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青天の霹靂

 子どもが十歳を迎えること。それはひとつの節目であった。


 危険の多いこの世界、都市部であっても「育たない子ども」は多くいる。病気に罹り、事故に遭い、ちょっとしたことで命を散らしてしまう子どもたち。昨日まで元気にしていたのに、朝起きてみたら冷たくなっていた。そうしたことも稀に起き得るこの世界で、十年間命を繋いできたことは、やはり節目とすべき事柄だった。


「今日からあなたもお姉さん。年長組の一員ね」


 妙齢の女が優しく微笑む。その視線の先にいるのは、黒猫獣人の女の子だった。


 女の名はルードス=ブライト。少女の名はニャディア=ブライト。共に孤児院で暮らすふたりは、前者がお母さん、後者が子どものような関係だ。もちろん血の繋がりはないが、院長であるルードスは、素っ気ないニャディアにも等しく愛を注いでいた。


「背も少し伸びたかしら? 段々と大人びてくるわね」


 また微笑むルードス。その顔を無表情に見上げながら、それでもニャディアは黙って頭を差し出した。すぐにも伸びてくる手。ニャディアの黒髪に、ルードスの手が柔らかく添えられる。


「ニャディアにはどんな仕事が向いているのかしら? お魚が好きだから魚屋さん? 足が速いから郵便屋さん? それとも別の、思ってもみない仕事の方がいいのかしら」


 ニャディアの頭を撫でながら、ルードスは目を細めていた。子どもとは可能性の塊だ。どんな方向にも進むことができて、そしてそれは、周囲の予想を超えることもままあった。


「うん、何でもいいわね。あなたは何になってもいいの。私はそれを応援するわ」


 どこまでも優しく、ニャディアの頭を撫でる院長先生。その春の日のひだまりのような、暖かな愛に包まれたニャディアは――。


 それがくすぐったく思えたのか、ふっとどこかへ行ってしまった。


「まあ。ふふっ」


 ひとり院長室に残されたルードスは、やはり微笑んでニャディアの去った方を見守っていた。あの黒猫獣人の少女、気まぐれな女の子が何になるのか、彼女は今から楽しみだった。






 さて、去っていったニャディアはというと――。


 ツンと澄ました顔で、港町の辺りを歩いていた。


「…………」


 当たり前のように塀の上を歩いている。それが黒猫獣人の修正なのか、それとも彼女の趣味なのか、ニャディアは地面の上を歩くことが滅多になかった。


 街の人もそれを見慣れているのだろう。今では注意する人もなく、ニャディアはまさしく猫のように、すいすいと港沿いを進んでいった。


「おぉーい! そっち持ってくれー!」


「ちょっと待ってろ! すぐ行くから!」


「次は帰りがいつになるの?」


「さあなあ。こればっかりは仕事次第だ」


 キラキラと輝いてみえる、春のグランベルゼ湾。そこには毎日のように船が行き交い、そしてそれにまつわる多くの人たちが働いていた。


 荷箱を運ぶ水夫たち。遠洋に出ていく漁師たち。海上の治安維持を行う騎士たちに、彼らを客とした飲食店の店員たち。ここにいるすべての人たちが働いている。そして自分もああいった人たちの一員となるのだ。ニャディアは港を眺めながら、そんなことを漠然と考えていたが――。


「なう~」


 漠然とし過ぎて現実感リアリティがなかった。自分が水夫になる? 自分が猟師になる? それとも屋台で魚を焼くか、店の厨房でトマトのスープでもこしらえるのか。想像しようにも想像できず、いまいちピンとこないニャディアだった。


 そもそも、自分が年長組になったという実感さえない。こんなお姉さんで大丈夫なのか。こんな自分で大丈夫なのか。飄々として見えるようで、それなりの不安をいま、ニャディアは感じていた。


「な~……」


 力のない声。それは波の音と喧騒に消え、誰にも拾われないように思えたが――。


「ん? こんなところで何やってんだ?」


「っ!」


 ニャディアの耳がピンと立った。急いで横を向けば、彼女のそばにはひとりの男が立っていた。何でも屋の青年、佐山貴大だ。彼は肩に木箱を担ぎ、水夫に混ざって船に荷を積んでいるようだった。


