ニャディアの選んだ未来
綺麗な街だとニャディアは思った。
整然とした通り。見上げるような立派なお屋敷。街灯のデザインは花のようで、そこに灯る明かりは幻想的なまでに美しい。
道は広いのに人がいない。数台の馬車が余裕をもって行き交っている。ここは本当に、あのごちゃごちゃとした下級区と同じ街なのだろうか?
ニャディアが思わず呆けていると――横から軽く手をつかまれた。
「こら。ぼんやりすんなよ」
見上げると、そこにはスーツ姿の貴大がいた。彼は少し怒ったように、だけど心配そうな目でニャディアのことを見ている。
(そうだ)
自分はいま、貴大と一緒に貴族の街まで来ているのだ。晩餐会の招待状、それを携えて馬車に一時間半も揺られてきた。
貸衣装のふりふりのドレスにも着替えている。そのことを思い出したニャディアは、こくりとうなずき、貴大の大きな手を握り返した。
「それじゃ、行こうか」
「…………」
貴大に手を引かれ、ニャディアは「ティオール子爵家」の屋敷へと入っていった。前庭のないタウンハウス、そのホールには一人の青年の姿があって――。
「やあ、待っていたよ、ナディア」
にこやかに出迎えてくれた黒髪の青年。彼こそがニャディアの兄、サリスだ。
ティオール家の現当主。人当たりのいい善良な地方領主。貴大とルードスから彼の話は聞いていたが、こうして直に会うのはこれが二度目だ。これまでも何度か訪ねてきてくれたのだが、その度にニャディアは逃げたり隠れたりを繰り返していたのだ。
それなのにサリスは怒らなかった。失礼な子どもを叱りつけようともしなかった。もしかしたら本当にいい人なのかもしれない。貴大の陰に隠れながら、ニャディアはそっと兄の顔をうかがう。
「緊張しているのかな? それとも、僕のことが怖いのかい?」
「う、ううん」
「そっか。それを聞いて安心したよ」
そう言って笑みを深くするサリス。その目に確かな親愛を感じ、ニャディアは意外なような、ほっとするような、そんなちぐはぐな感情を味わっていた。
「それでは、皆様はこちらに……」
執事の老人に案内され、貴大とニャディア、そしてサリスは食堂へと向かい始める。いよいよ晩餐会が始まるのだ。そしてそこでは、ニャディアの「これから」について話し合われる予定だった。
「……ん」
わずかにうつむくニャディア。そんな少女の頭を撫でて、貴大は笑ってこう言った。
「まあ、いいようになるさ」
その微笑みに勇気づけられ、少女もいよいよ覚悟を決めるのだった。
一般論ではあるが――。
通常、貴族が私生児を引き取ることはない。それが獣人で女児ならなおさらのことだ。
色街で生まれ、そこで育ったニャディアはそのことをよく知っていた。世の中は物語のようには甘くなく、貴族は人が思う以上に冷徹な生き物なのだと。
そんな貴族が自分を温かく迎えるはずがない。今回のことはきっと何かの手違いなのだと、ニャディアは今でもそう思っていたのだが――。
「いやあ、はっはっはっ! そうでしたか! それはお気の毒に!」
「いやいや、マジで大変だったんですって、あれは!」
遂に始まった晩餐会、そこでは終始和やかな空気が流れていた。
サリスは笑っている。貴大も笑っている。ふたりは心底楽しそうに、「貴大が王立学園に就任したきっかけ」などを話している。
サリスも学園の出身、ある意味では共通の話題であったのだろう。有名な講師と話ができてよかったと、若き子爵様は非常に満足されたご様子だった。
しかし、厳しい話になるのかと――。
葬式みたいな雰囲気になるんじゃないかと――。
そう構えていたニャディアは完全に肩透かしだ。彼女は料理にもほとんど手をつけず、はしゃぐ男たちはまんまるな目で見つめているのだった。
「あ、ああ、ごめん。君のことを忘れていたね」
「……………………」
「怒らせちゃったかな。本当にごめんね」
話を終えたサリスがようやくニャディアに話しかけてきた。
軽い。やはり軽い空気だ。重苦しい雰囲気はどこにもなく、これから厳しい話をする気配はどこにもなかった。
「なんかいい感じだよな?」
場の空気を読み、貴大もそのように言ってくれた。
この調子なら、ニャディアの「これから」についてもきっといい話が聞けるだろう。お酒が入ったことも手伝って、貴大の表情は明るく、その頬はわずかに紅潮していた。
(……ほんとうに?)
