殴り愛、しましょうか
「お前、またかよ!」
黒板を背に赤い頬を押さえて藤沢が目をつり上げる。
「いつもいつも何なんだよ!」
出会い頭に頬を殴られる理不尽に、当然藤沢は怒る。だがそれはわたしだって知りたい、と湯原は途方にくれる。
「そこにお前が居るからだ」
彼女にはそうとしか答えられない。胸の内を満たす感情が一体何なのか、彼女は知らないのだ。煮え切らぬ答えしか返せぬ己が歯がゆく、湯原の口調は男の様にぶっきらぼうになった。
湯原の手は藤沢を見るとうずく。視界に藤沢が入った途端、湯原の足は彼へ突進し、気付けば手が足が口が出ている。
何の呪いだ。
湯原の答えに当然藤沢はカッとなった。だが藤沢が女に本気で手を上げる事はない。喧嘩慣れしているわけではない湯原にすら簡単に避けられる、もしくは去なせるようなそれに、反射の様に藤沢にクロスカウンターを叩き込む。いや、大抵藤沢の拳は湯原に届かないのでクロスカウンターは不成立だが。もし当たっても大して痛くない。ぺち、と当たるくらい。
アーモンド型の目が怒りに燃えて湯原を睨む。
ああ、と彼女は理解する。
多分。湯原はあの目を自分に向けたくて、こんな不毛極まりない事をしているのだ。
*
「――っていう感じなんだけど」
湯原はタコさんウインナーを箸で摘んだままもごもごと話し終えた。
改めて包み隠さず率直に内情を話して、彼女はどうにも尻の据わりが悪い様に感じて落ち着かない思いをする。
よく解らない感情に突き動かされるのでも大変なのに、己の身体が勝手に動くというのはなかなかに迷惑だ。ままならぬ己をどうとも出来ない歯がゆさ。それを人に話し助けを乞うというのは恥ずかしい。
だが訊くは一時の恥、訊かぬは一生の恥。
昼休みだが、特別教室棟に人は少なく、喧騒は遠い。音楽準備室は楽器がひしめき合い狭いが、防音で秘匿性が高い。内緒ごとにはもってこいの場所だった。
そんな場所で女子三人弁当を広げている。楽器を置いた台の手前の隙間が手頃な狭さだ。密談に丁度いい距離感だった。普段男女混合のグループで昼食を摂るが、今日は気兼ねなく女子会という名の相談会なんである。
ニマニマ笑って「それって」と身を乗り出した敷島の頭を、無表情の柚木が無言で押し戻す。スネる敷島の頭をポンポン叩いてあやし、紙パックのイチゴオレを飲みきった柚木が「わかった」と頷いた。
「というより、湯原もわかってるよね?」
「え」
え、である。何が、である。
己一人ではどうにもならず、一年間藤沢を殴りに殴り、蹴りに蹴って踏み倒し、どうにもこうにも殴り過ぎだと周りに言われ、宥め賺され、「あ。コレ駄目だ。流石にわたし一人じゃどうにもならん」と己でも殴り過ぎだと思って湯原は相談したのだが。
わかってるよねとはどういう意味だろう、と湯原は首を傾げた。ポニーテールが揺れる。わかっていたらこんなに困窮していない。
呆けたようにぽかんとした湯原に、柚木が困惑したように微かに眉を寄せ、敷島が「ん? え? なに、なに?」とさっぱり理解せずきょとんと瞬く。
そして湯原もまた理解出来ていない。
三人三様の胸の内を抱えたまま沈黙が落ちた。
柚木が口を開く。
「取り敢えず、ガマンして」
「ガマン」
「藤沢を殴らないで」
湯原には藤沢を殴るつもりなど無い。
手が勝手に殴るのだ。
そう告げたが、柚木はガマンしろと繰り返す。
ガマンしてどうにかなるなら湯原は相談していない。
だが、大丈夫、と柚木が頷くので、耳の下で切りそろえられた髪が白い頬を撫でるのを見ながら、湯原も頷き返す。
