熾火
再び春が巡ってきた。
混沌龍襲来に始まって、悪魔の暗躍、集団昏倒、果ては十字軍事件というものまであったが――。
無事に新年度を迎えられ、まずは一安心の王国民だった。
やはりイースィンド、やはりグランフェリア。数百年の歴史と重みは、多少の「ゆらぎ」でどうにかなるはずもない。この国は千代に八千代に続いていくのだ。それを人々は疑わず、彼らは春の日に相応しい笑顔を見せていた。
しかし――。
(悪魔め)
暗い室内、カーテンを閉め切った部屋に彼女はいた。
王立学園の制服に身を包み、しかし、硬い表情でベッドの腰かけている少女。名をドロテアという銀髪の少女は、留学二年目を迎える隣国バルトロアの姫君だった。
ほんのわずかにうつむいて、拳を硬く握りしめて。そんな彼女が考えているのは、「例の悪魔」にまつわることだ。あの黒髪の男。いつもへらへらと笑っている悪魔。
(奴め。もう捨て置くことはできない)
ここ一年、ドロテアは彼のことを調べ続けていた。
帝国領内で暗躍し、要塞城にも忍び込むほどの曲者だ。母国バルトロアに対し、何かよからぬことを企んでいるのではないかと、ドロテアはずっと疑いの目を持ち続けた。
部下にも密かに見張らせた。腕のいい情報屋を雇ったこともある。その中で、いくつかそれらしい情報を得ることはできたが――。
もはや、悠長に探ってなどいられなくなった。
きっかけはあの事件だ。兄の乱心、第三軍の暴走。大戦の火種になり得たあの事件、あの不可思議な騒動の裏側で。あの男の暗躍が確認されたのだ。
何かを探っているようだった。何かに備えているようだった。金満家の龍人、教会のシスターとも細かに連絡を取り合って――。そうして起きたのが先の事件だ。不発に終わったそのあとも、十字軍の結成という大事件が起こりもした。
最終的には勇者によって、「めでたしめでたし」で幕を閉じたかに思えたが――。
(私だけは、騙されない)
あの男が残っている。あの悪魔が残っている。
結局、「何の関係もありませんでした」? そんな馬鹿な話があってたまるか。探り切れなかっただけだ。尻尾をつかめなかっただけだ。あいつは善良な市民を演じ、その裏でしめしめとほくそ笑んでいるに違いない。
それを確かめるまで、自分は母国に帰れない。真の黒幕、影なる首謀者。悪魔を悪魔として引きずり出すまで、ドロテアはどんな手段も使うつもりでいた。
(そう、たとえば)
自分の身を危険にさらすことさえも――。
新学期が始まるその日、四月初頭のグランフェリアで。王女ドロテアは、暗い決意を固めていた。
そう、あれで終わりにしてはいけない。
あれで幕引きにしてはいけないんだ。
火種はまだ残っている。王都にまだ燻りがある。
それを大きな炎にするんだ。藁をかけ、薪をくべ、闇夜も照らすかがり火にしなくてはいけない。
そうすることで自分はようやく満たされる。この空虚な生、生まれてきた意味、そのどれかに答えが出るのかもしれない。
「なんて。はは」
彼はどんよりと濁った目で、路地裏の陰から白亜の校舎を見上げた。
「ここから再び始めよう!」
入学式の朝、王立学園の講堂で――。
学園長先生は、大変ありがたい言葉を生徒たちへと送っていた。
「我々は信じて疑わなかった! イースィンドが大国であることを! 我々が優れた人種であることを! しかし、その全ては砂上の楼閣に過ぎなかった! まやかしだったのだ! 自惚れだったのだ! この一年、たった一年の出来事で、全ては儚く無残に崩れた……」
「だが、これは好機である。我々は知ったのだ。自分たちの至らなさを。この国、この時代の不完全性を。完全には程遠く、我ら国民、まだまだ蕾の花である。これまでの慢心を恥じ、これまでの怠慢を恥じ、我らはここから再出発を始めるのだ!」
「幸いにして、今年も優秀な人材を揃えることができた。エルゥ女史は言わずもがな、いずれも高名な者たちが、君らの助けとなるだろう」
「生徒たちよ、大いに学びたまえ! 今まさに革新の時!」
「旧態依然を悪として、一回りも二回りも!」
「大きくなって巣立つのだーーーーーっ!!」
『以上、学園長のお言葉でした』
