Stockholm syndrome 8
僕は、メルシーにだけは全く優しくない。少なくとも、学生時代のあの時は、全然優しくなどしてやらなかった。
その時の報いが、今になって僕にのしかかる。
やはり連絡をしてみなくては、と僕は決心した。
とはいえ、僕が知っているのは彼女の自宅の連絡先ではなく、前に彼女から届いた手紙に載っていた彼女の父親の会社の住所と電話番号だけだ。
僕はますます邪推してしまう。彼女はわざと会社のダイレクトメールを使い、僕を試そうとしているのではないか、と。
僕が恥を忍んで会社に連絡を取り、「社長のご令嬢さんの所在地を教えてくださいませんか」というなんとも非常識なお願いをするその瞬間を、社内でクスクスと笑いながら楽しみに待っているのではないだろうか。
考えだすとついついメルシーをどうしようもない性悪のように仕立て上げてしまう。
このままでは、僕の方が性悪だ。
とにかく全くどうすればいいのか分からず、もどかしさで一杯だった。
退勤後、店の外で僕は暫く考えこんだ。
メルシーの父親の会社、EXSYの本社はここよりずっと都会の中心街にある。
タクシーを拾えば今から数十分で着くだろう。
"行ってどうする"と自分に問いかけた。
そしてすぐ、"そんなの行ってから考えればいい"と僕はこれまでのくだらない思考を全て断ち切った。
家へ帰り玄関を開けたら、僕は真っ先にベットへと倒れこんだ。
何だか疲れてしまったので、このまま寝てしまおうかとも考えたが、ぐぅとお腹が鳴り、僕は夕食を食べていないことを思い出した。
こんな夜遅くから食べたら食生活が乱れてしまう。
けれども、そんなのはどうでもいいか、と僕は適当に冷蔵庫の中を漁りだす。
全く、馬鹿な話だった。
わざわざタクシーを拾いメルシーの父親の会社の前へ辿り着いた僕は、初めて間近にみる大企業の本社の大きさに圧巻され、案の定ここからどうするか、と足がとまってしまったのだ。
どこからともなくひょっこりとメルシーが「そんなところで何をしているの?」と現れてくれはしないだろうかと淡い期待もしていたのだが、そんな都合のいい話なんてあるわけがない。
けれども、彼女の父親の会社を目の前にしハッキリとしたことは、やはり彼女は特別な人間で、彼女と大した間柄でもない僕が彼女をどうこうしようとするなど諦めた方がいいということだ。
向こうから僕を頼ってこない限り、僕からは彼女を追わない。
それしかないという現実を叩きつけられながら、僕はしばらく付近を闊歩し、それから虚しくタクシーを往復し帰路についたというわけだった。
メルシーが再び僕の前に現れた時には、せめてタクシー代くらいは請求してやろう。
ヤケになるように遅い夕食を取ろうとしていた矢先、玄関のベルが鳴り僕の心臓は跳ね上がった。
全く、メルシーという人間は僕が望んだ時には現れないくせに、思いもしない時には現れるものなのか。
まさかと思い玄関を開けた先に立っていた彼女に、僕は思わず抱きついてしまいそうになった。
しかし、そんな無様な真似をするわけにはいかない。
僕の性格がそれを許さないのもあったが、メルシーの後ろには、見るからに滲み出る有名人のオーラを隠しきれていないサングラスをかけた怪しい男性と女性とが佇んでいたからだ。




