節目の朝
クラス旅行に来たフランソワ。採集に来たエルゥと、その護衛を務めるアルティ。福引が当たったカオルと、それにくっついてきたクルミア。そこに俺とユミエルを足して計七人。
まさにオールスターって感じだな。俺んちで駄弁っている面子と丸っきり同じだ。
いや、正確にはもうちょっといるんだが――。
(……追加はないよな?)
さすがにそれはないみたいだ。まあ、そうならないように後処理を任せてきたからな。ここではユミエルと二人っきりで、静かに過ごす予定だった。
(なのになあ)
ぬかった。油断した。こんなことなら国外にでも行くべきだった。
しかし、時すでに遅く、奴らは当たり前のように集まってきて、当たり前のように俺の周りで茶飲み話などを始めていた。
「あら、アルティさんはお仕事中ですのね」
「そうだよ。このへんてこ学者の護衛で来たんだ」
「カオル君は家族旅行かね?」
「は、はい。この子と一緒に来たんです」
「わうん!」
温水湖が一望できるカフェテリア、小高い丘の斜面に建てられたそこに、水着とパーカー姿の女たちが集まっている。そして俺とユミエルはその輪の中、会話に加わるでもなく、ソーダを飲みながらただただ奴らの姿を見ている。
(う~む……)
旅先って気がしないな、これは。
目を閉じて話だけ聞いていたら、王都にいるんじゃないかと錯覚してしまいそうなほどだ。
(いやいや、やっぱりおかしいだろう)
こういった日常から離れるために、ユミエルとふたりで遠くまで来たんだ。
このまま流されて、全員でぞろぞろ行動して、いつものようにドタバタに巻き込まれて――なんて、とても許せるようなことじゃない。こいつらには悪いが、早いところ退散しないとな。
「それじゃ、俺たちはこれで……」
「「「「「ええ~~~~~~~~っ!?」」」」」
さり気なく逃げようとしたところで、これだ。
女どもは一斉に声を上げ、非難めいたことを口々に叫び出す。
「せっかく旅先で会えたんだから、もっとお話しようよ!」
「いや、カオル。そうは言ってもな」
「先生、何かご予定でも?」
「そういうわけじゃないんだが」
「ならいいじゃないか。たまには世間話もいいものだろう」
くそっ、エルゥまでもっともらしいことを言ってやがる。
確かに、ここで席を立つのは不自然だ。水臭くもあり、礼儀を欠いた行いかもしれない。
しかし、しかし、俺は自由に、気ままに、心ゆくままに温泉を楽しみたくて――!
「……タカヒロ、おふろ、入りたいの?」
「ん? あ、ああ」
袖を引かれたと思ったらクルミアだ。
読心術でも使えるのか、それとも俺がよっぽど疲れた顔をしていたのか、大柄なわんこは何やら考え込んでしまっている。いつものようにじゃれついてくるわけではないみたいだ。
まあ、幼いって言っても空気は読める子だからな。最近は年長組としての責任感も出てきたみたいだし、ここで俺を庇ってくれる可能性も――。
「じゃあ、いっしょに入ろ!」
「んぉっ!?」
「タカヒロとおふろに入りたい!」
先ほどの大人しさから一変、花のような笑顔を咲かせたクルミアは、しっぽをぶんぶんと振りながら俺に抱き着いてきた。まるで子どもみたいな――ああ、いや、子どもなんだけど、それらしい積極性と行動力で、俺を近くの温泉に連れて行こうとする。
これに慌てたのは俺よりも女性陣の方で、特にカオルは顔を真っ赤にしてクルミアを引きはがしに来ていた。
「ちょっ、ちょっと、ダメだよ! 一緒にお風呂だなんて!」
「なんで?」
「なんでも何も、タカヒロは男で、クーちゃんは女の子でーっ!」
クルミアはこないだ十一歳になったばかり。年齢的には一緒に入れないこともないが、体格的にはまず無理だ。胸なんてこの中で一番大きいんだぞ? あんなの風呂に連れて行ったら、俺はよくても周りの視線が突き刺さりそうで――。
「先生? よろしければプライベートスパに案内しますが」
「余計な気を遣うなっ!」
「どうせなら私も行こう。測りたいものがあるんだ」
「ナニをだ、ナニをっ!!」
「騒ぐことじゃねえだろ。オレは前に一緒に入ったぜ?」
「「なにぃぃぃぃぃぃぃっ!?!?!?」」
「あー、もー! あー、もー!」
めちゃくちゃだ! 案の定、ドタバタに巻き込まれている!