仲間に入りたそうにうずうずと身体を揺する敷島を柚木が頭をポンポン叩いてあやしているのが非常に気になったが、空気が読めない自由な生き物を野放しにされると相談が頓挫するので見なかった事にした。敷島はそれはそれで楽しそうではあったので湯原は別の意味で心配になったが、まあ幸せそうだから良いか、と強引に納得する事にしたのは蛇足である。
「ガマンして、相手をよく見て」
柚木は静かにそう言った。
*
「何なのお前!?」
「それはこちらのセリフだ」
「お前俺にどんな恨みがあるんだよ」
全くだ、と湯原は己の拳を見下ろす。コレはガマンを知らないらしい。
「お前のかおを見る度わたしの中に眠る邪悪な何かがお前の血を求めてうずくのだ」
湯原の呟きを拾って藤沢が戦く。
「何ソレこわい……って厨二病!? ざけんなよっ! うお、目がマジで怖い!」
赤く腫らした頬をかばって藤沢は半歩引く。ノリ突っ込みして噛み付いて抗議しつつも怯える藤沢。実に忙しない。
藤沢は普段温厚で容姿も平凡だが、湯原と関わると途端に喧嘩腰になる。湯原が盛大に喧嘩を売っているので当然だろう。
よく見て、と柚木に言われたので、「誰が厨二病だ節穴」「誰が節穴だ!」「節穴は節穴だ」「藤沢だ!」と言葉で殴り合いながら湯原はしげしげと藤沢を観察してみる。
平凡な容姿だ。アーモンド型の目が可愛いとか女子に言われたりしているが、コレは可愛いのか? 髪はくせっ毛でよくあちこちはねている。洒落っけは無いが、朝は整髪料で髪をせっせとなでないと収まりが悪いらしい。
だが、湯原はまっすぐにぶつけられる目に己の中の何かが満たされるのを感じた。
藤沢の目が己を見る事で、何かが満たされる。問題は、何が満たされるのかだ。
藤沢を怒らせてまで、己は何を満たしたいのだろう。
「何でお前に節穴なんて言われなきゃなんないンだよ!」
「目の前に居るのに見えていないからだろう」
ああ、思い出した。
湯原は藤沢にぶつかられて転んだ事があった。藤沢は急いでいて、湯原が目に入らなくてぶつかって。転んだ彼女は膝を擦りむいて痛くて、だが藤沢は謝ってバンソウコウをくれて、少し痛みが和らいだ気がした。
次に会った時に湯原に藤沢は「はじめまして」と言った。
急いでいたし、覚えていなかったのだろう。だが、湯原は覚えていた。カサブタが出来たはずのキズがじくじくと痛んで。
気が付けば拳が唸っていた。
それが出会いであり分岐点だ。藤沢にとっての天敵が生まれた瞬間である。
「はい、そこまで!」
タヌキ顔の男が知らず拳を振り上げていた湯原と藤沢の間に割って入った。
清郷だ。丸顔で垂れ目、愛嬌のあるこの男は藤沢に輪を掛けて温厚で、平和主義者な仲裁役。
湯原の拳は標的を見失ってピタリと止まる。何て現金な。
「あっぶねええ! キヨ、お前何割り込んでんだ、お前が殴られるとこだったろうが!」
同感だ、と拳を引っ込めた湯原は藤沢のセリフに胸の内で頷く。考え事に気を取られてまた身体が勝手をするところだった。思い出した場面が良くなかったのかも知れないが、我が拳ながら油断も隙も無い奴である。
「湯原はサワしか殴らないよ」
「どーゆー意味だよソレ」
「湯原、お願いだからサワを殴らないでやってよ」
シカトすンなと騒ぐ藤沢には、湯原は女の子なんだから優しくしてあげなよと取りなす。
この男の目も大概節穴なのではないかと湯原は失礼な事を常々思っている。非は湯原にしか無いというのに藤沢をなだめるというのはどうなのだ。
だが、藤沢は人がよく、怒りが持続しないタイプだ。理不尽な暴力を振るってンのはあっちだ、と言いつつも、ガシガシ頭を掻いて右手を湯原に差し出す。まだ口が少しむすっとしているが、清郷の言葉を容れて、仲直りしようと言うのだ。
