血まみれのベイン
ややこしかったので、血縁関係を修正しました。
ゲイリ―はケツの兄、そしてナンの従兄。
ケツはゲイリーの弟、そしてナンの従兄。
ナンはゲイリーとケツの従妹。ケツとは同い年。
百年続く歴史の中で、忌むべき名がふたつある。
ひとつはトグロ・ベイン。開祖カイ・ベインの弟にして、悪神に魂を売り渡した者の名だ。
《聖戦士》となった兄を妬み、これを超えようと悪神に頼った。結果、ベインの一族は呪いに侵され、聖都での地位も名誉も失った。
悪神が呪いの源なら、トグロ・ベインはすべての元凶だ。トグロのせいでベインはすべてを失って、花開いた《聖戦士》の素質は、咲き誇ることなく地に落ちた。
まさに忌むべき人物だ。百年続く一族の放浪は、トグロの小心、妬み嫉みによって引き起こされた。
トグロさえいなければ、一族は未だ聖都にいただろう。信仰を守り、人々を助け、聖都の守護者として働けていたはずだ。正門からは出て行けず、後門から夜逃げのように出ていくなど――情けない真似をせずに済んだはずだった。
卑劣な男、トグロ・ベイン。稀代の悪漢、トグロ・ベイン。
このように恥ずべき男は、これまでにも、そしてこれからも、ベインの中からは現れないと言われていたが――。
ふたつ。
そう、忌むべき名はふたつある。
トグロ・ベインに続く一族の汚点。トグロの再来にして、これを超えるベインの異端児。
その者は――その者の名は――。
「ケツ・ベイン!」
ゲイリーは叫んだ。
弟の名を。そして、血塗られた罪人の名を。
「兄貴ィ!」
ケツは答えた。
ゲイリーは兄なのだと。そして自分もベインなのだと。
それが悔しくて、悔しくて、悔しくて――ゲイリーはギリリと歯を食いしばった。
「生きていたのか……!」
ひり出すようにして、ようやく口にしたケツへの問いかけ。
それをケツは面白そうに受け取って、何でもないことのように答えてみせる。
「危ないところだったけどな。首は取れかけていたし、腕なんてふたつとももげていた。さすがに死ぬかと思ったぜ」
「そこまでの深手を負って! なぜ!」
「分かっているんだろう?」
ケツは笑った。
十全の体で。傷ひとつない綺麗な顔で。
死にかけたはずのケツ・ベインは、月明かりの下で笑ってみせた。
「そうだよ、悪神だよ。悪神に治してもらったんだ。この手も足も、首も肩も背中も腹も」
「ケツ……!」
「ゲイリー。お前にやられたところは、みんな悪神に治してもらった」
それを誇示するかのように、両手を大きく広げるケツ。
「元通りだ」
元通り? そんなはずはない。
白かった髪は赤く赤く染まっている。瞳も血を垂らしたかのように真っ赤だ。
それに全身にまとう、妖しげな気配――あれは《聖戦士》のものではない。その宿敵たる、悪神のものだ。
「お前、やはり」
「そうさ」
「売り渡したのだな」
「そう」
「《聖戦士》としての誇りも魂も!」
「そう!」
「悪神に売り渡し、やつの眷属となった!」
「その通り!」
パンパンと手を叩き、ケツは大いにはしゃいだ。
「そうだよ、兄貴。分かっているじゃないか。オレはもう《聖戦士》じゃない。悪神様の眷属さ」
「なぜだ! なぜ、悪神の眷属になった! よりによって呪いをかけた悪神の……!」
「その質問は二度目だぜ、ゲイリー」
再び月に雲がかかり、ケツの顔に影がかかる。
暗闇の中、笑みを消したケツは、ゲイリーをにらみつけて口を開いた。
「オレはもううんざりなんだよ。《聖戦士》の誇りってやつも。しがらみだらけのベインの一族も。助けてくれねえ「かみさま」に祈るのも。みんなみんな、うんざりだったんだ!」
「ケツ……!」
それは確かに一度、聞いた言葉だった。
一年前のあの日、あの惨劇の場で、ゲイリーは確かにそれを耳にした。
しかしそれは、衝動的なものだと考えていた。狂乱した弟が思わず口にした、本心ではない偽りの言葉なのだと――。
ゲイリーは、そう思おうとしていた。
だが、違った。彼の弟は本当に悪神に下ったのだ。《聖戦士》としての自分を捨て、怨敵であるはずの悪神の眷属になり果てた。
まるでトグロ・ベインのように。一族に呪いをもたらした、あの忌まわしき男のように――!
