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温泉郷にようこそ!

 イースィンド広しと言えど、これほど風光明媚なところはないだろう。


 山間にある開けた台地。そこにはいくつもの池が隣接し、段々畑のような景色を作り出している。それが視線のずっと先まで続き、ふもとの方にはとても大きな湖があった。


 きっと歴史ある場所なんだろう。湖の近くには古ぼけた神殿のようなものがあり、かと思えば煉瓦造りのモダンでおしゃれな街があった。


 アースティア温泉郷。ここは建国のずっと前からここにあり、古くから多くの人々に親しまれてきた。話によれば神々もここで疲れを癒し、その心地よさに思わず感涙したのだとか。それが名前の由来かどうかは知らないが、そう思わせるだけの風格、広大さ、そして素晴らしき温泉群がここにはあった。


「大変長らくお待たせいたしました」


 イースィンドから竜車に揺られて丸二日。温泉街の停留所で、俺は御者の声を聞いた。


「アースティア温泉郷に到着いたしました。お忘れ物がなきよう、皆様ご注意ください」


 その声に合わせて、停留所の係員が外から馬車の扉を開けた。気が早いやつらは我先にと、トランクや鞄を持って馬車から飛び出していく。


 だけど、俺は二十歳過ぎの大人だ。成人を過ぎてしばらくすると、人間、落ち着きというものが備わってくる。几帳面なユミエルに合わせ、俺はゆっくりと荷物を確認すると、満を持して馬車の木枠に手をかけた。


「……ご主人さま。ここが温泉郷なんですね」


「ああ」


 珍しそうに辺りを見回しているユミエルに、俺は小さくうなずいた。


 そうだ、ここが温泉郷なんだ。今までずっと来たいと願っていて、それがずっと果たせなかった場所。魂の洗濯場とも言える場所に、俺たちは今、立っている。


 それを再認識した俺は、凝り固まった体をうんと伸ばすと――。


「温泉に来たぞォォォォォォォ!!!!」


 溢れ出すような歓喜と共に、それはもう大きな声で叫び声を上げた。






 この温泉郷は本当に素晴らしいところだ。


 台地とその周辺の山、見渡す限りに温泉があり、それぞれ違った趣向が楽しめる。ゆったりとくつろげる温泉宿もあれば、リゾート気分で温水プールを楽しめる施設もある。新婚さんにはうってつけの場所もあれば、荒くれどもが汗をかきに来るサウナもある。


 そんな万人向けの温泉郷に、疲労回復のための湯治場がないはずがない。むしろ選択肢に困るほどで、迷った俺は、まずは宿にある大浴場に入ることにした。


「はぁぁぁ~……」


 さすが名高い温泉郷だ。中堅どころの宿でも心地よすぎるほどに心地よい。


 ロマリオ建築、神殿にも似た造りの浴場に、茶色く濁ったお湯がたっぷりと注がれている。やや熱めのそのお湯に、肩までどっぷりと体を沈めて、手や足なんかは投げ出してしまって――。


「溶けるぅぅぅ~……」


 やっぱり温泉は最高だ。ただ浸かるだけで思わず声が出る。


 家の風呂もいいっちゃあいいんだけど、いくらこだわったって家で出来ることなんて限りがあるしな。まさか街中に大浴場なんて作るわけにはいかないし、こればっかりは温泉でしか味わえないものだろう。


「あ~、ほんといいわ……」


 タオルを湯に沈めて、ゆるく絞って顔にのせる。


 ちょっとお行儀悪だけど、まあ、それを気にするような奴もいない。広い浴場はほぼ貸し切り状態で、俺の他には爺さんが二人いるだけだった。


(やっぱり十字軍事件が尾を引いているんだろうな)


 三日で終わったとはいえ、どこもかしこも大騒ぎだったからな。


 あの教会が! あのアロウドマティス様が! そんな野心を秘めていたなんて! とかなんとか、正気に戻った人たちが愕然としたりむせび泣いたり、そりゃもう大変だったらしい。道中、停車した宿場町でもみんなざわついてたし――。


(いやいや、俺には関係ないない)


 変に力を持っていると、あれもこれも自分の責任に感じてしまって困る。


 旅行先で仕事のことを考えるようじゃ末期だな。いや、仕事じゃないんだけど、仕事みたいなものというかなんというか。


「あー、いかんいかん!」


 顔をバシャバシャと洗って、気持ちをシャキッと入れ替える。


 何でも屋〈フリーライフ〉は、ただいま長期休暇中。残り三日、ユミエルとふたりでのんびりまったり過ごすんだ。後始末なんかはルートゥーたちに丸投げして、たまには骨休め、何も考えずに湯に浸かるのもいいことだろう。


「ほら、足元に気をつけろ」


「ごめんね、兄さん」


 ほら、他のお客さんも入ってきた。


 若い兄弟を皮切りに、団体さんがぞろぞろ、ぞろぞろ。俺の他にもこんなにいっぱい、湯治に来ている人たちがいるんだ。変に後ろめたさなんか覚えずに、俺もまた、温泉を満喫させて――。


(……あいつら、どっかで見たような?)


 二十歳前後っぽい兄さんと、十代なのに白髪の弟。


 お互いを「ケツ」、「ゲイリー兄さん」と呼び合っているふたりに、俺はどうにも見覚えがあって――。


(あー、もう)


 だから、余計なことなんて気にする必要はないんだっつーの。


 見覚え? それがどうしたっていうんだ。この世界に来てから四年、見覚えのある奴はその分増えたことだろう。なのに相手が誰なのか思い出せないってことは、大した相手じゃないってことだ。そんな奴らをいつまでも見ている必要なんてない。俺はまだまだ、温泉を楽しむぞ!


「ここの湯なら、お前の傷も癒えることだろう」


「そうだね……つっ!」


「痛むのか?」


「だ、大丈夫だよ、兄さん」


 なんて話を右から左に聞き流し、俺は広く取られた窓から外の景色を見る。


(絶景かな、絶景かな、ってか)


 台地に広がる温泉郷、そして早春の青い空を見ながら、俺はいい気持ちで腕や脚をさすっていた。

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