突き進め、シスターズ!
書きたいことを全部書いたらとんでもない文量に……。
ま、まあいいや。お楽しみください!
「お客さん、お客さん」
「はい、なんでしょうか?」
「つかぬことをお聞きするんですけど……」
「? ええ」
「お客さんってどこの出身の方なんですか?」
「ノエちゃんはエルフっぽい服だって言ってたけど」
「そのままズバリってわけじゃなさそうですし」
「だからって、この街で育ったわけでもなさそうだし」
「はあ……エルフではありませんね。ただ……」
「「「ただ?」」」
「近しい文化圏、とだけ言っておきましょうか。ふるさとは森の奥にあり、わたしはずっとそこで静かに暮らしてきたのですよ」
「「「やっぱりー!」」」
午後三時の住宅街、団子になって進む少女たちがきゃいきゃいと声を上げてはしゃいでいた。先頭にいるのは若草色の髪の少女、そしてそれを両側から挟んでいるのがコミエル、アリシア、パルフェ等の姉妹たちだ。一同はなおも塊のまま、おしゃべりをしながらのろのろ、のろのろと進んでいく。
「いやー、やっぱり森ガールって感じがしたんですよね!」
「擦れてないというか、都会に染まってないというか」
「新鮮だよなー? オレも見たことねータイプだぜ!」
「その腕輪はふるさとの特産品かな? 変わった文様が彫り込んであるが」
「この服はどこで仕立てたものでしょう? とてもいい生地を使っているように見受けられますが……」
ノエル、エリザベートが加わり、コミエル一行は一層姦しさを増していく。彼女らの歩みはいまにも止まってしまいそうだ。
楽しいおしゃべりに集中しすぎて――止まる――止まる――止まって――。
「姉よ。そして妹たちよ」
「「「ぴっ!?」」」
「いまは仕事中ではなかったかな?」
「「「あわわわわわ……!?」」」
瞬間、静かな威圧が輪の外郭から発せられた。
フィーニスだ。次女フィーニスが目を光らせて姉妹たちを見ている。
「確か、依頼者のネックレスを探していたと思うのだが……」
そう言って圧を加える竜人少女に――コミエルたちは気弱な子猫のように、すぐにもバタバタと降参していった。
「あ、あーあー! そうだったね!」
「そうでしたそうでした! いやー、そうでした!」
「急いで探さないとな! うん!」
「姉妹の力を結集する時が来たようだね」
わざとらしく声を上げ、次いでぎくしゃくと動き出すコミエルたち。その不自然な歩みを見張る少女は、まるで軍神像のごとくしっかと腕を組んで構えていた。
「客人よ、度々すまないな。うちの姉妹はすぐに気が緩んでしまうのだ」
「え? あ、ああ、いえ、その……そうなんですか?」
「そうなのだ。まあ、歳相応と言えばそれまでなのだがな」
「ええと……あ、あはは……」
同じ年頃の少女が何事かを言っている。もしやツッコミ待ちなのか? という気がしないでもなかったが、依頼者の少女はあえて笑って受け流すのだった。
「さて、では、私も本腰を入れて探すとするか」
「あっ、はい! お願いします」
「そういえば『力を感じる』と言っていたが」
「そうそう! それってどこまで正確に分かるんですか!?」
「え、えっと……です、ね」
泣いたカラスが何とやら、すぐに元の調子に戻って「ビュン!」と近づいてくる長姉コミエル。その変わり身の早さに内心ドキドキとしながら、依頼者の少女は何かを思い出すように自分の感覚についての説明を始めた。
「わたしの探知能力はあまり強くはないのです。遠くにいても『あの方角にあるな』ということは分かりますが……」
「いざ近づくと『この辺りにあるな』程度のことしか分からない、とか?」
「そうです、そうです! まさにその通りで、わたし、困ってしまいまして」
「無理もないことだよ。この街は王国でも屈指の規模を誇り、おまけにこの辺りは雑然としていて路地も入り組んでいる」
「郊外の平原ならともかく、街中でひとつのものを探すのは難しいでしょうね」
「砂漠で一本の針を探すごとく、とまでは言わないが」
「うう……や、やっぱりこの依頼、無理なんじゃ……?」
我慢のできない姉妹たちが話を引き継いで話を始めた。通りの端で小さな額を突き合わせ、さて、どうしたものかと一様に困った顔を見せている。
なるほど、確かに失せもの探しは難しい依頼だ。探す範囲はあまりに広く、そのくせ失せものは手で隠せるほど小さく細かい。よしんば重厚な首飾りならそちらの方が問題で、手癖の悪い者、素行の悪い者、そんな悪人たちは掃いて捨てるほどに存在している。
一応、普通の人には見つけられないとは言われているが――。
魔術大国たるイースィンド、普通ではない者もそれなりの数がいるはずだった。
(やはり難しいのかしら?)