仕方ない。かくなるうえは多少強引な手を使ってでも――!
「【スモーク・ディスチャージ】」
「うわーーーーっ!?」
俺の体から噴き出した煙幕は、たちまちテラス一面を覆いつくした。
そして俺はその煙に紛れ、ユミエルを抱えてすたこらさっさとその場を後にする。
「……よろしいのですか?」
「よろしいのです」
何度でも繰り返すが、今はプライベートな旅行中。
薄情なようだが、そっとしておいて欲しい心境だった。
だから、逃げて、逃げて、逃げ続けて――。
結局、温泉郷のすみ、秘湯のような場所まで来てしまった。
「は~……まったく」
山小屋のような更衣室でパーカーを脱ぐ。体はすっかり冷えていた。
温水湖のほとりからここに至るまで、十分くらい走り続けたからな。早春の空気はまだまだ冷たく、見下ろす腕にはすっかり鳥肌が立っていた。
「やれやれ」
こんな時、そこかしこに温泉があるっていうのはいいもんだ。
まずは体を温め、しかる後に荷物を取りに帰ろう。その頃にはほとぼりも冷めているだろうということで、俺とユミエルはこの小さな温泉に入ることにした。
もちろん、入る場所は別々だ。俺は男湯の方に、ユミエルは女湯の方に行き、出たら【コール】で知らせ合おうということになった。
三十分もあれば十分だろうか。とにかく、まあ、この冷たい体を温めよう。
「さて、と」
両端に出入り口がある山小屋、そのもう一方の端に行き、おもむろに扉を開く。
露天風呂、というよりは天然自然の岩場に湯が沸いたって感じだな。歪な形の温泉には、三人くらいの姿しかなく――。
(……ん?)
黒髪がふたり、白髪がひとり。髪型が微妙に違うが、まさか、この組み合わせは!
(いやいや、んなことあるか)
ほら、違う人じゃないか。まさかこんなところに、留守番を言いつけたルートゥーたちがいるわけがない。
やたらイケメンのお兄さん、自信に満ちた顔をしている少年、そして気の弱そうな白髪ショタと、ここには男の姿しかなかった。
「どーも」
視線を向けられたから、軽く会釈をしておいた。
そして軽くかけ湯をして、冷えた体を熱い温泉へと潜り込ませる。
「うう~!」
あごの先まで浸かったところで声が出た。
ああ、これこれ。やっぱり温泉は寒い時期に限る。夏場もいいんだけど、やっぱりこの温度差が醍醐味であって――。
「こんにちは」
「ん?」
「お兄さんも冒険者なのかな?」
閉じていた目を開けると、あのイケメンが近くに来ていたのが見えた。
柔和で人好きのする顔立ちだ。どこかアストレアに似ているイケメンは、俺の向かいに腰を下ろして笑いかけてきた。
「いや、冒険者じゃなくて何でも屋だけど」
「そうなのかい? そんな風に見えたんだけど、勘違いだったかな」
「昔は冒険者やってたけどな」
それももう二年も昔か。あれから随分経ったもんだ。
「そんなことを聞くってことは、お前らも冒険者なのか?」
「うん、そんなところかな。僕が剣士のアストロ」
「俺は闘士のルールー」
「し、神官のメリオ、です」
うーん、つくづくあのトリオに似ている奴らだ。
背丈も髪の色も年の頃もそっくりで、名前もどこか類似している。
ただまあ、性別だけは決定的に違うけどな。その証拠の平らな胸をちらりと見ながら、俺は三人へと挨拶を返す。
「俺は斥候職の貴大だ。冒険者時代は〈シーフ〉とかやってた」