ありがたい申し出だった。頭が下がる。
容姿は平凡だが、実に寛容な男だ。この男の前で何故暴力と暴言しか出て来ないのかと湯原は己が不思議である。
湯原も手を伸べる。
藤沢の手は大きい。おずおずとおっかなびっくり触れた手は、硬かった。湯原を殴り返そうと突き出されても、結局手加減をする手は温かい。
節が立った男の手だ。
それが、きゅ、と己の手を握る。天敵の手なのに、やる気のないゆるさでやわらかく。
刹那、脳天まで名状しがたい感情が突き抜けた。
滅びの呪文をさけんで湯原は藤沢の手をギリギリ握りしめ、油断したところで攻撃を食らった藤沢は悲鳴を上げる。右手をかばってうずくまり、「おま、マジでざけんな!」と涙目で睨まれた。
身の内の動揺が酷くなる。
藤沢のアーモンド型の目が己に向けられているのに、彼女の内は満たされるどころではない。動揺なんて生やさしいものでもなく、己の内に台風が来た様な有り様だった。嵐が吹き荒れている。
「油断するからだ」
手綱を緩めた己を悔いての言葉だが、藤沢は当然嘲笑われたと受け取り、「何だと!?」と噛み付いて来る。
燃える目に怒りだけでなく嫌悪を見付けて苦しくなるのに、一度開いた口は止まらない。
あわあわする清郷の制止でも止まらずヒートアップする。どんな言葉の応酬をしたかは覚えていない。他の仲間が止めに来るまで、言葉でひたすら殴り合った。
*
音楽準備室に、重苦しい沈黙が落ちている。
「湯原はバカ」
柚木がポツリと呟いた。返す言葉も無く、湯原はその言葉を容れた。
敷島もうんうんと頷く。
わけもわからないまま言葉で殴り合ったこの間の一件から、藤沢と湯原はより一層険悪化した。
「考えてみたの。その、何で殴るのかを」
柚木は静かな目を向けてくれ、敷島が開いた口にイチゴオレのストローを突っ込んで黙らせてくれた。
「わからなかった……」
わからない。
多分、見てほしいのだ、藤沢に、己を。その理由も、今ではわかっている。遅きに過ぎるが、湯原はようやく己の恋心を自覚した。手遅れだが。
だが、何故罵倒し殴り倒さねばならないのかが解けぬ謎だ。
初対面のアレは事故で恨んでいないはず。バンソウコウの礼を言おうとすら思っていたくらいだ。
ならば。忘れられたのがショックだったのか。そんなのをいつまでもうじうじと根に持つ程、特別な思い出だったのだろうか。それほど、あの時既に多少なりとも好意を抱いていたのか。踏みにじられたと思う程。
いささか認めがたい。だってそんなのただの逆恨みじゃないか。
「――そんな事で顔を合わせる度ストレートで好きな奴を一発K.O.とか絶対におかしい、間違ってる」
考えをつらつら話しつつ、湯原は遠い目をした。
「でも、湯原自身が言うならそうなんじゃない?」
敷島があっけらかんと肯定する。
「だって、湯原の拳ってさあ、『好きだ!』『わかれ!』『私はこんなに好きなんだ!』って感じだよね」
へらりと笑う敷島に、湯原はギクリとした。
思い当たる節がなくもない。だが、あまり考えたくなかった。
「藤沢に特殊な嗜好がなければただの暴力。嫌われるだけ」
柚木が溜め息を吐いた。そうなのである。藤沢の目が己を向いても、嫌われている事を確認するだけなのだ。
殴った拳より胸が痛いが、理不尽に殴られる藤沢はきっともっと痛いだろう。
嫌われて当然だ。
「柚木、いるか?」
ノックと清郷の声。柚木が立ち上がったので入り口側の敷島が道を空ける。柚木はドアを開けて清郷を招き入れた。
「早速だけど、湯原と藤沢をくっつけよう作戦会議を始めるわ」