依頼者の少女は今さらながらに事態の深刻さに気づく。軽い気持ちで手伝いを頼んだが、それでどうにかなる話ではないのかもしれなかった。
姉妹たちも難しそうな顔でひそひそと話し合っている。これはもう、探索に長けた大人の出番だろうと思われたところで――。
ワハハと笑い、自信たっぷりに胸を張ってみせる少女がいた。
「いやいや、ここはわたしに任せて欲しいな!」
「おねぇちゃん?」
「わたしを誰だと思ってるの? 生まれてこの方十年間、ずっとこの街で暮らしてきた女の子なんだよ?」
コミエルはもったいぶるように「チッチッ」と指を振っている。そしてまたも不敵な笑みを浮かべると、心配そうな依頼者に大きくうなずいてみせるのだった。
「まあ、任せてくださいよ。この辺りはわたしの庭なんで」
ふふっと笑うとずんずんと先を進み始めるコミエル。周りの少女は慌てて彼女の背中を追い、通りにパタパタと軽い足音を響かせていく。
コミエルの歩みには一切の迷いがない。道の端々に目を光らせながら、少女は踊るような足取りで軽やかに路地さえも抜けていった。
「お客さんは本当にいい店、いい人材を見つけましたねー?」
「え、え? そうなのですか……?」
「そうなんですよ。わたしは言ってみれば路地裏マスター。この入り組んだ町内を完全に把握している唯一無二の存在です」
この辺りは地区管理員さえもたまに迷子になるのだという。主だった通りを進むだけなら問題ないが、路地まで調べるとなると一気に難易度が増すのだとか。
微妙な高低差、謎の行き止まり、中途半端な石段、統一感のありすぎる街並み。まるで人を迷わせるようにできている住宅街は、地元住人の協力がなければ、いや、路地裏マスターの助力がなければ、決して探索など行うことはできなかったはずだ。
「おばさん、こんにちは」
「あら、コミィちゃん。こんにちは」
「おじいちゃんもこんにちは」
「はい、こんにちは。今日はみんなでお仕事かな?」
「ええ、そんなところです」
優雅に笑って去っていくコミエル。路地裏マスターはご近所さんとのコミュニケーションも完璧だ。ひとりひとりが顔見知り、全員が知り合いだというマスターコミエルを、ここでようやく妹たちが尊敬の念を持って見つめ始めた。
「おおお……さすがねえちゃんだ!」
「うんうん。伊達にこの街で長く暮らしてないね」
「うう……お、お姉ちゃん、すごい、かも」
「ええ。まさに誇るべき長姉。我らがお姉さまですわ」
姉のスマートな言動にかわいい妹たちが色めき立っている。姉は姉で満更でもなさそうな顔をして、一行の先頭で鼻高々な様子を見せていた。
(いやー、まいったなー! ちょっと実力、見せすぎたかな?)
ふんふんと鼻息荒く、内心調子に乗っているマスター。今にも浮き上がりそうなスキップで、彼女は勝手知ったるご町内を縦横無尽に進んでいくのだった。
「姉は思った以上に街の地理に明るそうだな」
「フィーちゃんもここに住んでるでしょ? フーちゃんも」
「私はあまり外を出歩かないからな」
「わ、わたしも……普段は部屋にこもってる、から」
「あらら」
次女と三女、それに四女が街について話している。コミエルはそれを背中に聞きながら、やはり今回は自分の出番だと確信していた。
(この街に一番詳しいのはわたしだもんね!)
誰よりも先にこの街に生まれ、誰よりも長くこの街で育ったという自負がある。長姉としての立場もあるし、ここはひとつ、頼もしいところを見せますか!
と、少女がそう思っていたところで――。
「なあなあ、ねえちゃん」
「うん? なあに、パルちゃん」
「ちょっと聞きたいことがあるんだけどさー」
「いいよ。このわたしに何でも聞いてみて」
「じゃあ聞くけどさー」
男勝りな七女が淡々とした調子で問いを投げた。彼女は「ちょっと気になる」程度の気軽さで、ひょいと右手を持ち上げて言った。
「あれ。あそこにあんな道なんてあったっけ?」
「ええ?」
パルフェが指し示した先、そこには路地の入口があった。アパートメントに挟まれ、しかし、大人ふたりが余裕をもって行き交える小道。この街ではありふれた光景に、コミエルはふーと短く息をついて諭し始める。
「いい? パルちゃん。パルちゃんの目にはどれも同じ道に見えるだろうけど、実際は路地のひとつひとつに個性があって、それを掴めばあれが何なのか、どこに続いているのかも分かるようになり……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
長い沈黙だった。周りではしゃいでいた姉妹もじっと長姉を見つめている。
一体、コミエルはどうしたというのだろうか? 不審に思って声をかけようとする依頼者の前で、当の少女はだらだらと脂汗を流していた。
「このわたしの……知らない道があるだと……!?」
「「「えーーーーーーーーっ!?」」」
思ってもみない言葉だった。路地裏マスターコミエルはその肩書きに恥じない知識を持っていたはずだ。本人もそれを誇りにし、今まさに捜索に活かそうともしていたはず。
それなのに、まさか「知らない」などという言葉が出てこようとは――。
「増上慢……」
「権威の失墜……」
「いつわりの英雄……」
一部の妹たちがひそひそと声を潜めて話し合っている。漏れ聞こえてくる不穏な言葉に、コミエルは「ちっがーーーう!」と叫んでから弁明を始めた。
「ほんとに見覚えがない道なの! 少なくとも先週はあんな道なんてなかった! 路地裏マスターの名に懸けて本当だよ!」
身振り手振りを交えて必死に説明を続けるコミエル。その懸命な姿からは、嘘偽りやごまかし等は伝わってこなかったが――。
「いや、しかし」
「うーん?」
どうにもおかしな事態に妹たちも静かに混乱に陥っていた。果たしてあの道はなんなのか? 本当にコミエルの知らない道なのか? 答えの出ない難問に、少女たちがうんうんと頭を悩ませ始めたところで――。
