殴り屋
「ハァ……」
この物語の始まりは一人の男のため息から。
彼の名は『佐藤浩二』。現在39歳で妻一人に息子が一人。なんということのない中小企業のなんということのない一社員であり、極めて平均的な男である。容姿がいいというわけでも、特別仕事のできる人間というわけでも、ましてや隠された才能を持っているということもない。本当に純粋でつまらない一般人だ。
「ハァ……」
彼がため息をついているのも、なんてことはない一般的な理由。現代日本人にはありがちな職業や対人関係からの“疲れ”と“飽き”だ。
掻い摘んで状況を説明をすると、日々繰り返しのような仕事、無愛想な妻と息子、新しく入社してきた若い上司、客の応対がなっていないコンビニのアルバイト、と言ったところであろうか。本当に誰にでもある“ため息の理由”である。
「ん?」
もちろん、この話の主人公はこの男ではない。もっと個性的で刺激にあふれた人物だ。
「新聞をポイ捨てするなよ……。今日のやつか?」
彼も導かれるようにあの広告を見つけるのだ。人生の転換点となるであろうあの広告を。
「ん?何だこの変な広告。……『殴り屋』?」
「ただいま~と。って返事は無い……か」
佐藤にとってこれはいつもの事。家族が冷たいのは今に始まったことではない。もうここ数年、息子が年頃になってきてからずっとである。
「ふぅ」
佐藤はスーツを椅子に脱ぎ捨て、ソファに深く腰をかける。そして先ほど拾った新聞を鞄から取り出して開いた。
「『あなたの不景気を殴り飛ばします。気になったらすぐにメールを。殴り屋』って怪しいよなぁこれ」
一目見てからどうにも気になってしまっていた。普段に刺激がない分の好奇心がこちらにまわってしまったのだろうか。
「宣伝はこれだけか?」
新聞の隅に小さく先ほどの宣伝とメールアドレスしか書いてない。はっきり言って少しも具体性が無く、誰がどう見ても怪しすぎる広告だ。
「面白いな。試しに送ってみるか?」
気になってしまったものはしょうがない、と思って佐藤は下記のアドレスに「何を殴ってくれるんですか?」とだけ書いて送った。少しワクワクしながら返信を待っていると、夜中にもかかわらず案外早く返ってきた。
『住所を教えてください』
「は?」
返ってきたのは妙な答え。佐藤はケータイ片手に頭を抱えた。
「住所……。訪問するのかな?殴るって言うくらいだから、実際に会って話さないといけないのかもしれないな」
別に住所を知られるくらい、と思って住所を書いて送った。またもや返信を待つ。
「あれ?」
前はすぐに返信が来たのに次は待ってもなかなか来ない。
「あー、情報取られたかな。しまったー」
一時間ほど待ったところで、佐藤は自分が悪徳セールスか何かの術中にはまったのだと思った。もう一度新聞を見てみれば、先ほど以上に怪しく感じられた。
「馬鹿らし。寝るか」
はったりだったと思うと急に興味がうせた。数日後からチラシがたくさん来ることを覚悟しながら、佐藤はその夜眠りにつくのであった。
「ああー。眠い」
翌朝、佐藤はいつもどおり6時半に起きた。部屋を出てダイニングに向かうと妻が朝食を作っている最中だった。
「起きたの、あなた。ご飯まだだから、悪いけど新聞とって来てくれない?」
「おーう」
新聞、と言えば佐藤は思い出していた。昨日の怪しい広告のことを。起きたときにケータイを見たが新着メッセージもなく、やはり性質の悪いセールスだったようだ。今日の新聞に載ってたら笑えるな、何て思いながら佐藤は外に出た。
「……」
佐藤は家の前を見て固まった。なぜなら、そこにいつもの設定には無い非日常があったからだ。
「……」
太陽の光を全て吸収してしまいそうな黒いボディのアメリカンなバイクにまたがる男。そんな理解不能なものがこちらを見つめていたのだ。
「あんたぁ……依頼人だな」
男はバイクにまたがったまま口を開いた。
「え?は?……」
「いーや、いい。言うな。俺にはわかるぜ。依頼人はあんただ。今に退屈してそうな顔をしてやがる」
男は力強く佐藤を指差す。そしてバイクを降りて佐藤に歩み寄った。
「え……。あ、あなたは……?」
「俺は『殴り屋』だ!あんたの不景気を殴り飛ばしてやるぜ!」
目の前のガタイのいい男。彼は佐藤が昨日、興味でメールを送った相手である『殴り屋』だと名乗った。
あまりにも急な状況に佐藤は戸惑ってしまう。そんな様子を見かねた『殴り屋』は佐藤を手で制した。
「そんなに戸惑うな。最初はわからないだろうから、試しに仕事を見せてやるよ。さっきから不景気の臭いが鼻をくすぐってんだ!」
そう言って家の中に入っていく。
「ちょ、ちょっと!?」
「こっちだな」
殴り屋は一切迷わずに突き進み、二階のある部屋の前で立ち止まった。
「ここは息子の……」
「入るぞ」
殴り屋は構わずドアを開けて、部屋の中にあがりこんだ。まだ寝ていた息子は大きな音に驚いて、目を覚まして音のもとをにらみつけた。それが自分の知らない人間だったことに気付くと、跳ね起きて布団から出た。