女子三人で丁度いい狭さの中座らされた清郷が居心地悪そうにしているところに柚木はざっくり切り込んだ。
「異存はないけど、ここ狭くないか?」
頷いた柚木がナチュラルに清郷の膝に乗り、ぎょっとさせた。
「ちょ、よせよ」
「いーなー、私も柚木の膝に乗る!」
「恋人特権。敷島も彼氏作ればいい」
「ずるぅい!」
三つどもえのカオスを見ながら、湯原は「突っ込むところはそこじゃない」と清郷を見る。
何故犬猿の中である二人をくっつけようという話に驚かないのだ。湯原もいきなりの流れに驚いているのに。
後カップルでいちゃつくのを止めろ。
「あ、もしかして湯原さん驚いてる? あのね、湯原さんは見てて判りやすいよ。サワしか殴らないし、殴ったらちょっと泣きそうなかおするし」
よく見ているな、と思った。泣くなら殴らなければ良いのに、手が勝手に殴っているのだ。どうしたものだろう。
「小学生ぐらいの頃に、好きな子泣かせてる友達がいてさ。今の湯原さん見てると思い出すよ」
逆効果なんだけどね、と男は困り眉になる。
「本当は仲良くしたいのに」
「何で?」
きょとんとした敷島に、何でかな、と清郷は首を傾げる。そこがわからないと先に進めないのだが。
「習慣化してしまったからかも知れないわ。今のままじゃ悪循環。だから負のスパイラルを断ち切る為に環境を変える」
「いいかもね」
柚木の提案に清郷が頷く。「どうやって?」と敷島が訊ね、あれよあれよと言う間に付き合ってもないのに遊園地デートの計画が組み上がってしまった。
無理だとか無謀だとか湯原が言っても聞き入れて貰えなかった。
*
友人の手で整えられていく鏡の中の自分は、本当に自分なのだろうか。
金魚みたいにふわふわひらひら頼りない、薄い布地の短い丈のワンピース。胸が開いているというか、そもそも胸元から肩部分が剥き出しで、胸元から首に紐をぐるりと回して結んでいるだけだ。活発に動き回れない様にという事らしい。めまいがする。
左耳の後ろで結われたお団子に挿したかんざしが、少し動く度にしゃらしゃら揺れるし、胸元でペンダントも揺れる。恥ずかしいと泣いたらコットンマフラーを巻いてくれたので少し胸元が隠れた。ボレロの慈悲は有りか無しかという議論で否決されたのには泣くしかない。
普段Tシャツにジーンズしか着ない女になんて格好をさせるのか。だが暴力防止にはなるだろう。蹴り上げ防止にヒールの高いミュールという徹底さには恐れ入る。
何だか足元が頼りなくて歩くのも怖い。
「泣いちゃだめだよ?」
敷島にパウダーをはたかれ、柚木に色付きリップを塗られ、鏡の中はいよいよ自分じゃない。
シンデレラにでもなった気分だ。王子様をしいたげるシンデレラの画が浮かんで、暗澹たる気分になる。
男というものは、視覚で訴えた方が良いらしい。目で見て別人の様、というのは絶対効果があるよ、と清郷が言った。藤沢の戦意を殺ぐ為に。
なら暴力防止に動きを封じるくらいひらひらした服装を、と柚木が。ミュールと化粧を提案したのは敷島で、遊園地の割引チケットを提供したのは、全員用事で集まれないのでは怪しまれると藤沢と昼食を食べつつラインで会議に参加していた御子柴だ。
親友で一番仲の良い清郷が藤沢を遊園地に誘い、行くと返事を貰ったらしい。
「殴りそうになったらこのシュシュを見て。お姫様みたいに可愛い自分を思い出して」
「お姫様はねえ、王子様を殴ったりしないんだよ。甘えていいの」
手首にシュシュを、肩から掛けたフリルいっぱいのポーチには匂い袋。
「頑張る」
そうして、湯原は決戦に挑んだ。
*
――なあ、キヨ。アレ、誰?