「へえ、盗賊かあ。重宝されていたんじゃない?」
「そうでもなかったな」
むしろネズミと蔑まれていたような――。
「いやいや、謙遜はよくない。その隙のない動き、きっと名が知られた人だったんだろう」
「それになかなか引き締まった体をしている。好感が持てるな」
「で、ですよね」
体のあちこちをじろじろ見られ、ちょっと落ち着かない気分になる。
しかしそれを察したのか、三人はパッと俺から離れると、少し申し訳なさそうな顔を見せた。
「ああ、ごめんごめん。いきなり失礼だったよね」
「男同士とはいえ、裸体を見つめるものではないな」
「ごめんなさい……」
冒険者なんて押しの強い連中だけど、こいつらはそうでもないらしい。
見た目も整っているし、案外、育ちのいい奴らなのかもしれない。
「いや、別に気にしてねえよ」
「そうかい?」
「男相手にとやかく言うタイプでもないしな」
「そう言ってくれると助かるよ」
爽やかに笑うアストロ。ちょっとれんちゃんを思い出させるイケメンだな。
そういや優介やれんちゃんに別れを告げてから、もう一月近く経つのか。ドタバタしっぱなしで、感傷に浸る暇もなかったな。
「さて、と」
「もう上がるのか?」
やんちゃ坊主っぽいルールーが、なぜか慌てた顔で聞いてきた。
なんだ? もっと話をしたかったとか、そういうタイプの奴だったのか?
「いや、髪とか洗うんだよ。ちょっと泥がついてるからな」
湖に潜った時に満遍なく被ってしまったらしい。
どうもさっきからごわごわ、ねちゃねちゃと気持ちが悪かったんだ。体も温まったことだし、早いところこの泥を落としたかった。
「石鹸、貸しましょうか?」
「おっ、ありがと。借りるわ」
白髪の美少年、メリオ君から石鹸を受け取り、野趣あふれ過ぎな洗い場へと向かう。
(ここでいいんだよな?)
椅子代わりの岩の前に、ちょろちょろと小川が流れている。
ここに流せってことか? かけ湯は? ああ、この川の水も温水なのか。
(ってことはこんな感じで……)
手桶ですくってバシャバシャと髪にかける。
うーん、この野生感。山間の景色も相まって、なんだかキャンプでもしているみたいな――。
「って、うおっ!?」
気がつくと両隣に三人組がいた。
例のイケメンを筆頭に、なぜか俺の体をまじまじと見つめている。
「な、なんだ?」
「いや、僕たちも体を洗おうと思ってね」
なんてアストロは言うが、さっきの目は尋常じゃなかったぞ。
(まさかこいつら……)
そういうこと、なのか?
人気のないところで獲物を待ち伏せ、吟味のうえで美味しくいただく。
そういうつもりで、三人仲良く温泉に浸かっていたのか?
(そ、そういえば)
ノンケにしては俺を見る目が怪しかった。
今も横目でちらちらと見ては、俺と目が合うとサッと視線を外す。だけどすぐにも俺の方を見て、また股間や胸板を凝視し始めて――。
(ひぃぃ……!?)
温まっていた体が凍りつくようだった。
ま、まさか、逃げ込んだ先にこんな世界が待っていたとは。これは女から逃げ出した罰なんだろうか。視線はますます強度を増して、俺の股間はチリチリと炙られているようだった。
「じゃ、じゃあ、俺はここで」
「まあまあまあ」
「よいではないか、よいではないか」
「このまま出ると、風邪を引いちゃうよ?」
この強引さ、間違いない!
