意思と決意
「こ、このぉー! 近寄ると酷いんだからね!」
「がうううううっ!」
大衆食堂〈まんぷく亭〉。その裏手から少し離れたゴミ捨て場で、二人の少女が男を威嚇していた。
「そういうなよ……つれないぜ……へ、へへ」
胡乱な目をした男は、少女たちを袋小路に追い込むように、のたのたと歩いている。尋常ではないその様子に、クルミアは歯をむき出しにして唸り、カオルは箒を剣のように構えている。
男の足元には、止めに入った常連客が倒れていた。恰幅のいい老人は、折れた足を押さえ、苦渋に顔を歪ませている。彼は元冒険者であり、酔漢、悪漢の類に後れを取るはずはないのだが――。
腕利きの戦士には、決して見えない赤毛のチンピラ。冬空の下、シャツ一枚で寒がりもしない彼は、力も、様子も、常軌を逸していた。
「クルちゃん、ほ、ほら、逃げて! ほら、ピョンって跳んで!」
「で、でも……!」
慌てるあまり、カオルには状況が見えていなかった。
背の高い民家を、どうやって跳び越えるというのか。身体能力に優れた獣人であっても、無理なものは無理だ。それ以上に、カオル一人を置いて逃げられないと、幼いクルミアはその場でオロオロとしていた。
「いい『粉』があるんだ……分けてやるから、さぁ」
そう言って男が差し出したのは、粒の荒さと、色の汚さが目立つ粉だった。いつか『アンダー・ザ・ローズ』が撒いた麻痺薬によく似たそれは、しかし、混ぜ物の方が多いのか、黄色くくすんで見える。
小瓶から取り出し、震える手でそれを吸い込んだ男は、どろりと瞳を濁らせて――更に覚束ない足取りで少女たちに迫る。
「こ、来ないでってば! ……きゃっ!?」
カオルが突き出した箒は、あっけなく握り潰された。
箒の先端近くをつかみ、そのままボキリと折った男の手は、木片が食い込んで血が垂れている。だというのに、男はむしろ気持ちよさそうに目を細め、血まみれの手をカオルに向ける。
『どこだ、カオル! 裏手かーっ!?』
悲鳴を聞きつけたのか、あるいは近所の住人が知らせたのか、まんぷく亭の中からはアカツキの声が聞こえる。
頼れる父は、すぐに駆けつけてくれるだろう。だが、それよりも早く、男の手はカオルに届き――。
「ぎっ!」
その肌に触れることなく、地面に落ちた。
「……ふー」
「タカヒロッ!」
悪漢に代わって現れたのは、カオルとクルミアがよく知る青年。何でも屋の佐山貴大だった。
突風のように駆けつけて、男の襟首をつかんで投げ飛ばした貴大は、額に浮かんだ汗をぬぐってカオルたちに目を向ける。
「大丈夫だったか?」
「タカヒロ~!」
体は大きいけれど、本当は気弱なクルミアが、よたよたと近づいて貴大に抱きついた。クルミアを守るために武張っていたカオルも、折れた箒を落として、その場にぺたんと尻餅をついた。
「た、た、助かったよ~……ありがと、タカヒロ」
「ありがと、じゃねえよ。人目も警備も足りてねえんだから、外をうろちょろするなって」
「ごめん~」
腰を抜かしたカオルと、貴大に抱きついてぐずっているクルミア。そして、白目をむいて伸びている男を見て、貴大は心をざわめかせた。
(騎士も冒険者も前線に出てる……でも)
これは、おかしい。
緊急時とはいえ、グランフェリアは腐ってもイースィンドの王都だ。街の治安は他の都市とは比較にならず、闇に潜んだ裏社会の者も、いくらか物分かりがいい。
だというのに、ここ数日の騒動はどういうことなのか。魔物討伐に人手が割かれた瞬間に、無軌道に暴れる男たち。彼らに明確な目的はなく、本能をむき出しにした男たちは、街の各所でトラブルを起こしていた。
「ねえ、タカヒロ。これって『クーデター』ってやつなの?」
「ちげーよ。んなわけあるか」
そうだ。グランフェリアの陰に根を張る者たちは、言うなれば『賢い寄生虫』だ。富に吸い付くことはあれ、宿主を殺すほど愚かではない。大国を乗っ取るのではなく、寄生する方が美味しい汁が吸える。そのことは重々分かっているはずなのだ。
だというのに、境界線を軽々と飛び越えてくるのはなぜか。何が彼らを狩り立てて、タガを外させるのか。
(……また『これ』か)
気絶した男のそばに転がる小瓶を目に留め、貴大は苦々しげに舌打ちした。粗雑な麻薬に混ぜられた、純白の粉。この世ならぬ品と言われた薬品からは、悪神の匂いがすると老龍は言う。
この混合薬が、人々の頭も心も痺れさせる一因となっている。この四日、貴大は薬品の回収に奔走していた。
「カオルー! 無事かっ!? 悪いやつぁどこだっ!?」
「わーっ!? お父さん、踏んでる踏んでる! 痴漢踏んでる!」
「わうーん!?」
やがてアカツキが駆けつけて、路地裏は一気に騒がしくなる。後は彼に任せておけば、警邏隊を呼び、男を突き出してくれるだろう。
「ふぅ……」
貴大は騒動に巻き込まれる前に、こっそりその場から離れていった。
表通りに出たところで肩を落とし、小さくため息を吐き、そして――。