――誰、ってサワ。お前ジョークがキツいよ。湯原じゃないか。
――湯原じゃねェよ。だってスカートはいてるし。何より、アイツがこんなじっと黙ってるハズねェ。何やっても何言っても文句と拳と蹴りが飛んでくるのがアイツだろーが。なのに、こんなのアイツじゃねェよ!
どれ程の理不尽を働いたのか、それでどれ程嫌われたのかを突きつけられた。だめだ、立ち直れない。
制服以外スカートなんて持っていませんが何か。顔を合わせる度、姿を視界の端に見付ける度に駆け寄って殴り倒しますが何か。地に伏した好きな人の背を踏みしめた事も数知れずありますが何か。全部翻って歪みきった愛情表現ですが常人には理解できませんよね当たり前。
……だめだ、好かれる要素が皆無だ関係立て直せる気が全くしない。帰りたい。過去の自分をたこ殴りしに行きたい。
陽気で軽快なBGMがいっそ恨めしい。
仲間達は気を利かせて二人一組、計三組にしてくれ、藤沢と二人にしてくれた。だが、無理だ。立ち直れない。帰っちゃダメかな。……ダメだよね。
そっと窺うと、何と、藤沢はこちらを見ていた。ぎょっとする。暴れるなわたしの右手! 今日は、せめて今日だけは大人しくしててくれ。
慌てて視線を外して目の前を横切る。呼び止められて手を掴まれた。悲鳴すら出ない程驚いた。え、何、何、何で手掴まれてるの、いや、そりゃ引き止めるよな、とパニックになる。
「なあ、お前ってさ、具合でも悪いの」
……緊張し過ぎてくらくらしますが何か。
そうか、大人しいわたしが具合悪く見えるのか、そうか、としょげつつ、やや緊張のほどけた視界にジェットコースターが見えた。緊張すると視界は狭まるものだ。
「乗りたい」
子供が親にねだるみたいに指を指せば、「お前、好きなの?」
掴まれた手首から乱れに乱れた脈が伝わったらどうしよう。本題に切り込まれたわけではない、ジェットコースターの話だ、静まれわたしの心臓。小学生か。チョロインか。固まって黙った湯原をどう思ったのか、藤沢がニヤリと笑った。
「乗れないクチ?」
藤沢もジェットコースターが好きなのだと思ったら嬉しくなる。なのに、出て来た言葉ときたら。
「勝負」
「吠え面かくなよ?」
「どっちが」
口喧嘩と競歩を楽しみつつジェットコースターの列に並び、楽しく絶叫し、何だか戦友みたいに拳をコツンとぶつけて、ああ、コレ無理だ、とあまのじゃくな自分に涙目になった。
でも友達にならなれるかな。無理かな。
絶叫系を半ば制覇しても勝敗はつかず、それでもスリルに満足したらしい藤沢は機嫌が良い。目をつり上げない藤沢は珍しく、湯原はこっそり盗み見る。温厚だから普段はよく笑う。だが、湯原の前では殴られたり口喧嘩ばかりして目をつり上げてムスッとしている。
湯原が隣を歩くからか、藤沢もニコニコしたりはしないが、目元が笑っている。
湯原も常より穏やかな気分だ。だが、何だか落ち着かない。
「なあ、ちょっとそこ座れ」
ベンチを指差される。
「何」
「良いから」
引っ張って行かれて、肩を押されて座らされた。
剥き出しの肩を触られてギクリとしたが、藤沢は固まる湯原の足元にしゃがんで、ミュールを脱がせたので更にぎょっとした。
「慣れないもん履くから」
溜め息混じりに靴擦れにバンソウコウをぺたりと貼ってくれた。
気付かれていたのが恥ずかしい。
気遣われて嬉しい。だが、腹立たしい。似合わないと言われた気がして悲しくなる分、腹立たしい。