しんと静まり返る講堂。遅れて拍手がまばらに響いた。
言わんとすることは分かるのだが、いかんせん、どうにも熱気が過剰なようだ。とはいえ、その方向性自体は間違ってはいない。謎のままに終わった事件の数々、手も足も出なかった混沌龍戦。ここ一年の出来事は、イースィンドの土台を大いに揺らし、それを不安定なものにした。
結果として何事もなく終わったが――。「取り返しのつかない事態」になっていたら、今ごろ生徒はこの学園にいなかっただろう。あの騒々しい学園長さえ、ひょっとすれば物言わぬ骸になっていたのかもしれない。
上流階級、王侯貴族、この国を守り、運営していく彼らにとって、「取り返しのつかない事態」などあってはならないものなのだ。それを未然に防ぐため、あるいは炎となっても消し止めるために、生徒たちは改めて「より良い自分」、「より良い力」、「より良い国家」について学ぼうとしていた。
そして、その中にあってドロテアは――。
(……ふん)
やはり彼女の関心事は、あの黒髪の男、ただひとりだけだった。
優秀な教師陣などに興味はない。この学園の改革などにも興味はない。次に奴が何をするのか、奴は何を企んでいるのか、ドロテアはそれを読み取ろうとしている。
しかし、それを知ってか知らずか、彼は気の抜けた態度を取り続けている。学園長の長い話に、すっかり退屈してしまったのだろう。あくびをかみ殺しながら、彼は気だるげな目つきで、どことも知れない方向をぼんやりと見ていた。
(くっ……! 分からない!!)
あれは余裕なのか、それとも高度な擬態なのか。
ドロテアの推理、そして集められた情報が確かなら、彼はこの国を襲った事件全てと関わりがあるはずなのだ。先ほど学園長が言った改革、その原因に言える存在でもある。それなのになぜ、ほんのわずかな動揺さえ見せないのか――!
(まさか、私が間違っていたの?)
全ては誤解、ただの考えすぎだった。
(いえ、違う。違うわ。そんなことはあり得ない)
自分はあの夜、間近で彼の顔を見たのだ。その声を聞き、忘れられない記憶として、脳の奥底へと刻み付けてある。
その彼が、要塞城に忍び込んだ賊が、こうしてここに立っているのだ。他の全てが間違いであっても、ただそれだけで、ひとつの事柄で、問い質すには十分過ぎる理由となった。
(ええ、だから)
だからこそ。
(私が直接、問い質さなければ)
強い想いが、ドロテアの胸の内に渦巻いていた。
始業式が終わったあとも、ドロテアはどこか上の空でホームルームを過ごしていた。
Sクラスの担任が変わること、クラスメイトに数名の入れ替えがあったこと、カリキュラムに変更があったこと、昼に交流会があること、全てが耳を通り抜け、右から左へと流れていく。さすが彼女と言うべきか、そんな状態でも内容を把握していたのは立派と言えることだったが――。
それでもただならぬドロテアの様子に、他の生徒は声をかけるのも躊躇われた。
そのまま、一時間、二時間と過ぎていき――。時計が正午に差しかかる頃、ようやくドロテアに動きが見られた。
「あっ、ドロテアさん」
「どちらへ?」
答えることなく教室を出るドロテア。
戸惑う気配が感じられたが、今の彼女にそれを構うほどの余裕はない。
(そろそろ時間ね)
待ち合わせの約束が彼女にはあった。相手はもちろん佐山貴大、ドロテアにとっては怨敵に等しい男である。始業式が終わった頃、彼のロッカーに手紙を忍ばせておいたのだ。王女の署名がある以上、相手は無理にも出て来ざるを得ない。
つまり、ドロテアが指定した場所、人気のない旧校舎裏で――。
(……いたわね)
佐山貴大は、ひとり、ぽつんと佇んでいた。
「えっと」
「…………」
「ドロテア、さん?」
「…………」
「何か用事が、あるん、ですよね?」
あからさまな敵意を向けられ、佐山貴大は戸惑っていた。
一年かけてもぎこちない敬語、腫れ物に触るような態度。彼はドロテアの真意を測りかねている。
(ここまでは予想通り)
まだ講師の仮面は外れない。彼はまだ人間のままだ。
しかし、本当に悪魔なら。あの夜、ドロテアを襲った悪魔ならば。この一言に反応しないはずはないのだ――!