こいつらは狩人で、俺は子ウサギ! 流されたが最後、俺はこいつらに囲まれて、ちょっと全年齢的ではないことをされてしまう!
見ろぉ! そ、その証拠に、こいつらの股間には、立派な槍がいきり立っていて――。
(………………ない?)
あれ? あるはずのものがない。俺が知っているものがない。
代わりに胸が膨らんできているようで、顔立ちもゆっくりと変わり始めて、
「って、アストレアじゃねーか!」
残るふたりはルートゥーとメリッサだ!
どんな魔術を使ったのか、今まで男だった三人は、今や女の体になって、互いに互いを指さしている。
「おい、勇者! 魔法が解けているぞ!」
「そういう君こそ、変化が解けてしまっている」
「わーっ! タオル、タオル!」
短いやり取りでなんとなく察した。
つまりこいつらは男に化けてまで、俺と温泉を楽しみに来たわけだ。
いやいやいや、なんでだよ。こいつらには留守番を言いつけていたはずだ!
「お前ら……! なんでここにいる!」
「我もタカヒロと温泉に入りたかったのだ!」
「僕もさ。君と裸の付き合いをしてみたかった」
「頑張って後始末はしてきたし……ね?」
そういうことじゃない。そういうことじゃないんだ。
こういった事態を避けるための二人旅だったのに、みんな揃ったら意味ないというか、いつも通りというか――。
「さあさあ、我と一緒に湯に浸かるのだ」
「しっぽりと温まろうじゃないか」
「あとで背中を流してあげるね?」
「うわーっ!?」
三方向から迫られて、腕やら腰やらに手を回されて引っ張られる。
柔らかい。柔らかくてすべすべしているが、身を任せればきっと破滅が待っている。
しかしかつてない強引さによって、俺は成す術もなく温泉へと引きずり込まれ――。
「……お待ちください」
「ユミィ!」
その時、静かに響いたのはユミエルの声だった。
岩場に出来た天然温泉、その女湯の方からやってきたんだろう。
体にタオルを巻いたユミエルは、俺を取り囲む女たちの方を見て言った。
「……ご主人さまは静かな時間を望んでいます。どうかこのままお下がりください」
「ええっ、で、でも……」
「少しぐらいよいではないか」
唇を尖らせるルートゥーに、ユミエルはひるまずに続けて言った。
「……お三方とは以前、勝負をしましたね」
「うっ!?」
「……そしてわたしが勝ちました」
「ううっ!?」
「……その時得た権限を使わせていただきます。一週間とは言いません。どうかこの旅行が終わるまで、ご主人さまとわたしを二人きりにしてください」
「ううう……っ!」
口約束とはいえ、勝負は勝負。俺はまったく了承していないが、この面子の中では有効な約束だったんだろう。
無理矢理やってきた三人は、渋々ながらも俺を離し、この場からすごすごと退散していった。
「今回だけだぞ……」
おお、あのルートゥーから覇気が消えている!
あんな捨て台詞が出るってことは、本当の本当に諦めてくれたってわけだ!
つまり俺はしばらくの間、自由! そのためにユミエルは勝者の権利を使ってくれたんだ!
「ユミィィィィ……!」
感極まった俺は、ユミエルの小さな体に縋りついてしまった。
泣きながらユミエルに抱き着き、おうおうと嗚咽を漏らす。そんな俺を優しく撫でて、ユミエルは聖母のような声で嬉しいことばかりを言う。
「……これでもう大丈夫ですよ。ここにいる間はゆっくり休んでくださいね」
「うぉぉぉぉん、おんおん……!」
天使がいるとすれば、こんな子のことを言うんだろう。
オフの時は優しいユミエルだが、今はその優しさがチートクラスまで高まっている。その優しさに包まれた俺には、ただただ幸せと安堵だけがあった。
「なんて、なんていい子なんだ……!」
「……今回だけですよ」
「それでもいい! それでもいいんだ!」
今まで生きてきて、こんなに嬉しいことはあっただろうか。
この幸福感は筆舌に尽くしがたい。ひとりで味わうなんてもったいないほどだ!