「ケツゥゥゥゥ!!」
ゲイリーが吠えた。
手にした剣に力を込めて、《聖戦士》としての力を解き放った。
彼の体からは聖なる光が発せられ、それは闇夜の岩山を明るく照らした。
『シュルルル……!』
合成獣を屠った黒蛇は、ゲイリーの光を避けて岩の隙間に入り込んだ。
肉片となった合成獣の死骸は、聖なる光を浴び、音を立てて蒸発していった。
しかし、悪神の眷属は。眷属となったケツ・ベインは――。
「いいねえ」
なお余裕の表情を見せ、剣を抜くような素振りも見せなかった。
「いいぞ、ゲイリー。腕を上げたな? それとも信仰の賜物ってやつか?」
「さえずるなっ!」
にやつくケツに、ゲイリーは光り輝く剣を突き出した。
爆発的な突進。夜を切り裂く《聖戦士》の剣。しかしケツは、笑ってこれを受け止めてみせる。
「おお、怖え怖え。心臓を一突きとは、《聖戦士》ってのも随分とえげつないよなあ?」
ゲイリーの剣を握りしめ、これを笑うケツ。
その手からは赤い血が流れ出し、しかし、それは煙となってゲイリーを襲う。
「くっ……!」
突き入れるのではなく、一度大きく引き、油断なく身構えるゲイリー。
血煙を漂わせるケツは、これを無理に追うようなことはしない。
「さすが兄貴だ。勘がいい」
笑いながら、岩山に生えていた草を摘むケツ。
すると青々としていたその草は、ケツの血にまみれ、腐り落ちるように枯れていった。
「それは……!」
「そうさ。《ノグ・ソール》様の【猛毒】さ」
にやつくケツ。
「同じ眷属って言っても、オレは合成獣みたいな出来損ないじゃねえぜ。より深いところで《ノグ・ソール》様と繋がっている」
あの黒蛇がその証だろうか。
それとも体に流れる【猛毒】が、悪神が与えた祝福なのか。
「もちろん、トグロみたいな落伍者とも違う。オレが、オレこそが、本当のベインなんだ」
「お前がベインを語るな!」
「いいや、十分、その資格はあるね」
ケツは爛々と目を光らせると、嬉しそうに語り出した。
「異端者なのはむしろお前の方だ、ゲイリー。ベインはお前が思うほど綺麗な一族じゃない。《聖戦士》だなんて嘘っぱちだ。本当に聖なる一族なら、なんでオレみたいなのが現れたんだ? なんでオレやトグロは悪神と惹き合った? おかしいじゃないか、理屈に合わないじゃないか……」
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ!」
ゲイリーはケツの言葉に耳を塞ぎ、再び剣を弟へと向けた。
「やはり止めを刺しておくべきだった! 瀕死のお前に情けをかけるべきではなかった!」
悲痛な叫び声を上げ、しかしゲイリーは剣を持つ手に力を込める。
「ケツ! ケツ・ベイン! 我が弟よ!」
「お前は私が斬る! 斬り捨てる!」
「たとえ悪神の加護があろうとも……!」
「再び現世へ戻れるとは思うな!」
かつてないほどの力の高まり。
それに合わせて輝きを増すゲイリーの体。
低級な悪魔なら照らされただけで消えてしまうだろう。《聖戦士》に相応しい、白く清浄なる聖なる光。それは破邪の刃となって、ベインの忌み子、ケツを貫くはずだったが――。
ぎゅるるるるるうるるるるるるるうんんんん!!!!
「はううっ!?」
竜の断末魔にも似た、ゲイリーの腹の叫び声。
それは耐え難い苦しみを伴い、ゲイリーの四肢から力を奪っていった。
「こ、ん、な、とき、に……!」
剣を杖の代わりにし、何とか立ち続けるゲイリー。
しかし、彼の体からは光が消え失せ、魔と戦う力は残されていないように見えた。
「ククククク……」
苦しむゲイリーを嗤う声。
ケツはゲイリーに近づき、馴れ馴れしく肩に手を置いた。
「分かるぜ、兄貴。オレも昔はそうだった。苦しいよなあ、つらいよなあ。聖と邪のぶつかり合いってやつはよ」
「ふぐぅ……!」
ゲイリーには答える余裕もない。
震える足に力を込めて、どうにか立っているので精いっぱいだ。
そんな兄をいっそ哀れだと言うように、ケツは一転、ゲイリーに優しい声をかける。
「なあ、兄貴。ゲイリーよぅ。お前も《ノグ・ソール》様の眷属になれ。きっとお前ならいい眷属になれる。更なる力が手に入る。その苦しみからも解き放たれるんだ」
丸まった背中を労わるように撫で、ケツはなおも続ける。
「もう《聖戦士》だの何だの、難しく考える必要はなくなるんだ。なっ? いい話だろ?」
いつか見せた親しげな笑み。
去りし日のケツ・ベインの残照。
しかしゲイリーはそれらすべてを振り払い、ひと際大きな声でケツを拒絶した。
「ふざけるな! 《聖戦士》として、ベインの者として、そんなことができるわけがない! 悪神の眷属になるなど、そのようにおぞましいこと、考えることもしたくない!!」
「それがいけないんだよ、ゲイリー」
ケツは逆上するでもなく、あくまで穏やかに言った。
「変なこだわりは捨てるんだ。お前も《ノグ・ソール》様の祝福を受け入れるんだ。《聖戦士》としての力なんて捨て去るんだ」
「ケツ……!」
「待ってるよ、兄さん。ボクはあの場所で待っている……」
「ケツぅぅぅ……!」
最後の最後、ほんの一瞬、昔の口調に戻ったケツは――。
黒蛇を伴い、夜の闇へと消えていった。
「うっ、うう、ううう……!」
ゲイリーは弟を追わなかった。
いや、追えなかった。未だ渦巻く呪いに耐えかね、彼はとうとう膝をついていた。
それが悔しくて、情けなくて、忌まわしくて――。
ゲイリー・ベインは、ひとり、嗚咽を漏らしていた。