本当の本当に、いい話が聞けるのだろうか。ニャディアが微かな期待を抱き始めたところで――いよいよ、サリスが本題について切り出してきた。
「さて、この子のこれからについてのお話ですが……」
「あっ、はい!」
(…………!!)
緊張の一瞬である。緩んでいた空気が一気に引き締まった。
さすがのサリスも微笑みを消し、真面目な顔で貴大とニャディアの方を見る。
「僕はこの子を引き取ろうと思います。それは最初に伝えましたね?」
「はい。俺も聞きました。でも……」
「きちんと僕の妹として認めますよ。腫れ物のようには扱いません」
「そ、そうですか!」
「もちろん、何不自由ない暮らしをさせるつもりです。あまり贅沢はできませんが、清潔な服、温かな食事、柔らかなベッドは約束しますよ」
「だってさ、ニャディア!」
望外の条件だった。娼婦の子ども、獣人の女児、身分の低い者には望めないような好待遇だった。
予想外の言葉にニャディアはまたしても呆けてしまう。目を丸くする少女に、サリスは柔らかく微笑んで話を続ける。
「君が望むなら家庭教師もつけるよ。やりたいことがあるならできる限り検討しよう。僕は家族として、君を迎え入れるつもりなんだ」
その表情に嘘はなかった。サリスはどこまでも誠実な男だった。
これでもう、ニャディアの幸せは保証されたようなものだ。あとは彼女が首を縦に振るだけでいい。それだけで貧困の苦しみ、空腹の切なさとは無縁の世界に上がっていけるのだ。それは願っても得られない幸福というもので、これを逃せば次の機会はない、そう思えるようなものでもあった。
差し出された手をつかむべきだ。ニャディアの理性がそう告げている。子どもの頭で考えても分かることなのだ。そんな自明の理に、しかし、彼女は――。
なぜか、強い抵抗感を覚えていた。
「あ、の」
「うん? なんだい?」
「そこって……おひるねはでき、ます、か?」
「お昼寝? もちろんできるとも」
「へいの上は、あるいていい……ですか?」
「塀の上? い、いや、それは……どうだろうね」
「まわりに、友だちはいますか……?」
「それは……」
「わたしに……自由は、あります……か?」
「ナディア……」
そこで話は一度終わった。
いつしかティオール家の食堂に、重たい空気が立ち込めていた。
舌ったらずな拙い言葉、そこに込められた意味をサリスも、そして貴大も間違いなく理解していたのだ。ニャディアの求めるものとは何なのか? 彼女にとっての幸せとは何なのか? それがわずかなやり取りで透けて見えてくるようだった。
「お母さんは……わたしのほんとのお母さんは……きぞくの家に行きたくなくて、まちにのこって、くらしていたって……ききました」
「…………」
「わたしもまちでくらしたい、です。みんなや、せんせいや、タカヒロたちがいるまちで……くらしたい、です」
「…………」
「お兄ちゃんが……やさしい人でよかったなって、そう思うけど……」
「ナディア。もういいんだ」
「にゃ……」
「もういいんだよ」
サリスは人のいい笑みを消していた。しかし、これまでにない真剣な表情をしていた。
自戒や反省を大いに含んだ硬い顔で、サリスは再び口を開いた。
「僕は思い違いをしていたようだ。貴族になれば幸せになれる。裕福になれば幸せになれる。そう信じて疑っていなかったんだ」
「お兄ちゃん……」
「多分、君が思っている通りだ。貴族の生活には不自由がないけど自由もない。それに薄々気がついていたんだね?」
「ん……」
「だとしたら、僕の申し出に大いに戸惑ったことだろう。ありがた迷惑ってやつだろうね。道理であんなに逃げられるわけだ」
力なく笑い、サリスはニャディアをじっと見つめた。
その胸中を少女は思い量ることができなかったが――事ここに至って、まだ自分のことを考えてくれている。そのことだけはしっかりと、幼い少女にも伝わっていた。
「サヤマさん」
「はい」
「僕はナディアを特別扱いできません。街で暮らしたい。しかし貴族としての恩恵は受けたい。そんな甘い話を認めるわけにはいかないのです」
「それは……分かります」
「おそらく父と義母もそうだったのでしょう。義母は街での暮らしを望んだ。その代償として貴族の支援を受けられなかった。僕にとっては納得のいく話です」
「はい……」
「血縁関係は認められません。認めればこの子はティオール子爵家の娘です。そうなってしまえば、もうこの子はブライト孤児院には戻れないのです」
