歪む世界
かつて貴大はこの場所で、大切なものを失った。
大切な仲間。世界と世界を繋げる門。共に帰ろうという約束。それを果たすための手段。
その何もかもを失って、絶望に身をよじったのだ。泣き叫び、孤独に怯え、心を無くした日々のことは、今でも鮮明に思い出せる。
だというのに――みんな消えてしまったと思ったのに――。
無くしたすべてが目の前にあった。陰鬱とした曇り空の下、荒野の中心にはあの迷宮も、仲間たちの姿もあった。
違いがあるとすれば、自分たちが向かい合っていることと――。
かつて貴大がいた位置に、あの女がいることだった。
「いらっしゃい」
にらみつける貴大に対し、女は優しく微笑みかけた。
「待っていたわ。ええ、ずっと長い間、貴方を待っていたの」
あくまで友好的に、貴大たちを出迎える女。そこに敵意や害意はなく、彼女は心底嬉しそうに両手を広げている。その両脇に控える蓮次、優介も笑みをたたえ――。
「やあ、貴大」
「待ちくたびれたぞ?」
歯が砕けそうだった。
この状況下、よりにもよってこの場所で、あの二人があんな顔をするはずがない。
蓮次とはここで殺し合った。支離滅裂な優介とも戦った。そのうえ、こんな茶番を演じさせるなんて――怒りで頭がどうにかなりそうだった。
「……お前のせいなんだな?」
「何がでしょう?」
「悪神。全部、全部、お前の仕業なんだな?」
無理やり怒りを押し殺し、低い声でそう問いかける。
そんな貴大に対し、女は――。
「ええ、そうです。四年前から今へと続く出来事は、すべて、私の手によるものです」
あっけらかんと、そう答えた。
「自己紹介が遅れましたね? 私の名前はM.C。ご存知の通り、悪神です」
声も出ない貴大に対し、悪神は朗々と語る。
「属性は水。司る状態異常は【衰弱】。【憤怒】のカーリーや【狂乱】のパラディスと違って、直接的な戦闘は不得手です」
悪神はくすくすと笑い、
「もしも貴方たちがその気になったら、私、殺されてしまうかもしれませんね?」
流し目で貴大、ルートゥー、メリッサを順に見る。
その言葉の割には余裕のある彼女の態度に、貴大はますます苛立ちをつのらせる。
「なんでだよ」
「はい?」
「なんでその悪神が、俺たちにちょっかいをかけてんだ……!」
「ああ! それを聞きたかったのですね!」
憎しみを込めてにらみつける貴大に対し、悪神の顔は晴れやかなものだった。
パン! と両手を胸の前で合わせると、彼女は大事な秘密を打ち明けるように、嬉しそうな顔で言葉を紡ぐ。
「実はですね……私、ある時、気がついたのです」
「え?」
「こことは違う世界があることを。そして、そこに通じる穴があることを」
「……!」
戸惑うルートゥーやメリッサとは違い、貴大はそれだけで多くを察した。
こことは違う世界。そこに通じる穴。それはすなわち、貴大が元いた世界のことで、穴とはつまり、かつて挑んだ迷宮の――。
「ええ、そうです。あの門のことですよ」
微笑む悪神。彼女の背後には、迷宮に続く扉があった。
「素晴らしいですね、貴方がたの世界は。魔素もないのに高度に発展し、科学の力で栄華を極めていました。初めてそれを見た時は、本当に驚いたものです」
「お前……」
「ああ! でも、誤解しないでくださいね? 世界間の穴はとても小さくて、不安定で、私が行き来出来るものではなかったのです。私に出来たことと言えば、ただずっと、貴方の世界を見ていることだけ――」
少し寂しげにうつむく悪神。しかし、
「でも、ある日、変化がありました。偶然に偶然が重なって、あちらの世界からお客様が来てくれたんです」
「それって……!」
「いえ、違いますよ? もっとずっと前の話です。貴方の世界で言うところのVR技術……仮想現実に没入する術が確立し、それから少し経ってからのことですね」
思い出すように頬に手を当て、少しうなずく悪神。
「あの時は驚きましたね。生き物や物質は通れないと思っていた穴が、まさか、精神だけなら通り抜けられるなんて!」
「精神だけ……?」
