呪われし一族
後日談第二章。
ダークでシリアスな話になる予定です。
赤い目がこちらを見ている。
焚き火が照らす夜の闇、その向こうから視線を感じる。
人のものではない。獣のそれでもない。明らかに魔物、それも獰猛な類のものだ。
積極的に人を害し、死体をもてあそぶように喰らう合成獣。忌まわしき魔物は今宵も獲物に目をつけて、汚らしく舌なめずりをしている。
腹を割こうか、腕をもごうか――。
それだけで人間は滑稽なほど大きな声で喚く。きっと涙をこぼして痛がるはずだ。
それが分かるだけの知性、そして経験を持った合成獣は、愉悦に満ちた目で人間を見ていた。それをひしひしと肌に感じ、人間は――彼は嫌悪感から顔を歪めた。
「嗜虐性を持つ魔物だとは聞いていたが……」
枯れ枝を焚き火に放り込みながら、青年はぽつりと漏らした。
「ここまであからさまだとはな」
街道沿いに残された馬車の残骸。
そして、散乱した人骨と、地面に染み込んだ血の匂い。
それに加えてあの視線だ。これから自分がどうなるのか、どうされるのかは、考えなくとも分かることだった。
「情けをかける必要もない」
おもむろに立ち上がった青年は、腰に下げた鞘から剣を抜いた。
まさか――いや、そのまさかだ。彼は合成獣を倒そうというのだ。街道に現れた人食いキメラ、これを英雄譚のように退治するつもりなのだ。
これには合成獣も失笑を隠せなかった。
人間が? あんな細身の人間が、自分を斬ろうとしているのか?
どうやって? 人間がどうやって自分を倒すつもりなのだろうか。
あの馬車を見なかったのか? あの散らかした骨は? あれは全部、人間の骨なのに。逃げる者も立ち向かう者も、みんな叩き潰して喰らってやった。剣も魔法も弾き返し、四本の腕でぐちゃぐちゃになるまで叩いてやった。
残っている骨は、まだ原型を留めている方だ。肉とまとめて喰ってしまった方がずっと多く、どうやらあの人間はそれを分かっていないようだった。
だから、自分に立ち向かおうなんて考えるのだ。レベル200の合成獣、悪神の眷属たるブラッドショットに――。
『グルルルル……』
怒りではなく愉悦からのどが鳴った。
あの人間がどんな風に泣き叫ぶのか、考えただけで楽しかった。
ブラッドショットは爛々と目を光らせて――試しに目をえぐってみよう。そう考えて、茂みの中から飛び出していった。
『ギィィィ……!』
大型獣のような力強さ。蛇にも似たしなやかさ。
それを併せ持つ合成獣は、シュルシュルと音を立てて青年に迫った。
焚き火に照らされて異形の姿が浮かび上がる。人間の顔。縦に裂けた口。赤く光るいくつもの目と、背中から生えた翼のような腕。悪夢のような化け物は、まさに悪い夢のようににたりと笑い、抱え込むように青年に手を伸ばした。
しかし、
『…………っ!』
瞬間、合成獣は身をよじって横手に飛んだ。
速い。巨躯に似合わぬ素早さだ。恐るべき俊敏性がこの獣には備わっている。
しかし、同時に遅くもあった。気づくのが遅い。飛び退くのが遅い。もう一瞬早く動いていれば、合成獣は腕を失わずに済んでいた。
『ギィ…………!』
斬り飛ばされた腕が遠くに落ちて、ようやく切断面から血が噴き出した。
同時に、焼けつくような痛みに襲われ、合成獣は苦悶の表情を浮かべて這いつくばった。
『アアァァァァ……!』
歯を食いしばり、地面に額をこすりつける合成獣。
いっそ哀れと思えるほどに、獣は苦しげな声を上げている。
だが、これは人食いの魔物だ。街道を行く人々を襲い、これを余さず食い散らかした。
加えて、悪神の眷属だ。許すことはできない。見逃すこともできない。青年は剣を振り上げ、迷いなくそれを振り下ろした。
『アアアアアアアッ!!』
当然、合成獣も黙ってやられるわけではない。
痛みに耐えて抵抗した。攻撃をかわし、反撃を行おうとした。
しかし、そのすべてが失敗に終わった。振り回そうとした尾は斬られ、叩きつけようとした拳は縦に割かれた。まるで解体されているようだ。あの人間は微塵の隙も見せず、最後まで作業のように自分を殺すのだろう。
そんなこと、許せるはずがない。たかが人間に、どうして自分がやられなければならないのか。恥辱と痛みで頭がどうにかなりそうだったが、この窮地を脱する手段もない。
『ギィィィィィ!』
「【ソウル・バインド】」
やはり、無駄だった。
思い切って逃げ出したところで、待っていたのは拘束用のスキルだった。
魂さえ縛るとされる魔法に捕らわれ、合成獣は指先ひとつ動かせなくなった。だというのに人間は、依然として警戒を解かず、剣を抜いたまま近づいてくる。
「終わりだ、魔物」
人間は冷たい声でそう告げた。
同時に、剣の切っ先を合成獣の眉間に向ける。
『…………ッ!』
どんなに暴れたところで無駄だ。【ソウル・バインド】で縛られた体は、合成獣の意に反して震える程度にしか動かない。
命乞いをしたって無駄だ。仮に言葉が話せたところで、人間を食った、その生臭い口を開いてしまえば、許されようはずもなかった。