不意に動き出す少女がいた。末っ子のクルール、物静かなわんこが、くんくんと鼻を鳴らして辺りの空気の匂いを嗅いでいた。
「ど、どうしたの、ルーちゃん?」
姉のフウカが服の袖を引いて問いかけている。しかしそれには答えず、クルールはくんくん、くんくんと匂いを嗅ぎつつ動いていた。
「何かおかしな匂いでもするのかい?」
「ひょっとしてあの奥に魔女の棲み処があったりとか?」
ノエル、アリシアの問いかけにも答えない。クルールはひとしきり匂いを嗅いだかと思うと、スッと路地を指差して舌ったらずな声で話し始めた。
「わう。あの道から、おねーちゃんのにおい、するよ?」
「「「えっ!?」」」
末っ子の言葉にギョッと目を開く姉妹たち。この場合の「おねーちゃん」とは依頼者である少女のことだ。その少女の匂いが道の奥から微かに感じられて、クルールは思わず辺りを嗅ぎまわってしまったのだろう。
こうなってくると「謎の道」の意味合いが少し変わってきてしまう。先ほどまではただの怪しい道だったが、いまは何かがあるかもしれない怪しい道だ。
怪しいは怪しいが、少女の探し物があの道の先にあるかもしれない。そんな考えが頭に浮かぶが、その怪しさにどうにも二の足を踏んでしまう。そんな八人姉妹たちの前で、しかし、依頼者の少女だけは変わらずおっとりと微笑んでいた。
「確かに、あの道の先からネックレスの力を感じますね。どうやら探し物はこの奥にあるようです」
「えっ? え、あ、いやー、それはどうなんですかね?」
「か、か、か、勘違いって説も、あるんじゃ、ない、かな……?」
すっかり腰の引けた長女と四女にくすりと微笑む。依然、余裕の態度を見せながら、依頼者の少女はスッと手を上げ例の道を指し示してみせた。
「大丈夫ですよ。あの道自体は特に危険なものではありません。それはそちらの方々にも分かるのではありませんか?」
「いや、それは~」
「そうではあるのだがな」
アリシア、それにフィーニスが言葉を濁しながらもうなずいている。勘のいいクルールも特に怯えた様子は見せず、分かりやすい殺気、分かりやすい邪気は道の奥からは感じられなかった。
見た目だけは他の路地とまったく変わることはない。しかしそれがかえって不自然に思え、姉妹たちの中に抵抗感を生じさせているのだった。
「気になるようでしたら、わたしひとりだけでも参りますが」
依頼者の少女はそう言って姉妹たちを促している。パルフェなどは今にも突撃しそうだったが、姉たちが必死にそうはさせじと食い止めていた。
君子危うきに近寄らず。怪しい場所では回れ右。教育の行き届いた少女たちは、持ち前のモラルから、今回の依頼を中断しようとさえ思っていたが――。
「い、行くよ! みんな!」
「「「姉さん!?」」」
意外にも声を上げたのは腰が引けていたはずのコミエルだった。未だに緊張した表情でいながらも、少女は例の路地へと果敢に一歩を踏み出そうとしている。
「ここで依頼者を見捨てたら末代までの恥! 危険な場所だと思うなら、なおさらこの子についていかなくっちゃ!」
「そこまでの話ではないと思うのですが……」
苦笑する少女の声は届いていない。長姉の宣言に妹たちはハッと顔を上げ、真実に気づかされたとばかりにコミエルに真剣な表情を向けていた。
「そうだね。うん、そうだよ!」
「たとえどんな魔境が待ち構えていようとも」
「依頼者を見捨てないのが、何でもお手伝い屋の本懐!」
「ウオオ! やるぜ! オレはやるぜ!」
「最後までこの道を突き進みましょうとも!」
「み、みんなで力を合わせて」
「おねーちゃんのお手伝い?」
「やり遂げてみせるぞおおおおおおおおおおおおお!!!!」
ごおお、と気炎を上げる姉妹たち。恐怖や戸惑い、不安を吹き飛ばした彼女らの前には、もはや敵など存在しないように思えた。
そこは一見、普通の街と変わらない場所に思えた。
石組みの建物。似通ったデザインのアパートメント。路地の脇には空き瓶、木箱が転がっていて、子どもが描いたのだろう、稚拙な落書きを道の途中で見ることもあった。
何の変哲もない住宅街の街並みだ。この広い王都、似たような場所を探せばいくらでも見つけることができるだろう。
ただ決定的におかしな点がいくつかあり――。
それゆえに、コミエルは妹たちと抱き合うようにして周囲一帯を警戒していた。
「ううううう……! どこだ……? どこだ、ここ……!?」
「お、おねーちゃん……おねーちゃん……」
「すっげーよなー、ここ。どこまで行っても路地が続くぜ」
「まるで学園にある迷宮のようですわね」
「あれもここまで複雑ではないが……」
「ふむ。だが、そこかしこに奇妙な気配を感じるな」
「幽霊? いや、精霊? よく分からないけど確かにいるねー」
「「ひえっ!?」」
怯えているのはどうやらふたりだけのようだ。おっかなびっくり先頭を歩くコミエル、その背中にくっついたフウカ以外は、みな興味深そうにこの場所のことを観察していた。
「うわっ!? なんか変なイキモンがあっちを通った!」
「スライム? それにしては人型だったようだが……」
「あら? 何やら愉快な調べがあちらの通りから」
「このおうちからお菓子のにおいがする……」
ぐう、とお腹を鳴らしたクルールにアリシアがクッキーをあげていた。ふらふらと進もうとするエリザはノエルに止められ、すでに突撃していたパルフェはフィーニスがやれやれとばかりに連れ戻しにかかっていた。
まるでおとぎ話のような不思議な街並み。どんなことも起きてしまいそうな奇妙な道で、コミエルはようやく依頼者の少女に振り返ってたずねた。
「うう……ここ、なんなんです?」
見るからに怪しく奇妙な道なんですけど!