「ええ。仮想現実に没入する際、貴方がたはアバターに意識を移すでしょう? その意識、つまりは心が、ふとした弾みに穴を通って来るのです」
そういうことかと貴大は思った。
彼はVRゲームをプレイ中にこの世界に来た。悪神のいう心だけの状態で、異世界〈アース〉へとやってきたのだ。
その心に、なぜアバターと同じ体が備わっていたのかは分からないが――おそらく、本当の体は、向こうの世界に残されているのだろう。
「心だけ、あるいは情報だけなら、穴を通れるみたいですね。それを知った私は、それはもう喜びました。あちらの世界の方々に、もっとこちらに来ていただけないかと研究に励みましたよ」
「え?」
「他に方法はないか。穴を広げられないか。こちらから働きかけは出来ないか。様々な手法を試してみました〈Another World Online〉もその成果なんですよ? 啓示という形で情報を伝え、こちらの世界に似た仮想現実を作らせました。すると、そこには穴が繋がりやすくなって――」
「ど、どういうことだ?」
「はい?」
「なんでそんなこと……?」
途中から意味が分からなくなった。
なぜ、悪神はそのようなことをするのか。なぜ、世界と世界を繋げようとするのか。
そこにはどんな意図があるのだろう? まさか、向こうの世界を侵略しようとでも――。
「ああ、ええ、それはですね」
疑問を浮かべる貴大。
戸惑う彼に向かって悪神は、
「美味しかったからですよ」
「………………え?」
「美味しかったんです。異世界人の心、魂というものは、極上の美味でした」
「あ……え……?」
「とろけるような味でした! 最初にこの世界に迷い込んだのは、東条春歌ちゃんという女の子でした! 彼女の心は蜂蜜にも似て、もっとずっと上等な味でした」
「…………え」
「次にやってきたのは、赤井英次という男性でした。こちらは野趣あふれる味で、私の心を昂らせてくれました!」
「…………」
「みんな、みんな、美味しかった! 食べるほどに幸せを感じ、その味は私にもっと頑張ろう、もっと研究に励もうという力を与えてくれました」
「…………」
「この二人だって、とっても美味しかったんですよ? 若々しくて、元気いっぱいな味がして、食べ切ってしまうのが惜しいくらいで……」
「もういい」
「え?」
「もういいっつってんだ」
「ですが……」
「黙れよ!!!!」
叩きつけるような声。
それを発した貴大は、全身に怒気をみなぎらせ、腰の鞘からナイフを抜いた。
「事情が知りたくて聞いた俺が馬鹿だった。そんなことに興味を持ったのが間違いだった」
ゆらりと腕を持ち上げて、刃先を悪神に向ける貴大。彼はわずかに腰を沈め、足に力を込めると、
「行くぞ。悪神討伐戦だ」
「うんっ!」
「ああっ!!」
瞬間、貴大は放たれた矢のように、一直線に悪神に向かった。
元々、それほど離れてはいないのだ。瞬く間に距離は詰められ、ナイフの刃は悪神の首元へと迫り――蓮次の剣によって弾かれた。
「駄目じゃないか、貴大。そんなことをしたら」
いつの間に剣を抜いたのか、細身の〈ブレイブ・フェンサー〉は、貴大と悪神の間に立った。
「悪神なんてどうでもいいよ。俺と戦おう。刃を交わそう」
そう言って繰り出す剣技、【ストロング・ブレイド】が地を割き、空を斬り、貴大を襲う。
その威力、鋭さ、正確さ、どれを取っても人外の領域だ。並みの相手なら容易く両断され、貴大でさえも当たれば手足が飛ぶだろう。
しかし、貴大の側も負けてはいない。人外という意味では、この場にいる誰もが、この少女には敵わなかった。
「愚か者がっ! 悪神に誑かされおって!!」
「ぐううっ!?」
貴大の後ろから飛び出した少女。混沌龍の化身たるルートゥーは、その細い腕を横に振った。
すると少女の腕は巨大な竜の尾へと変じ、彼女の前方を大きくなぎ払う。剣を立てて防御するも御しきれず、蓮次はたまらず荒野へと投げ出される。
「たかが悪神風情が、よくも調子に乗ってくれたものだっ! この蛮行、高くつくぞ!!」