(……根元から断たなきゃ、ダメか)
何かを決意して、東南の空を見つめていた。
悪神の訪問から四日。イースィンドを、そして佐山貴大を取り巻く環境は、瞬く間に変わっていった。
「東部で冒険者たちが戦っていますね」
「南西では軍が魔物の迎撃に当たっています」
「北の海は静かなものです。でも、王家は警戒を怠っていないようですよ」
「そうか……」
ルートゥーの屋敷の応接間には、壁際にシャドウ・ドラゴンたちがズラリと並んでいる。彼女らの報告を受けているのは、貴大を中心としたレベル250の猛者たちだ。
「人間たちだけで対処は可能か?」
「はい。包囲網のような形ですが、規模としては繁殖期の群れと変わりません。イースィンドほどの軍備とノウハウがあれば、問題ないかと」
「それなら任せておけばいい。我らの敵は悪神だ。雑魚ではない」
そう言って鼻を鳴らすのは、腕を組んだルートゥーだ。縄張りを荒らされ、更には先手を打たれたのが気にくわないのか、顔をしかめて報告を聞いている。
調査など必要ない。居場所が分かっているのなら、すぐに行こう、行って倒そう。そう気炎を上げる彼女を、薄桃色の聖女がたしなめる。
「ダメだよ。相手は一柱の神だよ? 侮っちゃいけないし、それに……」
ちらりと、貴大の顔をうかがうメリッサ。彼女は言葉を選びながら、ルートゥーを何とかなだめようとする。
「タカヒロくんと同じくらい強い人が、二人もいるんだよ? だから……」
「むうう」
逸る気持ちをどうにか押さえ、代わりにルートゥーはポッ、ポッ、と小さな炎を吐いた。
それが燃え盛る業火に変わる前に、早く方針を決めなければならない。偵察に出たシャドウ・ドラゴンたちが帰ってきた今が、決断の時だった。
「……あそこにいるんだな?」
「はい。タカヒロ様に教えていただいた荒野に、地図にない地下迷宮が出来上がっていました」
「門番のように、入り口に二人の男性が立っていましたよ。戦士風の子と、魔法使い風の子。特徴も例の二人と合致します」
悪神が言った『あの地』。全てが始まった寂寥の荒野に、三度、地下迷宮が現れた。
四年前、VRゲーム内で出現し、貴大たちを異世界へと引き込んだ。二年前、元の世界へ戻ろうと死力を尽くした〈フリーライフ〉のメンバーを引き裂いた。そして今、あの迷宮で悪神が待ち構えている。かつて別れた仲間たちと共に――。
「分かった。行こう」
「おおっ!」
意を決し、立ち上がった貴大に飛びついたのは、鬱憤が溜まっていたルートゥーだ。こそこそ動く薄汚い悪神を、渾身の力で叩き潰してやろう! 目で訴えかける混沌龍を抱え、貴大はメリッサに声をかけた。
「俺とルートゥーとメリッサ。悪神討伐はこの三人でやる」
「――うん、分かった」
穏やかな表情。しかし、強い意志を宿した顔で、メリッサはゆっくりとうなずいた。
「悪神など鎧袖一触! 与する者は性根を叩き直してやろうぞ!」
翼を広げたルートゥーは、待ってましたとばかりに破顔一笑し、強く貴大の手を引いた。
「王都はわしらが預かるよ」
「「「お任せください!」」」
老龍はゆったりと構え、ずらりと並んだシャドウ・ドラゴンたちは胸を張る。留守は任せろと貴大たちを送り出す。そして、先ほどから部屋のすみに、うつむきがちに控えていた少女は、
「……お戻りになるのですよね?」
どこか縋るような目を、貴大に向けた。
「ユミィ……」
大丈夫だとは言えない。無事に戻れるとは自分でも思えない。
長きに渡り暗躍していた相手だ。一重にも二重にも罠をしかけ、策にはめようとしてくるだろう。
それでも自分のため、仲間のため、グランフェリアのため――何より、ユミエルのために、貴大は死力を尽くすつもりでいた。
「さっさと倒してくるからさ。飯でも用意しててくれ」
あえて笑顔を見せたのは、強がりではなく、必ずそうするという決意表明だ。
悪神という非日常を倒し、日常へと帰ってくる。その意思を込めて、貴大はユミエルの頭を優しく撫でた。
「……ご武運を」
「ああ!」
袖を引くようなことはせず、ユミエルは貴大を送り出した。
主人を見上げる目にあったのは、彼に対する信頼だ。貴大ならば、悪神ぐらい一蹴できる。それを信じての短い言葉だった。
「それじゃ、行くぞ!」
「おうっ!」
「うんっ!」
ユミエルや老龍、シャドウ・ドラゴンたちに見送られ、貴大たちは王都を出た。
三人が三人とも激戦の予感を覚えていたが、負ける気など更々なかった。この面子であれば、魔王だって倒してみせる。青年と混沌龍、人口聖女というちぐはぐなパーティーだったが、それが悪神に劣るとは、誰も考えていなかった。
万難を排し、悪神を討伐してみせる。意気込む貴大たちの士気は高い。王都を離れてからはルートゥーの背に乗り、彼らは一路、荒野を目指した。
いつか目指したその地へと。今なお禍根を残す迷宮へと。
風を切って上空を進み、山や川を横切って、そして――。
ついに、諸悪の根源と対峙した。