つまり、もう、合成獣は助からない。この魔物の命は、あと数秒で消え去るはずだった。
しかし――。
「ぐっ……!」
青年の動きがピタリと止まった。
次いでワナワナと震えだし、たまらず剣を落としてしまった。
「がああ……!」
彼の額には脂汗が浮かんでいる。
怪我ひとつ負っていないというのに、何が起きたというのだろうか。
「このようなときに……!」
何事かつぶやき、剣を拾い上げようとする青年。
しかし、そんなことさえ満足に果たせず、彼はとうとう倒れてしまった。
「くそっ……!」
ひとり苦しむ青年。それを見つめる合成獣。
好機だ。逃げ出す好機。戦うのではなく、一度引くことを魔物は選んだ。
【ソウル・バインド】の呪縛を引き千切り、街道を離れていく合成獣。青年はそれを追うこともできず、ただ体を苛む苦しみに耐えていた。
「そうですか、逃げられたのですか」
「ええ」
「分かりました。引き続き、よろしくお願いいたします……」
「……はい」
村長は陰鬱な顔を隠そうともせず、奥の部屋へと下がっていった。
それを暗い顔で見送って、青年は――。
ゲイリー・ベインは、何も言わずに村長宅を出ていった。
「おい、あれ」
「あれが……」
宿に戻るために村を横切るゲイリー。
ブドウ畑を抜け、小さな川の橋を渡り、村の中心部、申し訳程度に敷かれた石畳の上を歩く。
ただそれだけのことで、ゲイリーは何度も無遠慮な視線にさらされ、ひそひそとささやく声を耳にした。
(仕方ない)
クエントの村は、イースィンド東部に位置する小村だ。
農耕と猟で細々と暮らしている、主街道からも外れた小さな村。
そのような場所では、余所者は得てして好奇の目で見られるものだ。あるいは異物として捉えられ、村人の警戒心が解かれることはない。
だから、遠巻きに見られたところで気にすることはない。自分は魔物退治のために訪れた身だ。勇者のように歓待されるわけでもなし、無理に交流することもないだろう。
普通の冒険者なら、そのように自分を納得させることもできただろうが――。
あいにく、ゲイリーはその「普通の冒険者」などではなかった。
「あいつがそうなのか」
「そう、呪われた一族」
「神に呪われた」
「ベインの家のもの……」
村人がゲイリーに向けているのは、好奇や警戒などではなかった。
それは恐れ。忌まわしい何かを見るような目で、彼らはゲイリーのことを見ている。
(仕方ないんだ)
ゲイリーは胸の内でそうつぶやいた。
なぜなら、どれも本当のことだったからだ。
ベイン家は呪われた一族。神に祟られ、呪いをその身に宿してしまった。
かつては比類なき戦士だ、聖なる巡礼者だと称えられもしたが――その栄光をゲイリーは知らない。彼が知っているのは怯えた目と青ざめた顔だけだ。まるで呪いが移るとでも言わんばかりに、ベイン家の者は恐れられていた。
それでもこうして村に招かれ、魔物退治を依頼されるのは、ベイン家の者が強大な力を持っているからだ。邪悪な力を打ち払う聖なる力。生まれながらにして《聖戦士》の素質を持つベイン家の者は、他の者とは一線を画した力を持っていた。
しかし、それも今は昔。悪神の呪いを受けたベイン家の者は、その聖なる力が振るえずにいる。呪いを抑え込むので精一杯で、《聖戦士》の本領を発揮できずにいるのだ。
常人ならとうの昔に死んでいた。そのことを考えれば、ベイン家の力はさすがと言えるのだろうが、いっそ死んでいた方がマシとも思える。
残されたのは満足に使えない《聖戦士》の力と、その肩書きに似つかわしくない呪いだけ。呪いはベイン家の栄光を地に落とし、それだけでは飽き足らず、今日もなお、一族の体を苛んでいる。
(くうぅ……!)
苦悶に顔を歪めるゲイリー。
まただ。呪いが発作のように強くなった。
これを鎮めるために、聖なる力を集中させなければならない。人を死に至らしめる【猛毒】の呪いを、無害化するまで中和しなければならないのだ。
「お、おい!」
「うわあああ!?」
ゲイリーの体から黒い霧が漏れ出たのを見て、村人たちが悲鳴を上げて逃げていった。
毒を以って毒を制する。呪われた一族に頼ってまで魔物を退治してもらおうとした村人たちは、ゲイリーを置いてみな逃げ出した。
(仕方ないんだ……)
口癖のような「仕方ない」。
ゲイリーはそれを思い、内なる呪いに意識を向ける。
渦巻く呪毒。一族にかけられた怨念。悪神が刻み込んだ消えない痛み。
致死性のそれは聖なる力で抑え込まれ、徐々に効力を失っていく。しかし、完全に消すことはできない。ほんのわずかに体に残り、そしてそれはゲイリーの腹のうちを刺激して――。
「ぐうう……っ!?」
ぎゅるるるるる!!
猛烈な腸のぜん動。悲鳴にも似た腹からの声。
崖っぷちのSOS。決壊寸前のゲイリーダム。
マイルドにされた【猛毒】は、しかし、決して消えることはなかった。ほんのわずかに体内に残り、それがお腹で悪さをする。
すなわち、
「だ、駄目だ!」
よたよたと駆け出すゲイリー。
その行く先から逃げ出す人々。
これがかつて《聖戦士》と呼ばれた一族の末路だった。




