女の両親の目の前だというのにお構いなしに僕に抱きついてきた。
「貴女を信じてるから、上手く私に合わせてほしいの」
と、首筋にキスする振りをして囁きながら。
本当なら、すぐにでも冗談ではないと追い返してしまいたい。
けれども、今日の僕はメルシーに会おうとわざわざ彼女の父親の会社にまで赴いたような人間だ。
僕は、どのような形であれとにかく彼女との再会を望んでいたのだ。
彼女には色々と問い詰めたいことがあったが、それは彼女と二人きりになってからでないと叶わないと僕は察した。
このようにして僕は、メルシーの両親を前にどうにか柔和に微笑むことに努めているのだった。
メルシーの母親、アレットが切れ長の美しい目でじっと僕を睨みつける。
一方隣のメルシーの父親、エリックは興味深そうに僕の顔をまじまじと見続けている。
一体メルシーはここに来る前にどのように僕を紹介したというのか。
「お初にお目にかかります。ミッシェル・オーリックと申します」
彼らの中の僕の人物像が定かではないため、とりあえず僕は当たり障りのない挨拶をしておく。
「あなたね、うちの子をずっと帰さずに引き留めていたのは」
懐疑の目を僕に向けたまま、アレットが言う。
…成る程、僕はどうやらずっとメルシーをこの自宅に引き留めていたという設定になっているらしい。
ということは、メルシーは僕に会いに来なかったここ数日間、家にも帰らなかったというわけか。
ちらりと僕は隣のメルシーを睨みつけるように見やった。
「でも、私ちゃんと途中で連絡も入れたでしょう?それなのにあんまりに心配してくるから、こうして仕方なく彼女を紹介しているんじゃない」
あまり参考にはならないが、メルシーは僕に対する説明も兼ねながら母親に反論する。
「うん、やっぱりそうだ、ミッシェルさん。貴女はとってもハンサムだけれどやっぱり女性なんだね?
僕は一目見た瞬間から心がときめいたよ!君みたいなマニッシュな女性も魅力的だ!」
何故か突然身を乗り出し僕の手を握ってくるエリックの頭を、すかさずアレットが遠慮なしに叩く。
隣で全く相変わらずなんだから、とクスクス笑うメルシーをぽかんと見ながら、なんとなくだがこの一家の性格を掴んできた僕なのだった。