「お久しぶり」
「…………え?」
「要塞城では世話になったわね。魚の頭の悪魔さん」
「…………!!」
瞬間、サッと貴大の顔が青ざめた。同時にドロテアの心に緊張が走る。
間違いない。あの悪魔はこの男だ。同一人物。同じ存在。謎にまみれた黒い男――!
多くの言葉が彼女の中を駆け巡る。しかし衝動をグッと抑え込み、努めて冷静に少ない言葉を発していく。
「その顔、やはりあの悪魔だったようね」
「あの時は世話になったわ。あの夜のことは、今でもたまに夢に見るもの」
「だから私、貴方のことを調べたの。どんな人なんだろうって。どんなことをしているんだろうって」
「そうしたら、不安と疑念だけが増していったわ。ここ一年の事件の数々、その全てに貴方の影と痕跡があった。災厄の裏に、いつも貴方の存在があった」
「貴方は何なの、サヤマタカヒロ? この世の人間? 魔界の悪魔? それとも悪神、魔神の類かしら?」
「これまで静観を続けてきたけど……もう限界!」
「貴方の正体を明らかにするまで、私はもう一歩も引くつもりはないわ!」
一度堰を切ってしまえば、溜め込んでいた言葉が濁流のように飛び出していった。
冷静沈着、心を揺らさず、鉄人をひとつの理想とするバルトロア人。その姫君に相応しくない激昂を感じ、それでもドロテアは自分の心を止められなかった。
「答えなさい、サヤマタカヒロ!!」
「貴方は一体、何者なの!?」
叩きつけるような言葉。怒りにも似た強い感情。
それを受けた貴大は、わずかな躊躇いをのぞかせて、
「俺は……」
「……っ!!」
彼が口を開きかけた――。
その瞬間!
パーン! パラララッ! パラララララッ!
キャー! いやー! だ、誰かー!
「「…………え?」」
ふたり揃って校舎の方を見た。
何やら向こうの方が――いや、学園全体が騒がしい気がする。
一体何が起きたのだろうか? ふたりが固まり、遠くの喧騒に耳を傾けていると、
『ザッ、ザザッ』
学内各所に備えられたラッパ、通信用の魔道具から、聞き慣れない声の校内放送が流れ始めた。
『この学園は我々が占拠した』
『我々はアンダー・ザ・ローズ。君たちが言うところの反政府組織だ』
『勤勉なる学生諸子、優秀な教職員の方々には悪いが』
『今から諸君らには人質になっていただく!!』
キャアアアアアア!
再び聞こえる悲鳴! 鼓膜を震わせる破裂音!
テロリストの襲撃に、ろくな抵抗もできずに制圧されていく警備員たち!
そしてそれを遠くから見ながら、貴大とドロテアの二人組は――。
(えええええええ……!?)
あまりに予想外の事態に、ただ茫然と立ち尽くすのだった。