同レベルの剣士を払い除け、空中で仁王立ちになるルートゥー。牙を見せ、翼を生やし、尾を揺らす彼女こそ人外だ。
龍の中の龍とも呼ばれる、強大無比なカオスドラゴン。今は竜人少女の姿を取ってはいるが、内包する力は悪神の比ではなく、積み重ねた経験もまさに人外の領域にあった。
「【毒】や【麻痺】を操るしか能のない偽神め……この世界から消え失せろっ!!」
ルートゥーは大きく息を吸い込み、ブレスとして吐き出した。
かつてイースィンド防衛隊に放った「手加減」とは比べ物にならない。吹きかけられた混沌龍の吐息は、大地を染め、悪神たちを呑み込んで、ごうごうと黒く燃え盛った。
これこそが【混沌の炎】。魔王にも恐れられた灼熱のブレスは、かつて何柱もの悪神を滅ぼし、あるいは退けてきたものだ。
そう、ルートゥーは経験則として知っていた。神という名がついてはいるが、悪神とはただの魔物だということを。傷つきもすれば死にもする、脆弱な生き物だということを。
だからこそ、探るような真似はせず、いきなりブレスを吐きかけたのだが――。
しかし。
「……なに?」
風に巻かれて炎が流れ、やがて視界も晴れる頃。
ルートゥーの正面、迷宮の入り口付近には、依然として悪神が立っていた。
変わらぬ微笑で、構えるようなこともせず、ただじっとルートゥーを見上げている。
「これは……」
あり得ないことだ。あの悪神には、ブレスを防ぐ力はない。
強力な魔導具も確認出来ない。そのような力の流れは感じない。
だとすれば――。
「あいつの仕業か」
視線を悪神から横に移す。
そこではくせ毛の少年が杖を構え、何やらへらへらと笑っていた。
「どぉぉうだ?」
優介。〈マジック・シューター〉の優介。
彼はずれた眼鏡を直しつつ、得意げな顔でわめき散らした。
「通じるもんか! お前のことは研究したんだ! 【オーラコート】! 【サンクチュアリ】! お前のブレスは通じない!」
飛び跳ね、拳を握り締め、あるいは杖を振り回し、優介は喜びを全身で表現する。
かと思えば杖を肩に担ぎ、【スパイラル・レーザー】をデタラメに射出し始める。
「くっ! 狂人がっ!」
さしものカオスドラゴンも、あれほどの魔法を受けて無傷とはいかない。
渦巻く光線を飛んで避け、あるいは翼で軌道を逸らし、どうにか距離を詰めようとする。
しかし、あの魔法使いの狙いは正確無比で、やがてルートゥーは真正面に捉えられ――。
「【ミラーコート】!」
混沌龍を狙った光線は、鏡の膜によって弾かれ、消えた。
「アアアアッ!?」
目を見開き、怒りを露わにして、杖を振り回す優介。
彼の攻撃を防いだのは、人工聖女、メリッサだった。
「ダメ。傷つけさせない。みんなはわたしが守るから」
淡い光を体に帯びて、それを守護の力として操るメリッサ。
人工とはいえ聖女は聖女。その癒しの力、そして守護の力は、混沌龍に勝るとも劣らなかった。
「おまえーッ!!!! このチート野郎が!!!!」
怒りに任せて、続けざまに魔法を放つ優介。
【フレイム・スフィア】。【アイシクル・フォール】。【サンダー・ブリッツ】。【アース・ブレイカー】。
そのすべてが障壁に阻まれ、あるいは見えない手でかき消され、その効力を失っていく。
人工聖女メリッサには、あらゆる魔法が通じない。少なくとも彼女が十全の状態では、優介の魔法はまるで意味をなさなかった。
「【レーザーレイン】!!!!」
「無駄だよ」
優介のとっておき、光線を雨のように降らせる極大魔法も、傘を差すように防いでみせる。
そしてそれは、彼女のみならず、仲間を守る盾にもなっていた。
「……くっ」
不利を悟り、じりじりと後退する優介。
そこに腕を押さえた蓮次が合流し、二人は悪神の両脇へと戻っていった。
――第一陣、三対三の攻防は、一方的な展開を見せた。
前衛は龍の尾に吹き飛ばされ、後衛は力量差を思い知らされた。二人を従える悪神は一歩も動けず、戦いに介入することも出来ず、ただその場に立ち尽くしている。
悪神? 状態異常を司る神?
