自由の風
『タカヒロ! 明日学校で勉強しようぜ!』
『もうすぐテストだし、昼からしっかり対策しようよ』
そんなメッセージが送られてきたのは、あの奇妙な出会いがあった夜、もうすぐ深夜になろうかという時間帯だった。
『朝から晩までAWOをやるっていうのもいいけど』
『たまには現実の方も頑張らないとね』
トークアプリを通じて友人ふたりが殊勝な言葉を伝えてくる。すると俺も「それもそうだな」という気持ちになり、その場で「ああ」と素直に返信していた。
あいつらはあいつらで将来のことを考えているのだろう。俺たちもすでに高校二年生、就職や進学に向けて本腰を入れてもいい頃合いだ。
それが嫌というほど分かっているからこそ、俺もあいつらに合わせて休日出勤、いや、土曜日通学を行ったわけなんだが――。
「来ねえし」
昼過ぎの教室、そこには俺ひとりの姿だけがあった。他のふたりはまだ来ていない。というか、数分前にドタキャンを知らせるためのメッセージが届いていた。
『うちの犬がなんかダルそう!』
『ごめん、姉さんたちに捕まった~』
片方は動物病院、もう片方は繁華街に行くとのこと。どうせまた愛犬家の空回りだろうし、強く言えば姉も引くだろと思わなくもなかったのだが、
(まあ、いつものことか)
早々に諦めをつけ、俺は教室を出ていくことにした。
「さて、と」
ロッカーに荷物を放り込んでふらりと歩き出す。せっかくの土曜日、これから街に繰り出してみるのもよかった。
図書室で古い映画を観るのもいいかもしれない。そんなことを考えながら、俺が渡り廊下をぶらぶら、だらだらと歩いていると、
「えっ?」
「うん?」
「あれっ?」
「「……えっ?」」
なんと――。
なんと俺は、二日連続で怪しげな男と遭遇する羽目になった。ジーンズにシャツというラフな格好、それが妙に似合う男が校舎の脇で佇んでいる。
(いや、なんで!?)
向こうも驚いているが、本当に驚きたいのはこちらの方だ。なんで私服の老人が学校の敷地内でうろうろと――。
「まさか……!」
「いや、ボケてるわけじゃないからな?」
俺の懸念は当の本人によって否定された。俺が疑いの目で見つめる中、相手は軽く手を振って説明を始める。
「ここ、俺の母校なんだよ」
「ええっ!?」
「昨日は家を見てたけど、今日は学校を見に来たってわけ」
「えええええ……!?」
いま明かされる驚愕の真実! ってほどでもないけど、俺には十分驚くべきことだと感じられた。
(同じ家に住んでた人が、同じ高校に通ってたとか)
そんなこと本当にあるのだろうか? 学校なら他にもあるし、バスや電車で遠方に通う人もいるくらいだけど――。
「まあ、こんな偶然もあるよなってことで」
「は、はあ」
軽い調子でサラッと疑問を流されてしまった。相変わらず年齢不詳、身元不明のおじさんは、薄く笑って俺との話を続けようとしている。
「しかし、思ったより真面目なやつだったんだな?」
「え?」
「お前のことだよ、お前の。わざわざ土曜日に学校に来てたんだろ? 部活ってわけでもなさそうだし、勉強するとか偉いよなあ」
「ああ、いや……まあ、その……は、はい」
わざわざドタキャンのことを言う必要はないだろう。何だかやけに感心しているし、そこに水を差すのも悪いような気がしてくる。
「俺が学生の時なんて全然勉強しなかったもんなあ」
「は、ははは」
腕を組んでうんうんとうなずくおじさん。彼の素性は分からないが、にじみ出ている風格というか、自信のようなもので大体のことは分かってしまう。
(多分、この人はA持ちなんだろうな)
高い適性で順風満帆な人生を送ったような人だ。努力らしい努力なんてしたことがなくて、なのに仕事は全部余さず上手くいって――。
同じ学年にもA持ちはいるが、とにかくあいつらは人生が楽しくて仕方がないような顔をしている。そんな相手の前ではどうしても腰が引けてしまい、俺は自然と卑屈な言葉を口にしてしまうのだった。
「ま、まあ、俺は努力しないといけませんから」
「ん? なんで?」
「オールCの人間ですから……」
自嘲気味に言ってから、直後に俺は「言うんじゃなかった」と激しく後悔してしまった。
なんで俺はほとんど初対面の相手にこんなことを打ち明けているんだ? いくらか共通点があるとはいえ、適性値は軽々しく語っていいものでもないんだぞ?
