「オルター・エゴ」
「君たちも身にしみて分かっただろう。あれが、「オルター・エゴ」……かつて、勇者アンジェロすら苦しめた、恐ろしき魔物だ」
一年S組の生徒全員が、学園迷宮最下層のBOSSに敗れ去った次の日。その日の魔物学の授業は、「オルター・エゴ」についての内容となっていた。
彼の魔物の名を聞いただけで、ビクリと震える学生たち。そんな彼らを、憐憫の感情が籠った目で見つめ、エリック教諭は話を続ける。
「対峙した者の能力をコピーする魔物は数あれど、中でも「オルター・エゴ」は最悪の部類です。何故だか分かりますか? ヴァレリー君」
エリックの問いに、一年S組次席であるヴァレリーが、珍しく疲労を窺わせるのっそりとした動作で立ち上がり、答える。
「はい……「オルター・エゴ」は、元となった人物の記憶、思考パターン、癖に至るまで、全てを模写するからです。結果として、攻撃・防御・回避、ありとあらゆる行動の先を読まれます」
そこまで述べて、教師の「よろしい」という言葉も待たずに座りこむヴァレリー。他の学生と同じく、昨日の実習における完敗が未だに彼の身体から活力を奪っているのだ。ヴァレリーの予想以上の消耗に眉をひそめるエリックが教室を見回すと、誰も彼もが同じように沈痛な面持ち。まるで告別式のようだった。
「そうだね、「オルター・エゴ」の最大の特徴……それは、人格までコピーできるということだ。それは、数あるコピー能力を持つ魔物の中で最も厄介だと言われている……あぁ、付け加えるならば、【アイテムコピー】の能力も持っているから、装備品まで同条件だ。ますます手強い相手ですね」
そう、学生の中には、学園迷宮のランダム宝箱から入手した強力な装備を持ってBOSS攻略に臨む者もいた。しかし、彼らの胸を貫いたのは、その自慢の長剣や、槍、短刀だった。
ダンジョン・コアからの魔素供給によって、敵対者の全てを寸分違わず模写する難敵……それが、「オルター・エゴ」という魔物である。
彼らの当初の予定では、ここまで苦戦するはずではなかった。
学園迷宮最後のBOSSが相手だ。一日でどうにかなる相手とは思っていなかったが、「パミス・ゴーレム」や「スマイル・ピエロ」などの他の階層のBOSSは単独討伐できるほどには成長していたのだ。攻略の切っ掛けや糸口程度なら、得ることは容易いと考えていた。
弱点や行動パターンが掴めたら、自身がどう動くかを決める。これまでの迷宮実習は、そのやり方で問題なく進められた。
だが、自身と同じ能力、そして、自身よりも遥かに効率的に動く魔物との戦いは、対策すら掴めないままに一方的に終わってしまった。
斬りかかれば、薄皮一枚で避けられる。魔法を使えば、それよりも早く詠唱を終えて先んじられる。それならばと手数の多さで挑めば、どのような連打も、どのようなフェイントも読まれてしまい、結果として、手痛いカウンターをくらってしまう。
このような魔物に、弱点など存在するのか。事典を紐解けば、「己に打ち勝つ知恵と力が必要」とは書かれているが、自分が強くなればなるだけ、相手も強くなるのだ。このような助言など何の意味もないと激昂したのは、己の影に手も触れられないままに倒されてしまったアベルだった。
口に出さないまでも、学生一同、みなが同じような思いを抱いている。すなわち、「オルター・エゴ」は倒せるのか、という疑心だ。教師陣は「倒せる」と言うけれど、本当は無理なのではないのか。学生たちの増長を防ぐための仕掛けなのではないか。そうとまで考える学生も、少なくはない。
だから、このようなことも聞いてしまう。エリートクラスにあるまじき弱音を吐いてしまう。それほどまでに、学園迷宮の主は圧倒的だったのだ。
「先生……「オルター・エゴ」は討伐可能なのですか……?」
最前列に座る男子生徒が、目を下に向けたままエリックに問いかける。それは、1・S全員の気持ちの代弁だ。誇りや自信、鍛え上げた肉体への信頼を、完膚無きまでに砕かれた彼らが心のどこかに抱いている考えだ。
しかし、そのように重たいものを投げかけられたエリックは、にこりと笑って断言する。
「はい、できます。君たちなら、必ず」
そう言い切ったエリックは、教壇の上に映像水晶を取り出した。
訝しげな目で映像水晶を見やる学生たちの目の前で、それは起動する。すると、映し出されるのは最下層BOSSの間。撮影者と対峙するは、エリックの顔をした、あの忌々しき「オルター・エゴ」だった。