「黄昏れてたのか? それともただ、ボーっとしてたのか」


 返事は期待せずに貴大は言った。獣人の子どもは上手く言葉をしゃべれない。それに加えて無口で無反応なニャディアだ。彼女は声を上げることも稀であり、ふたりは今まで会話らしい会話をしたこともなかった。


 それでも貴大は気にした風もなく、気さくな態度で小さなにゃんこに話しかけてきた。こういった類の子には慣れている。貴大は無理に近づかず、それでも遠すぎない、絶妙な位置についた。


「そういや年長組になったんだってな。おめでとさん」


「…………」


「今年はお前だけだっけ? なんか記念品でも贈ろうか?」


「…………」


「仰々しいのは苦手か。じゃあ、あとで飯でも食いに行こうぜ」


「…………」


 眉の反応、耳の動き、そして尻尾の揺らめきで、十分、意思疎通が図れていた。


 何となく分かる貴大と、無理に話さなくて済むニャディア。傍から見れば奇妙で歪に思えるだろうが、ニャディアはこの関係がそんなに嫌いではなかった。


(それに……)


 貴大という青年自体、ニャディアはいつも気にかけている。それは気を遣わなくていい、気楽な関係であることも大きいが――。


(この人はわたしのお兄ちゃんかもしれない)


 その想いがずっと胸の中にあった。自分と同じ黒い髪の、この世にいるはずのお兄ちゃん。それが佐山貴大なのではないかと、ニャディアはずっとずっと、そう思っていた。


(優しくしてくれるのはお兄ちゃんだから?)


(気にかけてくれるのはお兄ちゃんだから?)


(知りたい。タカヒロに『お兄ちゃんなの?』って聞いてみたい)


 そうした想いがニャディアの内にはあったのだが――。


(だけど、こわい)


「違うよ」と言われるのが怖い。「そうだよ」と言われるのも怖い。貴大とは今のままの関係で、付かず離れずの距離でいられるのが一番いい。


 しかし、ずっとそのままではいられないのだ。この想いは膨らむ一方で、いつまでも閉じ込めておくわけにもいかない。いつかは自分で口を開き、貴大に向かって問いかけなければならない。そしてその日は遠くないもので、もう何年も先のこととは思えなかった。


(それでも)


 今だけは、子どものうちは、このままの関係でいたかった。


 だからニャディアはいつものように、ピクピクと耳を震わせて――それだけで通じ合った貴大は、木箱を担ぎ直し、明るく笑って言った。


「よし。じゃあ、ちょっと待ってろよ」


 船に向かう貴大。塀の上で待つニャディア。


 ニャディアが思ったように、ふたりの関係は、もう少しだけ今のまま続くようだった。


 しかし――。






「ああっ、帰ってきました!」


「ニャディア! ニャディアー!」


「お客さんだよーっ!」


 貴大と軽い食事を済ませ、孤児院へと帰ってきたニャディア。


 そこで彼女が見たものとは、焦る院長、手を振る孤児たち、そしてやけに豪奢な馬車だった。


(…………?)


 教会の偉い人でも来たのだろうか? ニャディアはいぶかしげに足を止めたが、そんな彼女を院長までもが手招きをする。


「ニャディア! ニャディア! え、ええと、いま、あなたのお兄さんが」


「…………えっ?」


「あなたのお兄さんだという人が、訪ねてきてですね!」


 瞬間、ニャディアの体が凍りついた。


 お兄さん? 自分の? それは貴大のことではなかったのか? あの豪奢な馬車はなんだ? あれに兄が乗ってきたのか?


 疑問に次ぐ疑問、それが縄となってニャディアの心を縛り付ける。結局、一歩も進めなくなった彼女に――声を上げて、近づいてくる者がいた。


「ああっ! ナディア!」


「っ!」


「やっと会えた! 探していたんだ!」


 馬車から飛び降り、駆け寄ってくる黒髪の青年。


 まるで貴族のような青年は、勢いもそのままに、ぎゅっとニャディアに抱き着いてきた。


「ようやく見つけた……僕の妹……」


「い、いもうと?」


「ああ。君は僕の妹だよ」


「じゃあ……あなたが……」


 わたしの、お兄ちゃん?


 貴大には言えなかった言葉。聞きたくても聞けなかった言葉。


 思わず口をついて出た言葉に、青年は涙ながらにうなずくと、


「ああ。僕が君の兄。ティオール子爵家のサリスだよ」


 そう言って、朗らかに微笑んだ。

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