ふわふわした気分が一気にしぼんで、胸が重苦しい。
「つうか、言えよ。痛かったろ」
温厚で誰にだって優しい。怒りは持続しないからか、天敵にだってこんな言葉を掛ける。
そういうところが好きで、そして、大嫌いだ。
好きになったって、嫌われてるのに、望みがないのに。何で好きなんだろう。
立ち上がって歩き出すと、ゆっくり湯原の歩調に合わせて藤沢は歩き出す。面白くない。湯原はすっかりすねてしまった。
理不尽さを自覚している。
殴る蹴る暴言を吐く、そんな相手にすら優しく出来るお人好しにアイスをおごらせた。
ストロベリーアイスは好物だ。
だが、暑すぎる。ラクトアイスより氷菓の方が美味しそう。藤沢が美味しそうに食べているとより一層いいものに見えて、口を離した隙に食らいついた。
頭がゆだっていたのかも知れない。後で顔から火が出る思いをしたが、この時は実に至福だった。ソーダアイスうまい。
「おま、一口って大きさじゃねぇよ今のは! 初めて猫のあくび見た時以来の衝撃だわ! しかも一言の断りもなしかよ!?」
いきなりかっさらわれて仰天した藤沢が騒ぐ。
「男がガタガタ騒ぐな」
「横暴!」
「ん。」
交換なら文句あるまい。コレで許せ、とカップからストロベリーアイスをスプーンですくって突き出す。
相手はこの段になって尻込みした。わたしのアイスが食えんのか、とイラッとした。
うん、アレだ。頭がゆだっていたんだ。暑さのせいだ。
「口を開けろ。さもなくばこじいれる」
「このシチュエーションに合わない以前に、女のセリフとしてどうなんだソレ。後、真顔ヤメテ超こわ……グェ!」
乙女の様に恥じらうな、と開いた口に問答無用でスプーンを突き入れる。喉奥に滑り落ちたアイスを飲み込んだらしく、喉仏が上下した。
このあたりで、ちょっとだけ冷静になる。これは「ハイあーん」じゃないか。とてつもなく乱暴だけど。
じわじわ羞恥に駆られながら、「おいしい?」と湯原は首を傾げる。
すごくドキドキした。だが、何やら相手はぽかんとしている。
「一瞬でよくわからな……グェ! ちょ、おま、」
今度はわかっただろうか。
「おいしい?」
「だからな、ぐ、」
逃がさない。湯原は相手の膝を己の膝で封じて口にアイスを突っ込んだ。
「おいしいと言え」
「これ何プレイだよ! 後、近い近い! びっくりするほど近いから! 膝に乗り上げて来るな! ぐはっ!?」
乙女にあるまじき醜態かも知れない。だが、どうにも普段の自分を捨てられないのだ。
「確実に仕留めるつもりでいたからつい」
わたしの右手は今日も絶好調で藤沢を仕留めにいっている。何故いつもこうなのだろう。
「仕留めるって何だ! ってか謝ってないよなソレ。しれっと言いやがって……しかも降りねェのかよ!」
だめか。みんなにあんなに頑張ってもらって、友達にはなれるんじゃないかと、さっきはそう思っていたのに。
湯原は藤沢のソーダアイスをかっくらい、頭を冷やして覚悟を決めた。
「節穴。ずっと言いたかった事がある」
震える声を叱りつけて言う。
「藤沢だ……ゲホッ」
「お前の目は節穴だから節穴だろう」
「藤沢だっつってんだろ!」
頭がキンキンするわと叫びながら藤沢はアイスを避ける。
「藤沢。好きだ」
「だから俺は藤沢……んぐ?」
呆気に取られて空いた口にスプーンを容赦なく突き込む。突っ込みどころはそこじゃない。何度も言わせるな恥ずかしい。