そう言外に語るコミエルに、少女はやはり落ち着いた様子で伝える。
「ここは……そうですね。言ってみればグランフェリアの裏の道です」
「「「裏の道?」」」
「ええ。この世界にはいくつもこうした場所、こうした道があり、それは普通の人には決して認識されることはありません。たまに子どもが迷い込むことはありますが、大抵の場合は自然と元いた場所に戻されます」
「妖精郷のようなものなのかな? あれも特殊な場所だと聞いているが」
「まあ……ふふ、はい、そうです。その通りですよ」
何がおかしいのか、急にくすくすと笑い始める少女。若草色の髪をスッと整え、彼女は短く息をついてから道の話を再開していく。
「今回、みなさんにお手伝いいただいたのは、この空間の入口を見つけていただくという意味合いもあったのです。わたしはこの街に不慣れなので、みなさんがいた方が『あるはずのない道』を見つけやすいかと思いまして」
「最初からここに探し物があると知っていたのか?」
「いえ。ただ、あのネックレスも普通の品ではありませんので、見つかるとすればこうした場所ではないか、とは思っていました」
悪びれもせずにそう言う少女には、実際に悪意や邪気は一切なかった。この道に危険がないのも本当のことで、「さあ、失せもの探しを続けましょう」と彼女は率先して路地の先へと進もうとする。それに釣られ、姉妹たちもゆるゆると前に出ようとしていたが――。
「賢帝リンガリングス様のおなーーーーりーーーーー!!!!」
「「「!?!?!?」」」
突如として前方の十字路をパレードのような何かが横切り始めた。ブンブンと高らかに鳴り響く楽器の音、それに象やライオン、兵隊たちの行進が続き、見上げるような神輿の上には天を突くような筋骨隆々の巨漢の姿があった。
「わーーーーっはっはっはっ! わーーーーーっはっはっはっ!!」
あれがリンガリングスとかいう賢帝だろうか? 肩書きの割には豪快な姿しか見せず、ただわはわはと笑ってはハーレムやパレードと共に去っていく。
あとに残されたのは呆然と立ち尽くす姉妹たちだけだ。よほどいまの光景が衝撃的だったのか、誰も、何も、一言も発しようとはしない。
そんな少女たちを見て依頼者の少女は「うーん」と悩む。しかしすぐにもポンと手をつくと、コミエルたちを安心させるようにおっとりと笑ってこう言った。
「大丈夫ですよ。この道には危ないことなんてありませんので」
「「「ウソを抜かすなッッッッッッ!!!!」」」
噴火したかのようなツッコミだった。この異常な空間を安全だとのたまう少女に、姉妹たちはなおも激しい言葉を重ねていく。
「どっからどう見ればあの集団が安全なの!?」
「虎やライオン、屈強な兵士の姿もあったぞ!」
「いえ、あの方々はただの通行人で、この道自体に害はないかと」
「ああいうのがいる時点で危ないの! 危険なの!!」
「??? 表の世界もそれは同じことなのでは?」
「ぎゃー!? こ、この子、天然さんだー!?」
うわー、とか、ひー、とか叫びながら、姉妹たちは今さらながらに依頼とこの場所、ひいては依頼者の危うさについて理解していた。
何が謎めいた少女だ。何が謎めいた依頼だ。ドキドキ、ワクワクはすぐにも心の彼方に去り、代わって湧いてきたのは「早く終わらせたい」という強く切実な気持ちだった。
「な、何かが起こる前に終わらせるしかない……!」
青ざめた顔でこくこくとうなずく姉妹たち。彼女らはギン! と強い目で依頼者をにらむと、彼女を獲物のように担ぎ上げ、ていやていやと力を合わせて運び始めた。
「あら? あ、あ、あら~?」
一致団結、姉妹たちは荷馬車のようになって進んでいく。しかしその間も出るわ出るわ、数々の異形や怪現象が彼女らの前に現れ続ける。
「キ、キノコが! 歩くキノコが!」
「羽根の生えた手紙の群れが……まるで蝶のように……」
「ひっ!? な、なんで街中に大きな樹が……!?」
「なんかやべーよなー。小人サイズの飯屋があったぜー?」
「振り向くなー! ネックレス以外には目もくれるんじゃあない!」
気を散らせる妹たちにフィーニスが檄を飛ばしている。ネックレス。そう、ネックレスだ。それさえ見つかればこの異常な空間から逃げ出すこともできるのだ。ただそれだけを想い、姉妹たちは裏の道を走り続け、そして――。
「はあっ、はあっ、はあっ!」
精根尽き果てたとばかりにコミエルたちはその場に倒れ込んだ。裏の街のどことも知れない場所、そこにはまるで公園のような広場があった。