人間相手ならおよそ敵なし、勇者でなければ抗えない魔物も――。
状態異常が通じない混沌龍。状態異常を防ぎ、癒しを与える聖女。彼女らが相手では分が悪い。
加えてここには貴大もいるのだ。かつて蓮次を倒し、ルートゥーとも好勝負を演じた青年が、気力をみなぎらせて立っている。
悪神側に、万に一つも勝ち目はなかった。何かを企んでいそうなそぶりを見せたが、小細工など通じない、圧倒的な力がここにはあった。
「覚悟しろよ」
貴大は静かに告げた。
「お前の悪だくみも、ここで終わりだ」
再びナイフを構える貴大。
それを逃れる術は、悪神ごときにあるはずが――。
「ああ」
「なんて」
「なんて素敵なんでしょう!」
「っ!!」
悪神の体から湧き上がるオーラ。
それは霧のように広がって、周囲一帯を包み込んでいく。
黒く霞む視界はどんどん不鮮明なものとなっていき、体からはゆっくりと力が抜けていき――。
「馬鹿な!」
最初に、ルートゥーが声を上げた。
あり得るはずのないことが起きた。かつて起り得なかったことが起きた。
彼女を蝕む力の正体。それは状態異常【衰弱】。心身共に弱り果て、やがて立つこともままならなくなるこの症状は、【衰弱】の仕業に違いない。
だが、それはあり得ない。【猛毒】も【狂乱】も、どんな状態異常も混沌龍には通じないのだ。【衰弱】も例外ではない。なのに、彼女はゆっくりと弱っていって――。
「【セイクリッド・ライト】!」
素早く対応したのはメリッサだった。
彼女はあらゆる状態異常を治し、しばらくの間、再発を防ぐスキルを使った。
しかし――治らない。癒しの光は意味をなさず、黒い霧に遮られて消失する。
「そんな……!?」
目の前の出来事が信じられず、再び、【セイクリッド・ライト】を唱えようとするメリッサ。しかし、それより早く【衰弱】は彼女の体を蝕んで、その体を倒れさせた。
「何が……!?」
メリッサが倒れ、ルートゥーが膝をつき、辺りが薄闇に包まれる状況下で。
貴大は、何が起きたのかを必死に考えていた。
(俺やルートゥー……老龍のじいさんが知らないスキルが……あったのか……?)
違う。そんなはずはない。既存のスキルにそのようなものはない。
千年を生きたルートゥーも、智龍と呼ばれた老龍も、「そんなものはない」と断言したのだ。悪神程度では、何度やっても、どうあがいても、混沌龍に勝つことは出来ない。よしんば力が底上げされたところで、覆せない「能力差」が両者の間にはあった。
同じレベル、同じユニークモンスターとはいえ、悪神と混沌龍では格が違う。
だからこそ少数精鋭、他の者たちに街と国との防衛を任せ、たった三人でここまで来たのだが――。
甘かったのか? 【状態異常無効】を無効化する手段が――【セイクリッド・ライト】を打ち消す力が――あるはずがないと思い込んでいたことが――。
「うふふふふふふふふ……」
やがて辺りが黒い濃霧に包まれた頃。
倒れ伏した貴大たちの元に、ゆっくりと悪神が近づいてきた。
「残念でした。せっかく、元凶が目の前にいましたのにね?」
サプライズパーティーを仕掛けた子どものように。
秘密を打ち明ける恋人のように。
悪神は紅い唇を歪め、くすくすと笑い声をもらし続ける。
「気概は見せていただきました。立派でしたよ。滑稽なほど立派でした」
「な、に……」
「素晴らしい迫力でした。昔の私なら、悲鳴を上げていたかもしれません」
「ぐ……」
「でも、もう、貴方は何も出来ない。このまま黙って、私に食べられてしまうのです」
「食べる……俺、を、食うのか……?」
「ええ、もちろんですとも! 美味しくいただかせてもらいます!」
悪神は愉悦に満ちた顔で、下品に舌なめずりをしてみせた。
それが本性であるかのように――赤い舌で、べろり、べろりと――。
「ああ、楽しみです。これで私はもっと強くなれる。もっともっと強くなれる」
「ど、うい、う」
「言ったでしょう? 心が力を与えてくれたと。活力がみなぎったと」
悪神は天を仰ぎ、両手を広げた。
霧の向こうで輝く太陽を見つめ、眩しそうに目を細めた。
「最初に異邦人の魂を食べた時、私は気がついたのです。異なる世界のものを我が身に取り込めば、『この世ならぬ者』になれると」
「…………それ、は」
「この世界のものであって、この世界のものではない。神の定めたルールから、逸脱することが出来たのです。まず最初に、レベルの上限がなくなりました。その次に、本来、この世界にはなかったスキルを覚えました」