「よーし、こうなったら俺もお前を喜ばせるぞ!」
「……?」
「とっておきの贅沢だ! 今夜は一番高いホテルに泊まる!!」
「……いいのですか?」
「いいんだ! 今はそういう気分なんだ!」
そうと決まれば善は急げで、俺はユミエルを連れてその場所に向かった。
「なんでも、王侯貴族を余裕で歓待できるレベルらしいぞ。その分、値段も目が飛び出るくらいらしいけどな」
「……本当にいいのですか?」
「いいよ。たまにはこんなのもいいだろ?」
道すがら、件のホテルについて話す。
超高級ホテルと聞いてユミエルは及び腰だったが、なに、心配することはない。講師としての収入が結構あるし、貯金もそこそこの額になっている。ロイヤルスイートに連泊とかは無理だけど、一晩泊まるくらいならどうとでもなる。
「まあ、俺に任せとけ!」
そう言って胸を叩き、ユミエルの手を引いて道を歩く。
勢いで決めたとはいえ、こうなると俺の方もテンション上がってくるな。超高級ホテルとやらがどんなものか、たっぷり味わわせていただこう!
「着いた! ここだ!」
「え」
「この『ホテル・アモール』が今夜の宿だ!」
台地と接する山の斜面にそびえ立つ、王宮のごとき威容を誇る超高級ホテル。
他国にいても名前だけは聞こえてきたほどで、ここに泊まることを夢見ている奴も多いと聞く。
どういうわけか、建材のひとつひとつが、黄金を溶かしたクリームのような色をしている。それは夕日を浴びて煌くようで、まるで天上の神の住処のようでもあった。
「さっ、行くぞ」
いつまでもボーっとしてはいられない。早いところチェックインするために、俺はユミエルの手を引いて歩き出そうとしたんだが――。
あれ? なんか、ユミエルの奴、固まっていないか?
「ご、ご主人さま。本当にここなのですか?」
「そうだけど」
「ここがどういう場所なのか、ご存知なのでしょうか?」
「そりゃ知ってるよ」
音に聞こえし超高級ホテルだろ?
そんなこと、道すがら話したじゃないか。
「ほら、行くぞ。チェックインだ」
「……よろしいのですね?」
「ああ。まあ、いい機会だよ」
「……分かりました」
ようやく心が定まったのか、ユミエルは腹をくくって歩き出した。
しかしこういった場所に慣れていないのか、その動きにはどこか硬さが目立つ。
(まあ、たまにはこんな経験もいいだろう)
ギクシャクとしたユミエルを小さく笑い、俺はホテルに入っていった。
そして支払いとチェックインを済ませて――。
「うおお! おい、見ろ! めちゃくちゃ景色がいいぞ!」
夜の帳が下りた温泉郷、各所に灯る明かりと立ち昇る湯気がなんとも幻想的だ。
ムード満点ってやつだろうか。大きなガラスが張られた部屋からは、これ以上ないほどの温泉郷の景色が見て取れた。
「美味い! いや~、めちゃくちゃ美味いな!」
夕食も素晴らしかった。大陸各地から取り寄せた高級食材と、地元で採れた野菜や果物を組み合わせたコース料理。
スープの一滴までが体に沁み込んでくるようで、俺は夢中になって皿を空にしていった。
「う゛あ゛あ゛あ゛……」
部屋に内風呂があるのも嬉しかった。色とりどりの花を浮かべた湯舟からは、満天の星空というものが眺められる。
ベランダにそよ吹く風も心地よくて、俺はついつい長湯してしまったほどだ。
良かった。本当に良かった。これ以上ないほどの設備とサービスで、俺の心は完璧に満たされた。
勢いとはいえ、ここに泊まって良かった。出費は大きかったが、そんなこと全然気にならない。そう思えること自体、俺には驚きだったんだけど――。
(……こいつには合わなかったのかな?)