そう広いとは言えない場所、その奥は段があり、ステージのようなものも存在する。ベンチや水飲み場、遊具の類はどこにも見えない。知っているようで知らない空間で、しかし、もう動けないとばかりにコミエルたちは倒れ込んでしまって動かない。
「あ、あの……?」
依頼者の少女はすでに解放されて地面の上に立っている。もう自由に動いていいということだろうか? 聞き出そうにもコミエルは荒く息をつくばかりだ。
「ええと……?」
きょろきょろと辺りを見回す少女。フィーニス、パルフェ、クルールなどは元の調子に戻っていたが、だからと言って彼女らに話を聞いてみるつもりもなかった。
やはりここは代表者たるコミエルを通してこそだろう。無為無策のように見えたが、実は何かしらの考えがあったのかもしれない。そう思った少女は、やはりコミエルの復活を待つことにして――。
「え?」
ふと見ると、水色髪の少女がぷるぷると前を指し示している。釣られてそちらの方を見ると、少し小高い、ステージのような場所を指しているのが分かった。
「あちらになにか……?」
言いかけて口を閉じる。これまで感じていた力がより明確に感じられる。まるですぐそばに件のネックレスがあるかのようで――いや。
「まあ!」
ようだ、ではなく、実際にそこに探し物が存在していたのだ。翡翠色の小さな宝石がはまった年代物のネックレス。それがステージの中央に光っているのがここからでも見えた。
慌てて駆け寄る依頼者の少女。どうやら間違いないようで、彼女はすくい上げた手をそのままギュッと胸へと押しつけるのだった。
「ああ、ありがとうございます。ようやくこれが見つかりました」
「それで間違いない?」
「ええ、間違いありません。まさにわたしが探していたものです」
復調し、近づいてきていた姉妹たちに、少女は花のような笑顔を向けた。
どうやら困っていたのは本当だったようで、彼女はネックレスをハンカチで包むと、それを大事そうにポシェットの中へとしまっていた。
「あれ? 首にかけるわけじゃないんだ」
「え? え、ええ。これはただの装飾品ではありませんので」
「ふーん……?」
かすかな疑問は浮かんだそばから消えていった。元よりコミエルは深く考える性質ではなく、その場その場を勢いで突破していくような少女だった。
「まあ、何はともあれ!」
「これで依頼完了、ということになるのかな?」
「はい。みなさん、ありがとうございました」
「はーーーー、よかったーーーー。街を走り回った甲斐があったよー」
「ぶ、無事に見つかって……よかった、ね?」
「だねー。ほんと、当てずっぽうな捜索だったけど!」
からからと明るい声で笑うコミエルに、依頼者の少女もたまらずとばかりにくすくすと笑っていた。時刻は夕闇迫る午後五時前。日が暮れる前に仕事を終えられ、フィーニスやアリシアもほっと小さな胸を撫で下ろしている。
「ここから帰るのが難儀ではありそうだがな」
「あっ、それに関してはお任せください。わたしの術を使えば入ってきた場所に移動できますので」
「えっ、そうなの? 助かるー」
「興味深いスキルだね。よければ教えていただいても……」
話を長くしそうなノエルをフウカがそっと抑え込んでいた。毛布に包まれる妹たちに微笑み、コミエルは改めてとばかりに依頼者の少女に対して向かい合った。
「それじゃ、早速お願いしようかな?」
「私たちを元の場所へと戻してくれ」
「よろこんで」
快く承諾し、少女は小さな手をスッと前方に広げてみせた。そこから広がる紋章は花の形にも似て、一行はしばしその美しさ、荘厳さに言葉を無くして見入っていた。
「迷いの森。静謐の神殿。隠された城。秘密の庭園。世を惑わせる者に出口なし。善く生きる者に壁はなし。森羅万象、一切の理をもって我は願う。この者たちを、願う場所、いるべき場所、元の暮らしに戻さんことを……」
祝詞にも似た詠唱に合わせ、風が渦を巻いてコミエルたちを囲み込んでいった。それは少女の髪の色にも似た若草色の風だ。どこか花の香りも感じる風は、徐々に、徐々にと姉妹たちを包み込んでいき――そして――。
「………………」
「………………」
「………………」
「…………おお」
「元の場所じゃん」
淀んだ視線が一斉に少女に注がれる。それを受け、少女は火のついたような顔で真っ赤になって弁明を始めた。
「い、いえ! 違うんです! 違うんです! こ、こんなはずじゃないのですが」