だが、何かが違う。学生たちの前では余裕すら感じられる表情を浮かべていた魔物が、苦悶の表情を浮かべている。それは、断続的に繰り出されるエリックの魔法やマジックアイテムによるものだ。
触れることすら不可能と思われた魔物に、ダメージを与える。その光景は、映像水晶が映し出す幻影にも関わらず、逆らい難い引力をもって学生たちの意識を吸い寄せた。
時折うめき声ともつかぬ呟きが聞こえるだけで、誰も、何も言葉を発さずに、黙々と勝負の行く末を見守る学生たち。
やがて、映像はエリックの勝利で幕を閉じた。彼らにとっては不可侵なる「オルター・エゴ」は、実習担当でもない教師の手によって魔素の煙となり、霧散した。
「こ、これは……!?」
学生たちは、混乱する。映像の中のエリックは、何ら特別なことはしていない。スキルも、装備も、戦い方も、どこにも目を見張るようなものは隠されてはいなかった。彼がしたことは、ただ、淡々と「オルター・エゴ」にダメージを与えただけ。それだけで、大きな危機にも陥らず、学園迷宮最下層のBOSSを倒してしまったのだ。
困惑する学生たちを前に、エリックは困ったような顔をして笑う。
「実習担当の先生方があまり助言はしない方針なので、これ以上は何も教えられませんが……これだけは言っておきます。実戦は得意ではない私ができたのですから、皆さんも必ずできます。では、来週……いいえ、今日の自主訓練からでも、頑張ってみてください」
そこで丁度、授業の終わりを告げる鐘の音が鳴り、退室していくエリック。だが、学生たちは礼も忘れて、しばらくの間、硬直してしまっていた。
(エリック先生と私の違い……それは、何?)
その日の放課後、エリックが「オルター・エゴ」を相手取り、余裕を持って勝利を収める映像を見た学生たちは、こぞって学園迷宮最下層へと訪れていた。
長く続く一本道の通路の両脇に、等間隔で飾り気のない木製のドアが備え付けられている。その数は五十にも及び、その一つ一つにそれぞれ「オルター・エゴ」が潜んでいるのだ。
単独での入室しか許さない十メートル四方の小部屋の一つに、今、ランジュー家の第三子、ベルベットが姿を見せる。すると、部屋の奥で蠢いていた不定形のスライムのようなものが、みるみるうちに人型へと変わってゆく。
そして、目の前の少女の鏡像のように形を成す魔物……そう、これが「オルター・エゴ」のコピー能力だ。姿かたちだけではなく、声色さえ恐ろしいほどに同一に模写する魔物は、ベルベットの声であいさつをする。
『こんにちは。挑戦者ですか?』
「はい、そうです」
『分かりました。では、始めましょう』
どうやら、実直で虚飾を好まぬベルベットの性格すらもコピーしているようで、前口上もそこそこに斬りかかってくる「オルター・エゴ」。
昨日の対戦によっていくらかは慣れたものなのか、それをサーベルで受け流そうとするベルベット。
しかし、彼女と同一の能力持ちとは思えないような巧みさで、BOSSモンスターはがら空きになった胴へと蹴りを叩きこむ。
「うくっ……!」
それでも、反射的に蹴られた側とは反対方向へ跳び、衝撃を殺そうとするのは日頃の訓練の賜物か。
しかし、ベルベットがそう動くのは承知していたとばかりに追撃をかける魔物。インファイターのベルベットを模している故か、彼女と戦う「オルター・エゴ」は接近戦を好んだ。その連撃も捌き、防ぎ、何とか凌ぎながら、彼女は考える。
(エリック先生は、距離を取って戦っていた……いえ、それは関係ない。あれは、先生が中~遠距離魔法を主体に戦うタイプだから、人格を模した魔物も同じようにしていただけ。そう、今の私たちのように。だとすると、勝利のための要素とはいったい……)
思考の切り替えのために、三日月状の衝撃波を放つスキル【クレッセント・キャリバー】を横に振り、思い切り跳び退って距離を取るベルベット。余計ことを考えながら戦えるほどに甘い相手ではないということの証明なのか、戦闘開始から数分しか経っていないにも関わらず、彼女の体の各所には切り傷が目立った。
「【ヒール】」
近距離で放たれた【クレッセント・キャリバー】すら、バックステップと宙返りの組み合わせで避けてしまう「オルター・エゴ」。避けられることは織り込み済みで、今の内にと回復に努めるベルベット。
しかし、着地したと同時に魔物は駆け出し、またも距離を詰めてくる。一気果敢にインファイトに持ち込む姿は、まさに元となった少女と同じであり、その姿を客観的に見せつけられた当の本人は苦い顔をしている。
(くっ……まだ回復が十分ではないのに。どれだけ突進が好きなのですか、自分は!)