こいつとはもちろん、ユミエルのことだ。
チェックインをしてから今に至るまで、どうも動きがぎこちない。
無駄に緊張しているというか、なんか思いつめているというか――ひょっとして超高級ホテルじゃなくて、気軽に泊まれる宿の方が良かったんだろう。
(しくったな)
ハイテンションのあまり、選択を間違えたのかもしれない。
しかし今から宿を変えるのも不自然だし――ええい、今日はもう寝てしまおう!
(挽回は明日以降だな)
今日のところは、ユミエルはこういうのが好きじゃない。それが分かっただけでもよしとしよう。
「それじゃ、そろそろ寝るか」
「……はい」
まだ晴れない顔をしているユミエルを連れて、俺は寝室へと向かった。
そして、何気ない気持ちでドアを開けると――。
「…………あれ?」
なんだろう、見間違いだろうか。
この部屋、なんだかすごく淫靡な感じに見えるのですが。
(……んんん?)
照明が桃色だ。ベッドの周りも何やらピンクっぽい。
そもそもベッドがひとつしかない。枕はちゃんとふたつある。
焚かれている香は、ひょっとして、淫魔御用達のあれなんじゃないですか? イヴェッタさんがよく使っているような、いつぞや色街で嗅いだあれ。
(おかしいなあ)
部屋を間違えたかなあ。
そう思って閉じて開くも、部屋はまったく元のまま。
うっかり異次元に繋がったとか、ここだけ異空間だとか、そんな話じゃどうやらないようだ。
(いやいやいやいや)
それじゃちょっと問題だろ! こんなところで寝るのも問題だし、ユミエルだけここで寝させるのも問題がありそうだ。ふたりともソファで寝るか? いやいや、それはそれでなんか違うような――。
「……ご主人さま、どうされたのですか?」
「えっ!? あ、いや、ちょっと思ってたのと違っててな」
「……整っているように見えますが」
「あれが!? い、いや、違うんじゃないか?」
「……違わないと思います」
そう言うと、ユミエルはバッグの中から一冊のパンフレットを取り出した。
ユミエルがずっと熱心に読んでいたものだ。俺はパラ見程度だったけど、なるほど、このホテルの情報もこれに載っていたんだろう。該当するであろうページを開き、ユミエルは何やら神妙な顔をしたかと思うと、言いにくそうにこのホテルのことを説明し始めた。
「……このホテル、アモールですが」
「お、おう」
「……確かに、超高級ホテルとして知られていますが」
「はい」
「……同時に、恋人たちの聖地としても知られています」
「んんんっ?」
それはつまり、ど、どういうことだろうか?