「でも現に何も起きなかったわけだし」
「未だにわたしたちはここにいるわけですし」
「もしかして、あれ、オリジナル詠唱だったのか?」
「違うんですーーーーーっ!?」
目をぐるぐるとさせて今にも煙を上げだしそうな少女。そんな彼女を哀れに思ったのか、フィーニスはため息交じりに姉妹たちの意識を自分に向けさせた。
「こら、客人をからかって遊ぶんじゃない」
「だってー、フィーねえー」
「だってじゃない。拍子抜けしたのは事実だが」
「うぐっ!?」
「ああ、すまない。事実だが、原因は別にありそうだ、と言いたかったのだ」
「「「え?」」」
ステージの上から辺りを眺める姉妹たち。賢帝のような闖入者はいないようだが、どこかおかしく、どこか違和感があるようにも感じられる。
「そういえば、随分と暗いような……?」
広場に繋がる路地の奥からじわじわと闇が迫ってくるのが見える。それはやがて広場の中にも入り込んでくると、まるで立ち上がるように人の形を成していくのが見えた。
「わわっ……!?」
「なんだ、あれ!?」
影人間とも言える存在がゆっくりとコミエルたちに迫ってきていた。いや、正確には依頼者の少女に顔を向け、その泥のような手を伸ばしているのが分かる。
「もしや……わたしがここに来るのを待っていた……?」
その憶測に答える者はいない。影人間たちはさらに数を増し、少女に向かって鈍重な歩みを続けている。
「すみません、どうやらわたしは謀られたようです。この『カギ』を使い、庭園への扉を開くことこそ、彼らは望んでいたのでしょう」
「え? つ、つまり、どういうこと?」
「落とし物を釣り餌として利用された、ということです。彼らの予想に反して別の場所に移動しそうになったので、実力行使に打って出た、というところでしょうか」
「な、なるほど~?」
何も分からなかったが、とりあえずうなずいてみせるコミエルだった。そんなお調子者とは対照的に、少女は深刻そうな表情でサッと辺りに目配せをしていた。
「巻き込んでしまって申し訳ありませんが……安心してください。ここはわたしが引き受けますので、みなさんは元来た道からお戻りを」
ブン、と音を立てて少女の両手が光り始めた。迫りくる影の大軍、その数を前にしてはあまりに儚く頼りない光だ。それでも彼女は持ち前の責任感から、すぐにもステージから飛び出しそうになって――。
「って、わああ!? 無茶はダメ! ダメですよう!」
「いくら何でも多勢に無勢なんじゃないかな?」
「やぶれかぶれはかあちゃんもダメだって言ってたし」
「そ、そもそも……戦った経験が、あまりないんじゃ……?」
「うっ……!」
痛いところを突かれて止まる少女。実際のところ、自分が実戦向きだとは本人でさえも思っていなかった。あの影人間も十体程度なら問題ないが――今や路地の奥まで現れ出でて、その数は優に百体を超えつつあった。
「こ、このままだと、逃げることもできなくなってしまいます!」
「逃げる? なぜ?」
「なぜって……あれは負の想念という魔物で、レベルは少なくとも50はあって……」
「思ったより少ないね?」
「負の想念。名前の割には実態があるようだが」
「シャドウゴーレムのような魔物なのでは? あれも物理攻撃が通用しますが」
「おー、それだ! エリザはやっぱり賢いよなー」
「ふわあ、ふ」
「ええええええ……!?」
目の前の怪異に怯むどころか、きゃいきゃいとおしゃべりを始めている姉妹たち。中にはあくびを浮かべてうとうとするわんこまでいて、今度は少女が非現実感、非日常感を味わわされる番だった。
「い、いや、あれは、本当に魔物で、結構厄介な相手で!」
「それ以上はいいだろう。もはや問答をする時間もない」
「そ、そうです! だから早く、みなさん逃げて……!」
「いや、その必要はない」
「え?」
「なぜならここで……殲滅するからだ!!」
バン! 裏拳一発、手近な影人間が瞬時に魔素の霧へと変わった。
まるでスプレーをかけるように広場の中へと広がっていく。それをぼんやりと見上げていた影人間たちは、一体、また一体と見る間に数を減らしていった。
「フリーライフ・プティ、出陣だーっ! 目的は依頼者の安全確保! 失せもの探しはおうちに帰るまでが依頼だよ!」
「「「おー!」」」
いつの間にやらメガホンを取り出したコミエルが指揮を取っている。それに合わせて、竜人の娘が、白き聖女が、冒険者が、貴族が、それぞれの得物を構えて飛び出していった!