「な、何だよいったい。朝っぱらから何暴れてるんだ!?」
「い、いや……お父さんにもよく…」
「お前がこの不景気の根源か」
いっそう自分に近づき、さらには上から威圧してきた『殴り屋』に息子は警戒する。
「ちょっと、親父。いったい何なんだよコイツは。何で俺の部屋に入ってるんだよ。そもそも勝手に入んなって、この前言ったばかりだろ!」
「いや……けどねぇ……」
「いいから早く出て行けよ!」
息子の剣幕に佐藤はたじろぐ。しかしその間に『殴り屋』が割って入った。
「お前。言葉だけで済むと思ってないか?」
「はぁ!?いいから早く出て行けって言ってんだろ!」
「自分は殴られない。自分を殴ることは許されない、と思ってるだろ」
息子は殴り屋に話が通じないことを悟ったのか、佐藤に対して早く出て行くように急かした。
「確かに法律や社会のルールではそうだ。そうだが……」
「お前何言ってんだよ?」
「昔から思ってたんだ。俺はなぁ……」
「?」
「殴るべき人間を殴れる大人になろうってなぁぁぁ!!」
『殴り屋』の右の拳が息子の頬を貫く。一瞬スローモーションになり、きれいな右ストレートが横っ面にクリーンヒットした。息子はその勢いで布団に倒れこみのびた。
「うわっ!何してるんですか!?」
佐藤はあせって息子の下へ。しかし殴られたところを見てみると、どうもそんなに大したことは無いようだ。息子も伸びるというより眠っているように近かった。
「ようし次だ!がんがん行くぞ」
『殴り屋』は踵をかえして部屋を出る。佐藤も急いで後を追う。階段を駆け下り、向かった先はダイニング。
「え!?な、何なの貴方!ちょっとこの人誰なのよ!?」
「におうぜぇ、不景気な臭いだ。二人目はお前だ!」
佐藤は殴り屋の手を引いて止めた。
「ちょっと!妻には手を出さないでください!」
「あなた、その男を押さえておいてね!こういうときくらい男なんだから役に立つのよ!」
その妻の言葉を聞いた瞬間、『殴り屋』の力が急に強くなって押さえが利かなくなった。『殴り屋』は力任せに佐藤を振りほどいて、妻に詰め寄った。
「お前!結婚した相手に向かってその言い草は何だ!」
「きゃぁぁぁぁ!寄らないで!もし暴力なんて振ってみなさい。警察を呼ぶわよ!嫌ならそれ以上近寄らないで!」
『殴り屋』の形相が鬼のようになった。
「そんなのは知らねぇ!俺はどんな状況にあっても殴るべき奴は殴るんだぁ!!」
次は平手で頬をたたいた。銃声のような大きな音がしたかと思うと、妻は叩かれた方向に一回転くるりと回って崩れ落ちた。
「ああ……」
その様子を見て佐藤は脱力した。
「ようし。あとはお前の会社の若い上司に態度の悪いコンビニの店員ってとこか?」
「もう……」
佐藤が妻を抱えて、ぼそりとつぶやいた。
「あん?」
『殴り屋』は早速外に出て行こうとした足を止めて、佐藤のほうに向き直る。
「もういいです!これ以上殴ってどうなるんですか!もう結構ですっ!!」
佐藤の剣幕にさすがの『殴り屋』もいささか驚いたようだ。少々の間沈黙が流れた。それを破ったのは『殴り屋』。
「そうかい。その様子ならあんた自身の力で他はどうにかできそうだな」
「…………」
「おいおい、そう睨むなって。……しかし困った。俺はあと一人だけ、一度殴っておきたい奴がいたんだけどな」
若干の嫌気がさしながらも佐藤は冷静に質問した。
「誰ですか?」
『殴り屋』ははじめて笑った顔で佐藤を見た。
「あんたさ」
佐藤はとても驚いた。
「わ、私が依頼して、なぜ私自身が殴られなくてはいけないんだ!?」
「あんたの不景気を作ったのは、この周りの嫌でつまらない環境。しかしな不景気な顔をして、ため息をついていたのは奥さんでも上司でもなくて……あんた、なんだぜ」
「!?」
佐藤は膝をついてその場に座り込んだ。男の言葉は的を得ていた。
「俺はこの世の言葉では解決できない理不尽を壊すために殴っている。けどよぉ、あんたみたいに不景気なのがいたら俺らの気分まで削がれちまうし、何より正しく殴るということが認められない社会にいつまでたっても終りがこねぇ。だから仕方なく不景気も殴り飛ばしてやってんのよ。俺の仕事としては、あんたから不景気が飛んでいかねぇことには意味が無いんだぜ」
「俺次第……だったのか。今も昔も」
佐藤はゆっくりと立ち上がって男に真正面から挑む。その目には言葉にはできない、清々しいものが映っていた。
「おっ!いい表情だ。覚悟が決まったな」
「ああ、不景気をぶっ飛ばしてくれ」
佐藤は目を閉じずただただ歯を食いしばった。
「いくぜぇ!」
「おうっ!」
その日、またひとつこの世から不景気が飛んでいった。
「じゃあ行って来るよ!」
「いってらっしゃい、あなた」
「あー親父!せっかくだから途中まで一緒に行こうぜ!」
仲の良い家族のワンシーンを見納めた男はヘルメットをかぶってバイクのエンジンをかけた。そして今日もこの世の理不尽と不景気を殴り飛ばしに行く……。
何でこんな作品を書いたんだろう?