だから。
そこで区切って――サリスは続けた。
「君はナディア・ティオールじゃなくて、ニャディア=ブライトなんだ」
「……うん」
「僕の妹じゃない。身寄りのない孤児なんだよ」
「……うん」
「だけどそれが……君にとっての幸せなんだろうね……」
「……うん」
最後の方はニャディアは静かに泣いていた。サリスの目にもわずかに涙が浮かんでいた。
しかし兄はそれをこぼさず、貴大の方に向き直ると、居住まいを正してこう言った。
「貴族として、領主として、何の実績もない個人に支援を行うことはできません。僕はこれから領地に帰り、もうこの子に会いに行くこともないでしょう。なので……なので」
この子のことを、これからも見守ってあげてください――。
そう言って、若き貴族は深々と頭を下げるのだった。
青い空。白い雲。わずかに混じった潮の匂い。
春の王都はいつも通り、穏やかな喧騒に包まれている。
海鳥の声を、そして遠くに響く船員たちの声を聞きながら――ニャディアもまたいつも通り、孤児院の屋根でのんびりごろごろ昼寝をしていた。
「…………」
寝転びながら思う。本当にこれでよかったのかと。
あの晩餐会から三日が経ち、サリスは自分の領地へと帰っていった。そこに自分もついていくべきではなかったのか? ニャディアは何とはなしにそんなことを考えている。
「にゃう~……」
貧困で母を亡くした彼女は、底辺の暮らし、貧乏の辛さを身に染みて分かっている。
お金がないのは悲惨だ。豊かでないのは悲しいことだ。あの頃の辛さを思い出し、ニャディアはギュッと目元を押さえる。
しかし、だからと言ってサリスを追いかけるような気にはならなかった。貴族になれなかったことに後悔はない。ここでの暮らしも悪くないものだ。気に入っている、と言っても過言ではない。できればずっとこの街で暮らしたいとさえ考えているが――。
「な~……」
次々に湧いてくる複雑な気持ちを、ニャディアはどうにも持て余していた。
『……ヒロ~。タカヒロ!』
『おわっ!?』
『なにそれ? なにそれ?』
『魚だよ、魚。そこの漁港で買ってきたやつ』
『焼くの? 煮るの? それとも干物?』
『焼くんだよ。危ないからちょっと離れてろ!』
『は~い! わうわう~!』
『聞けよ!』
「…………?」
ニャディアが物思いに耽っていると、やにわに裏庭の方が騒がしくなってきた。
ひょいとのぞき込むと、そこにはグリルを持った貴大、そしてそれにまとわりつくクルミアの姿が見える。
(なんでやき魚?)
ニャディアが疑問に思っていると――。
「いいか、クルミア。ニャディアのやつはいま大変な時期なんだ」
「うん」
「一人で考える時間も必要だろう。あんまりべたべたするんじゃないぞ」
「わかった!」
「サポートはこっそり、さり気なくだ。たとえばこうして、おやつに好物の焼き魚を用意してだな……」
(ええ……)
ニャディアは思わず呆れてしまった。
小さな子どもじゃあるまいし、焼き魚一本で機嫌が上下するわけがない。
自分はいま、もっと深いことについて考えているのだ。それがたとえ大好物の魚であっても、食欲なんてとても出てくるはずもなく、
くぅ~。
「……………」
お腹が鳴った。切なく鳴った。魚がジュッと焼ける匂いに、ニャディアのお腹はくるくる小さな音を立て始めた。
同時に感じる空腹感。そういえば今日はあまり食べていなかった。元々小食の性質ではあったが、これはいけない、たまらない。
いつの間にか見入っている自分に気がついた。「深いこと」を考える時間はどうなったのか。我ながら笑えてくると、ニャディアは自嘲気味に薄く笑う。
「……ふふっ」
なんだか妙におかしかった。単純な貴大、騒々しいクルミア。自分の今いる環境も、何もかもが面白おかしく、滑稽なものに感じられた。
自分は何を思い悩んでいたのか。自分はニャディアだ。ニャディア=ブライトだ。これからも続く日常を自分は求めた。その結果の中にいて、「選ばなかった未来」を考えていてもしょうがない。
いつも通りの自分に戻ろう。これからの毎日をここで生きていこう。
そう決めたニャディアは、ほんの少しだけ大人になって――。
しかし、いたずら子猫のように、貴大の分まで焼き魚をかっさらっていくのだった。
ニャディア編はこれにておしまい。次回、待望のおめでた編。