「はっ! ふっ!!」
圧巻なのは次女フィーニスの武術だった。彼女が腕を、それに尻尾や脚を振るう度に影は魔素へと砕けていった。
「負の想念よ」
「浄化の光を」
「「受けなさーい!」」
三女のアリシアは分身と背中合わせで白い光を放っていた。影人間たちは近づくことさえできず、まるで漂白されたように白く染まって消えていく。
「ううう……やだ……めんどくさい敵……」
意外なのは四女フウカの忍術で、彼女は壁を使って多角的な軌道を見せると、姉妹たちの死角に湧き出す影に鋭い苦無を投擲していた。
「なるほど、実に興味深い存在だ。私の図鑑がまた充実していくぞ」
五女ノエルは「敵を本に閉じ込める」という戦法で影人間たちを消去していく。自在に宙を舞う図鑑は一種異様な雰囲気を持っていて、ともすれば影人間よりも余程恐ろしい存在だった。
「パルフェさん、そちらに行きましたわよ?」
「おう! オレに任せろ!」
「せえ、の!」
「ディアブロ・ロッソ・ブレイカーーーーーッ!!」
六女エリザベート、そして七女パルフェは素晴らしい連携を見せていた。エリザが炎を空へと撒いて、それをまとってパルフェが鋭く、力強い跳び蹴りを放ってみせる。影人間はその余波だけで焼き払われ、辺りは一瞬、昼間よりも輝いて見えた。
「……………………」
【……………………】
「……………………」
【……………………】
「………………むにゃ……すう」
【うぎゃーーーーーーっ!?】
八女クルールは寝ていた。ただ寝ているだけで、なぜか周囲の影人間たちが身悶えしながら消滅していく。彼らには尊すぎたのだ。天使と呼ばれた獣人少女の寝姿など――。
「はああっ! はっ! せいっ、はあっ!」
「たあ! とあーっ!」
「ううう……やあ!」
「「覚悟―っ!」」
広場に響くかわいらしい声。辺りを埋め尽くしていた負の想念は、たちまち少女たちの経験値へと変わってしまった。
依頼者の少女は腰を抜かしてそれらの光景を眺めるばかりだ。いや、どうやらそれにも続きがあるらしい。最後に現れた巨大な影、それに対して姉妹はコミエルを中心に力を集めて高めている。
「よーし! これでフィナーレだ!」
「「「おお!」」」
「スーパーミラクルフェアリーバスター!!」
【グオオオオオオ……!】
「ええええええええええええ……!?」
そして放たれた必殺の光線、姉妹の絆とも言える光の中――。
やはり依頼者の少女は、呆然となってその光景を眺めるばかりだった――。
「今回は本当にお世話になりました」
「いえいえ。それがプティのお仕事ですから」
「何でもお手伝い屋さん、ですか。誇らしい仕事だと思います」
「いやあ、そんな! そんなことは、あるかも、ですけど!」
夕焼けに染まる街の中、フリーライフの店舗の前でコミエルがくねくねと体をくねらせていた。
目の前には依頼者の少女、そしてその周りには妹たちの姿もある。あの影人間たち、裏の世界の悪漢たちを見事に撃退した一行は、こうして無事に店の前まで戻ってきていた。
「少なくて恐縮なのですが……こちらが報酬です」
「確かに。では、こちらにサインを」
「はい」
ボードの上でサラサラと筆を走らせる少女。契約通りの報酬はすでに金庫番の手に渡り、サインも実務担当のフィーニスの手に戻されている。
これで依頼は終了、すべてが終わりを迎えたわけだ。結果的にはご町内を走り回り、最後に暴れただけの小さな大事件。しかし少女たちは初めての依頼に充実感を覚え、その顔にそれぞれ満足そうな笑みを浮かべていた。
「それじゃ、オレ、家に帰るわ!」
「わたくしも迎えが来ておりますので」
「あ、うん! じゃあね、パルちゃん、エリちゃん!」
「わたしも……すぐそこだけど……」
「私も家に帰るとするよ。姉さん、また明日」
「また明日ね、フーちゃん、ノエちゃん」
笑顔のままに妹たちはそれぞれの家へと帰っていく。それを見送るコミエルに、そっと依頼者の少女が近づいていく。
「コミエルさん。今回のこと、本当にありがとうございました」
「え? ああ、もう、いいんですよ? 何と言っても仕事ですから!」
「ふふ、そうですね。でも、感謝の気持ちは別に贈っても構わないのでしょう?」
「ふえ……?」
呆気に取られるコミエルに、そっと少女が小さな宝石を握らせる。そしてその両手を包んだまま、少女は幸せそうに笑って言った。
「偶然この街を訪れ、偶然大切なものを無くし、偶然あなたのような人間と出会う。これも運命と言うのでしょうね……森にいた頃には分からなかった感覚です」
「え? え?」
「コミエルさん、またお会いしましょうね? 立場上、頻繁に訪れることはできませんが……きっとわたし、この街に遊びに来ますから」
「あっ、は、はい! そりゃもう、いつでも……」
「あ、そうだ」
「えっ?」
「名前」
「えっ!?」
「まだ名前を言ってなかったな、と思いまして」
くすくすと笑う少女に、コミエルはなぜか緊張して固まってしまっていた。昼間の快活さはどこへやら、人形のように立ち尽くすコミエルに、少女はいたずらっ子っぽく笑ってその耳にささやいていた。
「わたしの名前は……」
「…………っ!?」
果たしてそれはどのような名前、どのような正体だったのだろう。ギョッと目を見張るコミエルをくすりと笑い、少女は夕焼けに溶けるようにして消えていった。