「…………う」
「魂を取り込めば取り込むほどに、私は際限なく強くなれた。強くなるほどに自由になっていく心を感じられた」
「…………」
「今の私はレベル300。貴方よりも、あのドラゴンよりも、ずっとずっと強い。この世界の誰よりも、私は強く、大きく……そして、自由」
その言葉を証明するように、悪神はその場でくるくると回った。
踊るように、しかし、視線は貴大から外さず、彼女はステップを刻み――。
そして、いよいよ貴大に手をかけた。
「貴方を食べれば、きっと、もっと強くなれるわ。もしかすると、この世界の外にも出られるかもしれない」
「や、めろ」
「どうなるのかしら? 考えただけで胸が高鳴るの。貴方の世界にも行ってみたい」
「やめろ……!」
「大丈夫。きっと痛くないわ。分からないけれど、多分、そうだと思うの」
「やめろォォォォォッ!!!!」
「じゃあ」
「いただきます」
赤く、大きく、広がる口。
それが貴大の、最後の――。
……………………………………・………………………………・………………………………・………………………………・………………………………・………………………………・………………………………・………………………………・………………………………・………………………………・………………………………・………………………………・………………………………・………………………………・………………………………・………………………………・………………………………・………………………………・………………………………・………………………………・………………………………
どこか遠くで音がする。
聞き慣れたような、懐かしいような、奇妙な鐘の音が響く。
同時に、誰かが俺の肩を揺さぶって――。
「おい、起きろよ。いつまで寝てんだ」
「む、あぁ……」
いつの間に眠っていたのだろう。人気の失せた教室は夕焼けに照らされ、寝起きの目には痛いほど赤く染まっている。
(教室……か?)
そうだ、ここは教室。明志高等学校の俺のクラスだ。
目の前には親しい友人の姿がいた。少し天然パーマが入った黒髪の少年が、制服の上にまとった学校指定のコートを揺らし、俺を急かす。
「今日は≪Another World Online≫でカレー作って食おうぜ、って話だったろ? 早く帰ろうぜ」
「そう、だったな」
そうだ。そうだった。仮想現実で食べるカレーの味はどんなものなのか、ここ一週間はそればかりを話していた。昨日の夜、やっとの思いでスパイス・ドレイクから『カレー粉』を作り出す最後の素材を入手したんだったな。
うん、思い出してきた。今日は、いよいよそれを使ったカレーをみんなで食おうという話になったんだった。こんな所で寝てる場合じゃねえ! はよ帰らな。
――でも、少し引っかかる。
「なぁ、優介」
「ん? なんだ」
向こうからだと逆光になるのか、少し眉を寄せ、目を細めてこちらを振り返る優介。その姿はいつも通りで、どこにも違和感はない。だとすると、原因はこいつではなく――。
「ゲームしてる場合じゃない……って、気がするんだけど」
「はぁ?」
そう、そうだ。俺は眠る前、何か大事なことをしていたはずだ。先生の手伝いだったか、クラスメイトの頼まれごとか――いや、どれも違う。どうにも思い出せない。でも、確かに、何かの途中のはずなんだ。
でも、優介はそれを笑って否定する。
「ははっ、お袋さんに叱られる夢でも見たのか? 期末試験はまだ先だぞ」
「夢……」
そうかもしれない。夢の話を現実だと勘違いしていただけなんだ。そうだよ、あれは夢だ。
(……あれ?)
肝心の夢の内容が、全く思い出せない。夢ってそういうもんだけど、今日はどうにも引っかかる。あれは何だったか、どういう夢だったのか――。
「おーい、貴大。帰るぞー!」
――そうだな、帰ろう。先に行った優介が呼んでいる。
たかが夢だ。いつまでもこだわるもんじゃない。家に帰って、飯を食って、VRゲームをして寝よう。いつも通りだ。
退屈で、たまに楽しくて、変わり映えのしない。
俺の日常に、事件なんて起こるはずがない。
いつも通りの帰り道、夕暮れの街を、俺と優介はおしゃべりをしながら帰っていった。
ここが
幸せな世界
ずっと続く
あなたの現実