(ああ、やっぱり引かれてるし)
男は目を丸くして驚いている。どう返せばいいのか本気で分からないのだろう、彼はぽかんと口を開けて俺のことをジッと見ていた。
(ダメだ。もう帰ろう)
さすがにいたたまれなくなってきた。たまらず目を伏せ、俺は男の横を黙って通り過ぎようとした。
しかしそれより早く男は行く手を遮ってくると――。
信じられないとばかりに、このようなことを言い出すのだった。
「え? お前も?」
「いや、まさか俺以外にオールCの人間がいるとはな」
「俺も驚きました。何人かいるって話は聞いてましたけど」
「実際に会うとちょっとビビるな」
「ですね」
「なんか珍獣に出会った気分だ」
「ほんとですよ」
数分後、俺は――。
いや、俺たちは校舎裏のベンチで語り合っていた。
話題はもちろん自分たちの適性に関してのことだ。世にも珍しい「オールC」なる微妙な適性、それを持つ相手に俺はこれ以上ないほどの親近感を覚えていた。
「オールC。よりによってオールCですからね」
「珍しい! とか、貴重だ! とか言われるけどさ」
「正直、全然ありがたくはないんですよね」
「だな」
屈託なく笑い合う俺たち。未だによくは知らない相手ではあるが、適性値が同じだということ、その事実が心の垣根を低くしてくれていた。
(いたんだな、同じ境遇の人が)
それを想うと不思議と心が軽くなるように感じる。「他にもいるよ」と言われていた人、その実在にやけに気分が上がっていくのも感じられた。
「高校二年生、ってことは、進路指導が本格化する時期か」
「ええ」
「決めろって言われるけど困るんだよな。適性値が全部同じなもんだから、逆に選択肢が一切ないような気分になっちゃって」
「ですよね!?」
激しく同意してグッと顔を近づけていた。そんな俺に怯みはするものの、やはり理解者のように彼は優しく微笑んでくれた。
五十数年前、彼も同じ悩みを抱えていたのだ。いまの俺のように苦しんで、じわじわと沼に沈んでいくような気分を味わっていたのだ。
(だったら……この人なら……)
教えてくれるかもしれない。
『俺はこの先、どのように進んでいけばいいのか?』
誰も教えてくれなかったことを、俺は目の前の男に問いたい気持ちになっていた。
「あ、あの」
「うん? どした?」
「ちょっと聞きたいことがあって」
「いいけど……なんだ?」
「えっと、ですね」
柄にもなく緊張でのどが渇いてきた。それをつばでどうにか誤魔化し、俺は彼にゆっくりと問いを投げかけてみた。
「あの、おじさんは、その」
「うん」
「高校卒業後、どんな進路を選んだんですか?」
言った瞬間からドッと汗が噴き出してきた。冷や汗なのか脂汗なのか、俺でもよく分からないものに塗れながら答えを待つ。
果たして彼はどんなことを語ってくれるのだろうか? 身も心も縮こまらせて、俺が静かに待っていると、
「高校卒業後……あ、俺、高校卒業してねえわ」
「は!?」
「在学中に外国に行ったんだよ。そこでまあ、冒険者みたいなことをして」
「冒険者!?」
「最終的には何でも屋として働いてたな。色んなところから仕事を取ってきたり、名指しで依頼を受けたりで……それで妻子を養ってた」
「えーーーー……!?」
それは俺が予想だにしていなかった答えだった。高校中退。外国への転居。冒険者としての活動。何でも屋への転身。後半になればなるほど突拍子のない話へと変わっていく。冒険者? 何でも屋? それは本当に現実世界での話なのだろうか?
「あ、まさかVRゲームの話なんじゃ」
「似てるけど違うな。ちゃんとリアルな活動だぞ?」
「そう言われましても……」
いまいち要領がつかめずにいる。そもそもの話、俺が想定していたのは「オールCでも幸せになれたぞ」とか「意外と仕事はちゃんとできたぞ」という自信たっぷりな体験談だ。
同じ適性の人、それも威風堂々たるオールCに、先達としてのアドバイスみたいなものをもらいたいと思っていたのだが、
「証拠がいるなら見せるけど?」
「え?」
「そうだな……じゃあ、無難に貯金の一部でも」
「えええええええええええええ!?」
おじさんの手が広げられたと思ったら――。
次の瞬間、大量の金貨が音を立てて飛び出してきた!