明かされた名前、それに最後に見せた蝶のような羽根――。
まだぼんやりとする頭をぶんぶんと振って、コミエルは気分を切り替えるように「さーて!」と大きく声を上げた。
「それじゃ、店じまいをしますか!」
夕日に照らされた街の中、コミエルは手早く立て看板などをしまっていった。小さな事務所ゆえ、それだけで店じまいは済んでしまったが――。
今日の余韻を味わいたかった少女は、ついつい店先の掃除なども始めてしまった。
「ふんふーん♪」
箒を持って目につく場所をサッサと掃いていくコミエル。依頼を終えた彼女はどうにも気が大きくなっていて、無性に何か体を動かしたい気分にもなっていた。
「どうだ、見たか! わたしだって依頼を請けることができたもんね!」
ビシッと箒を構えてみせる。そんなコミエルが思い浮かべているのは父親のこと、あまり仕事を手伝わせてくれない父親のことだった。
「お前には無理だ、なんて言えないようにしてやる~♪」
自分はもう十歳だというのに、彼はいつも仕事からコミエルを遠ざけることばかり考えていた。子どもは勉強するのが仕事だ、とか、今しかできないことがある、とか、まるで煙にまくような態度がコミエルはあまり好きではなかった。
「しかし! それも今日までだー!」
プティを足がかりにキセイジジツを着実に増やしていってやる。幸いにして父親も母親も出張中、好き放題にやるなら今が絶好の好機だった。
父が帰ってくるにはあと数日かかるだろう。母が帰ってくるのはそのあとで、そこまでは自分がこの店を動かせるはずだ。
そう、今のこの家には両親がいない。お手伝いさんはいるが妹たちの姿はなく、しばらくは自由に動けるはずで――。
「…………………」
なんだか急にさびしくなってきた。家路につくご近所さんたち。家族のもとへ帰っていった妹たち。それを想うとキュッと胸が締めつけられてしまう。
こんな夕暮れの街でわざわざ外にいたのが間違いだった。コミエルは箒を胸に抱くと、大きなため息をついて掃除道具の片づけにかかった。
「はあ~あ」
体が鈍いのを自分でも感じる。箒やバケツがいつも以上に重たく感じられる。
今さらながらに疲労感が湧き上がってくるのを感じた。コミエルはのろのろと動きながら、ようやく事務所の中へと戻っていこうとして――。
「よう」
「…………?」
「お前も仕事上がりか? コミィ」
「ん……? って、え? あれ……!?」
夕日を背にして誰かが近くに立っている。それはひょろりとした黒髪の男だ。旅の装束を身にまとい、足元は土や砂埃で汚していた。
声は聞き覚えがありすぎるほどにある。その顔も見覚えがありすぎるほどにあった。少女をコミィと呼ぶ人間のひとり、そのうちの男性の方の名をコミエルはつんざくほどの大声で口にしていた。
「お、お父さん!?」
「おー」
十歳児の叫びに頭をくらくらさせながら男が答える。
佐山貴大、三十二歳。フリーライフの本来の主が、いま、その店へと戻ってきていた。
「えーーーーーーー!? なんで!? なんで!? お仕事、もう終わったの!?」
「ああ、終わったよ。ちょっと手こずったけど案外早く終わった」
「なに!? 今度は何と戦ったの!?」
「戦いじゃねえよ。なんというか、こう……浮気調査? みたいなことをやらされてな。天界と魔界を行ったり来たりしてたんだ」
「へえーーーーー……!」
目をキラキラとさせるコミエルは夕闇の中でも輝いて見えた。それを眩しそうに見た貴大は、いつの間にかつかまれていた腕を揺らしながら促していた。
「立ち話もなんだから、さっさと家の中に入ろうぜ」
「あ、うん! ごめんね!? すぐ片づけるから……って!」
「うん?」
「緊急【コーーーール】! 全員集合! お父さんが帰ってきたよーーーー!!」
「「「ええええええええーーーーーーーっ!?」」」
コミエルの手から伝わってくる妹たちの声。その大音声にまたも頭をくらくらさせながら、貴大は苦笑いを浮かべてこう言った。
「お父さん、出張明けなんだけどな」
「大丈夫! 静かにしてるから! 挨拶だけで終わるから!」
「そうなった試しがないんだけどな」
はあと短く息をはいて笑う。これも子持ちの苦労かと思い直しながら、貴大は改めてコミエルを促して言った。
「じゃあ、みんなが来るまではゆっくりしようか。なんか言いたいことがあるなら今のうちに言っといた方がいいぞ?」
「あっ、あっ、じゃあ、今日の依頼のことについて話す! プティの初依頼のことについて話すから!」
「え? マジで何でもお手伝い屋に依頼が来たの?」
「うん、そうだよ。ご近所さん以外の人に頼まれたんだから」
「へえー……で、どんなだった?」
「あのね……」
秘密を打ち明ける子どものように、そっと父親に身を寄せて話し始めるコミエル。話ながらもふたりは店の中へと入っていき、すぐにも住居部分、いつものリビングの方に優しく温かな光が灯った。
すぐにもここには多くの人が集まってくるだろう。母親のユミエルも予定を終えて戻ってきて、十日も経てばここは元通りの場所へと戻るはずだ。
友人たちとの拠点に使い、かつては孤独の底へと沈んだこともあるフリーライフ。この建物は、今は明るくにぎやかな空気に満たされていた。