分かるようで分かりたくない、不思議な緊張感が俺の体を支配していく。
「……ここはかつて、男神と女神の寝所だったそうで」
「はい」
「……二柱の神は六日間まぐわい続け、多くの子どもを設けたそうで」
「はい」
「……そのような話があるため、ここは『恋人たちが結ばれる宿』、『子どもを作るための宿』として知られるようになっていき」
「はい」
「……それを、ご存知なかったと」
「はい」
さっきから冷や汗が止まらない。
すると何か。俺はあんなテンションで、「子作りの聖地に行こうぜ!」と女の子を誘ったわけか。
そりゃユミエルもドン引きするわ。今の今まで様子がおかしかったわけがようやく分かった。つまり、今夜、俺に襲われると思って緊張していたわけだ。
「すまん! 本当に知らなかったんだ! 普通に豪華なホテルだと思ってただけで!」
「……そういうつもりはなかったと?」
「なかった! お前を襲おうだなんて、考えるわけないだろ!」
必死に言い訳をするも、ドツボにはまっていく感覚が増していく。
ああ、ユミエルのやつ、何も言わずに部屋に入っていったよ。ひとりで布団に潜りこんでいる。
つまり、俺は出ていけってことだ。それくらいは俺にも分かる。ユミエルを怒らせてしまったということも、痛いほどに――。
「……本当ですか?」
「え?」
「……本当に、そんなつもりはなかったのですか?」
「え、え?」
「……わたしはそのつもりでいたのですが……」
蚊の鳴くような声。布団からのぞくユミエルの顔。
その手に持たれた枕。そこには赤い文字で、でかでかと「YES」と書かれていて――。
「……ご主人さまは、違うのでしょうか?」
ほんのりと染まっていく頬。恥ずかしさから、困ったような顔をするユミエル。
そして、俺は、俺は――。
「……………………え?」
あお~ん……。
長い夜が明けた。
温泉郷に朝日が差し込み、すべてを白く染め上げている。
俺はと言えばホテルのオープンテラスで、ひとり、ブラックコーヒーをすすっていた。
「ふ~……ふふふ。美味い」
なんて美味いコーヒーなんだ。さすが一流ホテル、飲み物ひとつ取ってもぬかりない。
(それに、この景色)
まるで生まれ変わったように輝いて見える。
いや、事実、昨日の俺と今日の俺は違うのだ。一皮むけたというか、大人になったというか――まあ、要するに、幼さを捨てたってことだ。感受性に変化が起きていても、なんら不思議なことじゃない。
「じ~……」
「おう、ははは。お前ら、近くに泊まってたのか?」
オープンテラスにはカオルやルートゥー、昨日会った女どもが勢ぞろいしていた。
何やら胡乱げな目でこちらを見ているが――それが全然気にならない。なるほど、これが大人の余裕というものか。俺にもようやく、それが身についたんだなあ。
「ふふふ、コーヒーが美味い」
しゅるしゅるとコーヒーをすすって、一言。
うーん、今日も一日、素敵な日になりそうだぞ。
「くんくん、くんくん」
「……ん?」
「くんくん、くん」
「おいおい、どうしたんだ、クルミア? そんなに俺の匂いを嗅いで」
いつまで経っても子どもみたいなやつだ。
まあ、子どもなんだけどな。ふふふ――。
「なんで?」
「ん?」
「なんでタカヒロから、ユミエルちゃんの匂いがするの?」
「「「「「「「っ!!!!!!!!!!」」」」」」」
瞬間、空間に亀裂が走ったような気がした。
同時に女どもの方からただならぬ気配が――あ、あれ?
「やったな! やったんだな、タカヒロ!」
「お、おい」
「あからさますぎんだよ、お前は!」
「あの」
「そ、そういう旅行だったんだー!」
「先生もすみに置けませんわね?」
「いやあ、タカヒロ君もやる時にはやる男なんだね?」
嵐に巻き込まれたみたいだ。
四方八方から言葉が飛んでくる――!
「うわーん! タカヒロくんの馬鹿ー!」
「変な匂いもする……」
「あ、あとで余った●●を提出してくれないか? 研究に使いたいんだ」
「お、お前ら……!?」
かつてない騒動、かつてない激しさだ。
まるで収集がつかず、ホテルの従業員も遠巻きに見るだけで近づいてこない。
「くそう、こうなったら我もするぞ!」
「わーっ!?」
「ルートゥーちゃんが脱いだ!」
「もはや段取りなど、気にしていられるかーっ!!」
騒々しい朝、賑やかな人々。
大人になったことで何か変わったと思ったが――。
なかなかそうはいかないみたいだ。
「……ご主人さま、こちらへ」
「た、助かる!」
「待てーっ!」
何の因果か、朝もやの中、俺はこうしてユミエルと一緒に走っている。
本当はこんな騒動に巻き込まれず、ぐーたらしていたいんだけど――。
(多分、こんな毎日がずっと続いていくんだろうな)
温泉郷を駆け回りながら、俺はなんとなくそんなことを予感していた。