「これが向こうの国の主要な通貨。こっちは隣国で使われてる金貨に、こっちは新大陸で流通してるコインで」
「あわわわわわ……!?」
ジャラジャラと溢れるように金色の小山が積み上がっていく。かと思えばそれはサッと消えてしまい、初めから何もなかったかのように地面の石畳を見せていた。
「て、手品師?」
「いや、何でも屋だ」
彼は真顔でそんなことを言ってるけれど――。
あまりにも非現実的な言動に、俺は呆然としてしまうのだった。
「まあ、俺の場合はかなり特殊なケースだからな。あまり参考にはならないと思うぞ」
「そ、そうですか」
「無難なアドバイスだけど、自分がいいなって思うものから選んだ方が」
「………………」
衝撃と困惑、そして若干の失望によって俺は自然と口を閉じていた。
勝手に期待して勝手に失望するのもおかしな話ではあるのだが、同じ適性値を持つ相手、それも年上の先達に一般論を語られるのはなかなかに堪えた。
その重たい気持ちが伝わったのか、相手もいつしか黙り込んでいて――。
「適性。適性なあ。気にするなって方が無理だとは思うけど」
「………………?」
男はガリガリと後ろ頭をかいていた。何かを迷う素振りを見せているが、一体何を迷っているというのだろうか?
見つめる俺に対し、彼はどうにも困ったような表情を浮かべている。何度か口を開け、そのたびに何かを言おうとして、
「あー、ん、んんっ! えー、これからぶっちゃけた話をします」
「え? あ、はい!」
「まず、人生についてのお話ですが……これはなるようにしかなりません! いまから悩んだところでなるようにしかならないんです!」
「は? え、ちょっ」
「次に世界についてのお話ですが……これは君が思う以上に広大です! 無数の可能性が綺羅星のごとく散らばっているのです!」
「ええ~? いや、あの……?」
突然始まった大演説に俺は早くもたじたじになってしまっていた。
人生はなるようにしかならない? 世界は思う以上に広大? また一般論なのかと思いきや、それとはまた違った空気のようなものを感じさせる。
(この人は何を伝えようとしているんだ?)
俺にはまるで分からないが――。
何かが。何かが始まろうとしているのだけは分かった。
「お前は適性のことでいまいちやる気が出せずにいる。いや、何をやっても無難に終わりそうで、これからの人生に絶望してさえいる。そうだな?」
「……はい」
「俺もそうだったから分かるよ。俺もあの事件がなかったら生涯ずっと悩んでたと思う」
「あの事件?」
「まあ、それについての詳細は省くが」
彼はそこで言葉を切り、そして、
「お前にも世界を見せてやる。一足先にお前を招待してやるよ」
「なっ……!?」
男はどこからともなく大きなナイフを取り出していた。その刀身から放たれる鈍色の光、それは俺に本能的な恐怖を感じさせる。
(まさか!?)
これで俺の体を切り裂くというのか? 瞬時に浮かんだ考えに、俺は思わず身をすくませてしまったが、
「【コネクト・エッジ】」
男が宙を薙ぐと空間に大きな裂け目が走った。それは幕のようにするすると広がり、やがてぽっかりと向こう側の景色をのぞかせていた。
「これは……!?」
宇宙にも似た暗色の風景、そこには大小様々な光が散りばめたかのように点在している。そのひとつひとつが「ここではないどこか」を映し出していて、それは手を伸ばせば触れそうなほどリアルだった。
「あの、こ、これって……?」
混乱しながら例の男に問いかけてみる。すると男はにやりと笑い、ナイフをどこかに仕舞いながらこう言った。
「あれは全部異世界だ」
「い、異世界?」
「おう。こことは違う世界、法則も異なる空間だな」
「こことは違う世界……」
すでに事態は俺の理解を超えてしまっていた。パラレルワールド、マルチバース、そのような単語が脳裏をよぎっては消えていく。
「俺は五十数年前に異世界のひとつに転移したんだ」
「………………」
「そこで色々あって、他の異世界とも行き来するようになったんだけど」
「………………」
「この世界にはなかなか帰ることができなくてな。最近になってようやく『調整が終わりましたー』なんて連絡が来て」
「………………」
「そしたら、『せっかくなのでふたつの世界を交流させましょうか』とか偉い人が言い出して……って、聞いてる?」
「………………」
ほとんど聞いていなかったかもしれない。もしかすると白目をむいていたかもしれなくて、例の男が心配そうな顔をしているのも道理だと思えた。
「い、異世界? 異世界って?」
「読んで字のごとくだな。異なる世界のことだよ」
「なんでそれを、俺に……?」
「同じ適性値だし、この世界に閉塞感を覚えてそうだったから。他の世界に行けばいい刺激になるかなーって」
「そんな理由で……」
頭を真っ白にしながらやっとの思いでそれだけを返した。しかし男は笑うばかりで、着々と準備らしきものを進めていた。
「まあ、物は試しだ。いつでも帰ってこれるし、一回異世界に行ってみないか?」
「い、いや、でも」
「もしかすると違った適性が見つかるかもしれないし……適性自体が気にならなくなるかもしれないぞ?」
「…………!」
俺にとっては重要なワードで一気に意識が引き締まっていく。この世界はすでにAIによって完成されている。しかし、違う世界に行けば、いま感じているような息苦しさを無くすことができるのではないだろうか?