「耳まで悪くなったのか?」
「え、」
ぽかんとする藤沢のソーダアイスでもう一度頭を冷やして、
「その節穴の耳でよく聞け。わたしはお前が好きだ」
「はあ? ……ぐっは!」
何度言わせる気だ!? 呆けている藤沢の口にアイスを突っ込みソーダアイスを食べたら、それが最後の一口だった。
「目も耳も節穴とはご苦労だな。わたしはお前に惚れている。さあ、嗤え。さっさとフれ。今すぐフれ」
嫌ってる相手からの告白をどんな風に思うだろう。泣けてくる。これだけ無茶苦茶したら、藤沢も気分よくフレるだろう。
「おい、」
これ以上言う事はない、何を訊く気だ、と開いた口にカップを押し付けた。残っていた溶けたアイスが藤沢の口を塞ぐ。本当に泣きそうで、そのままこっちを見るなとあごを押しやって上を向かせる。その手を藤沢に掴まれ、退かされた。
睨もうとつり上がった藤沢の目が、勢いを失って下がる。
見たくない。哀れむな。
「フれ……さっさとフれ!」
沈黙に耐えかねて叫べば、「もっかい、言ってくんない?」と言われた。
もう無理だ。わたしのライフは空っぽだ。燃え尽きた。
「最初からやり直そう。お前も俺も喧嘩しないでさ、つまり、突っかからない様に気を付けて、友達からやろう」
あれ、何か都合のいいセリフが聞こえる。
どん底に落とす罠か、いや、藤沢はそういう陰険なことはしない奴だし、と顔を上げたら、ごくまじめな顔をして藤沢が言った。
「で、また、一緒に来よう。ここに」
デートの誘いか、と頭が沸騰してわたしはさとった。わたしはどうしようもないチョロインだ。
「……付き合って、くれるの?」
藤沢は首を振った。
「まず、友達やれたら考えるって事で」
そりゃあ、あれだけ殴られ蹴られして、付き合いましょうは無いな。好きだ、と言っても普通信じない。通じただけで奇跡だ。
そう考えると藤沢は本当に人がいい。
その後、「お前ジェットコースター好きだよな」と藤沢に言われ、絶叫系を完全制覇して、多分友達になれた。
わたしの右手は嘘のように静かで、藤沢に手を引かれて、あの意地悪なニヤリと笑うんじゃなく、普通に笑いかけられて、湯原も笑い返して。
何だ、大人しくできるじゃないか。
拍子抜けするのと同じくらい学校で会うのが怖かった。休日だけのゆめなんじゃないかと。みんなが良かったねと祝福してくれて、でも、やっぱり不安だった。
その予想は半分当たって半分外れた。
「おはよ」藤沢に先に話しかけられると、右手は静かだ。藤沢が気付かないと荒ぶるが、どうしたことだろう、あれだけ殴り倒されて来た経験値がようやく一定レベルに達っしたというのか、藤沢はあっさり避けたり去なす事が出来るようになったのである。
「すごい……何で急にそんな強くなったの?」
「俺は別に強くなってないと思うけど。湯原が普通の照れ隠しレベルに落ち着いただけだろ」
今までのがおかしいんだって、と藤沢は苦笑する。
「殴りたい?」
「え、殴られたいの?」
「まさか! でも、殴りたいならこうやって捕まえておこうかと思って」
藤沢は笑って、最近よくふざけて湯原のの手を掴む。
誰にだって優しくて、温厚で。友達とこうして手をつなぐのが藤沢の普通なのだろうか。
あんまり優しく笑うから、湯原は顔を上げていられない。沸騰してしまいそうだ。
藤沢が好きになってくれた事に気付かないまま、好きだけどやっぱり嫌い、と湯原はしばらくすねる事になった。