迎え撃つために、かけ始めたばかりの【ヒール】を中断せざるをえなくなったベルベット。そこから、またも刃と刃をぶつけ合う接近戦の始まりだ。完敗という事実、エリックが見せた映像水晶の意味、己より己の能力を上手く使うコピーモンスターへのいら立ち……それらが剣戟の音と共に混ざり合い、ベルベットの心の安定を乱していく。
「ぐっ、く、ぁあっ!!」
受けたダメージを上回る逆転の一撃を無意識の内に狙い初め、自然と大振りになっていくベルベットのサーベル。その隙を、「オルター・エゴ」が見逃すはずがなかった。
結局、その日もベルベットの完敗で終わった。エリックを見習い、着実にダメージを与えていこうと考えていたはずなのに、逆にちくちくと削られ、最後の一撃であっけなく倒されてしまったのは彼女の方だった。
苦い敗北の味と、自分の不甲斐なさに乱れる心では再戦しても結果は同じだと、素直に家路についたベルベット。今は自宅の庭で、日課のトレーニングの仕上げを行っている。
「せいっ! はぁっ! せいっ! はぁっ!」
右、左、右、左と、腰に構えた拳を交互に突き出していく。これは、彼女の実戦訓練の教官である佐山貴大から教わった、【正拳突き】の基本形だ。
「スマイル・ピエロ」を一撃で粉砕した貴大の強力なスキルに憧れて日課に追加したものだが、拳を突き出している内に無心になれるので、彼女はこの訓練自体が好きになっていた。
「やぁっ! はっ! せいっ! はぁっ!」
雑念が消えていく心にそれでも浮かんでくるのは、今の彼女にとって大事なことばかり。「オルター・エゴ」。負けた自分。勝利したエリック。その違い。どう戦えばいいのか。勝てるのか。また負けるのか。
泡のように浮かんでは消えていくイメージだが、その中には、己が「オルター・エゴ」に勝つ、という姿が見当たらない。
「はっ、はっ……ふぅ……まだまだ至らない、ということですか」
やがて、【正拳突き】による鍛錬もやり終え、額の汗を拭うベルベット。彼女が自分の勝利というイメージ像を手にするのは、まだ先のようだった。
「先生方は、どうやって乗り越えたのでしょうね……」
エリックだけではない。彼女が話に聞いた限りでは、実習担当ばかりではなく、研究職の教師ですら「オルター・エゴ」に勝利した者は少なくはないそうだ。エルゥに至っては、まるで打ち合わせ済みのチェスを見ているように一方的に勝利を収めてしまうという噂話も耳にした。
「いけない。安易に人に頼る前に、己を高めよ。それが、武門の誉れ高きランジュー家に生きる者の姿勢ですね。鍛錬あるのみです」
何人かの学生は、攻略法を尋ねに交渉を行っているらしい。しかし、それは一時的な解決にはなっても、身には着かないと判断したベルベットは、もう一セット、自主訓練を行うことを決めた。
傍に控えていた侍女が差し出す水の入ったカップを受け取り、こくり、こくりとゆっくり飲み込んでいくベルベット。やがて、カップを空にした彼女は、汗を拭いた布を侍女に渡し、それなりの広さを誇る自宅の訓練場の外周を走り始めた。