「本当に、すぐに帰れます?」
「ああ、帰れるぞ。なんなら家まで送ってやるが」
「それは別にいいです。いいです、けど」
ちらりと男の背後に視線をやった。そこには幻想的な世界、蒸気で煙る世界、あるいは海中のごとき世界の景色が見え隠れしていた。
(もしかして、全部夢かもしれないけれど)
動き出した心はすでに好奇心によって満たされていた。久しぶりに感じる未知への関心、それが俺の動力源になろうとしていた。
「行きます。俺を異世界に連れていってください」
自分でも驚くほどすんなりと申し出ることができていた。そんな俺に笑ってうなずき、彼はその手を伸ばそうとして、
「あ、そうだ。その前に」
「……? はい」
「名前を教えてくれないかな? いつまでも君とかお前とかだと不便そうだからさ」
「あ、はい! そうですね」
今さらになって名前を教えるとか、なんだか色々と順序が逆になっていたような気がする。苦笑いをした俺は、似たような表情の相手に向かって、自分の名前をためらうことなく告げることにした。
「改めまして、俺の名前はですね」
「うん」
「サヤマタカヒロと言います」
「……うん?」
「え? ですから、サヤマタカヒロと」
男の様子が何かおかしい。名前を告げた瞬間、彼は硬直したようにぎこちない姿勢を見せていた。
「サヤマタカヒロ……?」
口元に手を当ててつぶやいている例の男。彼はそのまま深く考え込むと、やがてすぐにも呵々大笑とばかりに声を上げ始めた。
「ああ、そういうことか!」
「…………!?」
「あいつら、サプライズがあるよ~とか言いやがって! これのことだったのかよ!」
男は心底楽しそうに笑い続けている。そうしてひとしきり笑ったあとも、彼はくつくつと機嫌が良さそうに小さくのどを鳴らしていた。
「いや、すまんすまん。ちょっと友人にハメられてな」
「はあ」
「じゃあ、気を取り直して行こうか、タカヒロくん」
「は、はい」
くるりと背を向け、男は空間の中へと手を伸ばしていった。すると光の玉、いや、正確には光の穴のひとつが大きく輪郭を広げていく。
「うわ……!?」
異世界の景色は俺が思う以上に現実的だった。見渡す限りの丘陵地帯、そこには風に揺れる緑と宙を舞うワイバーンの姿があった。
生々しくも現実味に溢れる世界、そこに男は何の気負いもなしに入っていこうとしている。慌てて俺もそれに続くと、街育ちの身では嗅いだことのない、むせ返るような緑と陽の匂いが漂い始めていた。
「転移は一瞬だ。すぐに着くからな」
相手は穴の輪郭に手をかけて振り返っている。異様に慣れた姿を見せる男、いよいよ謎めいてきた彼に対し、俺は最後の機会とばかりにおそるおそる問いを投げかけた。
「あの……」
「ん?」
「あなたは、一体……?」
「ああ、まだ言ってなかったな」
微笑む男。しかしその顔には悪戯者のようなニュアンスが混ざっている。そこにどんな意図があるのか、いまいち読み取れない俺に対し、彼はやはり笑顔でこう告げた。
「俺は何でも屋フリーライフの店主だ。そして、俺の名前はな……」
その翌週、各国の政府は「異なる世界」の存在を明らかにした。
こちらの世界とは似て非なる世界、あるいはまったく異なる世界があることをすべての国家が一斉に公表したのだ。
同時に人的交流、異世界との交易も大々的にスタートすることとなる。これにより停滞していた世界は回り出し、人類はより良い明日に向かうとさえ言われていたが――。
公表よりも一足早く。大人たちには内緒の旅路で。
俺は緑の丘に立ち、吹き抜けていく自由の風を感じていた。




